1.愛と性の女神
小鳥達が、にぎやかにさえずっている。
木々の葉がさわさわと風に揺れる音がする……。
「ん……」
「おはよう、マリアーナ」
寝台の傍らが沈み、低い声が耳もとでささやいた。
「ヴォルフ……?」
かすかに花の香りがする。
ゆっくりと目を開けると、目の前にヴォルフの整った顔があった。
「…………!」
「ん? どうした?」
あまりにかっこよくて、びっくりした……。
昨日までも素敵だったけど、今までよりもっと輝いて見える。
「お、おはよ……」
寝台の端に座ったヴォルフは、もう着替えていた。
ふと見ると、枕もとの小卓に木のコップが置かれていて、そこに小さな花束が飾られている。
「お花……?」
「ああ。朝、摘んできたんだ」
うれしい……。
喜びで、顔がぽっと赤くなる。
「……体は大丈夫か?」
昨夜のことを思い出して、さらに真っ赤になってしまった。
「う、うん、もう平気」
あの体がぐずぐずにとけてしまうような熱は、さっぱりと消えている。
体調が元通りになってほっとした――けれど、立てない。寝台から下りて立とうとするけれど、膝が崩れてしまう。
「無理するな」
ヴォルフが笑って、抱きあげてくれた。
身支度をしてテラスに出ると、昨夜は見えなかった湖を木々の向こうに望むことができた。
水面が朝の光にキラキラと輝いている。
「綺麗……」
机と椅子が出されていて、ヴォルフが下から朝食を持ってきてくれた。
「ありがとう。下に食料庫があるの?」
「まだ簡単なものだけどな」
果物と固焼きパンと、冷たい湧き水。
かまどができたら、パンを焼こう。鶏を飼って、卵を採るのもいいかもしれない。
「楽しそうだな」
「うん、いろいろ楽しみ。ねぇ、ヴォルフ、どうしてわたしがこうしたいってわかったの?」
「こうしたい?」
「昨日、テラスを見た時に、ここでお茶がしたいなって思ったの」
ヴォルフはとろけそうな笑みを浮かべた。
「俺もそうしたかったからだと思う」
並んだ椅子に腰かけたヴォルフが、わたしの体を引き寄せ口づける。
「ん……っ」
昨夜の快感を思い出して、小さな声が出てしまった。
ヴォルフの目が一瞬熱く光って、わたしの体を持ちあげ、自分の膝の上にのせた。
「んっ、ヴォルフ、重くない?」
「全然。羽のように軽い」
朝ごはん代わりに食べられてしまいそうな、深い口づけ……。
「ヴォルフ、もうおしまい……。まだ、朝よ」
「うん、朝だな……」
気もそぞろに口づけを続けようとするヴォルフ。
「これ以上は……だめ」
「だめか?」
キューンと悲しそうにうなだれる狼さんが、人の姿のヴォルフに重なって見える。
ヴォルフの願いはなんでも叶えてあげたいけど、ちょっと今は無理な気がする……。
わたしが困っていると、
「わかってる。残念だけど、無理はしない」
ヴォルフが小さく笑って、軽くおでこに口づけた。
「また夜に、な」
「ヴォルフ……っ」
どんどん頬に血が集まっているのが、わかる。なんだか凄く恥ずかしくて、顔を覆ってしまったけど、これだけは言っておかなければ。
「ありがとう。大好き」
「…………!」
壊れそうなくらい、強く抱きしめられた。
わたしの首筋に顔をうずめたヴォルフが、くんくんと匂いを嗅ぎ、襟足を舐める。
「あ……わたし、臭わない?」
「いい匂いがする」
「そうじゃなくて! あの……いろいろあって……そのあと、湯浴みしてないし……」
体の汚れは、夜の間にヴォルフが綺麗にしてくれていたみたい。
でも、この島にも温泉があるって言ってたし、できれば湯浴みしたいなあ。
すると、ヴォルフが眉をひそめて、もの凄く怖い顔をした。狼の姿だったら、唸り声を上げていそうだ。
「あいつの……国王の匂いは、全部上書きした。俺のマリアーナに……許せない」
「待って! 大丈夫だから。もう覚えてない。わたしが肌を合わせたのは、ヴォルフだけよ」
今にも飛び出していきそうな雰囲気に、慌てて止めると、ヴォルフはまたすがりつくようにわたしを抱きしめた。
その背中を、子供をあやすようにポンポンと叩く。
「ねぇ、ヴォルフ、温泉があるのよね? わたし、温泉に入りたいな」
ヴォルフの狼の耳がピンと立った……気がした。
「温泉、あるぞ。マリアーナが好きだと思ったから、探したんだ。食器を片づけたら、行こうか」
「うれしい!」
その時、ヴォルフのまとう空気が、急にサッと固いものに変わった。
「どうしたの……?」
緊張……、そして、警戒。
「…………」
わたしを膝にのせて抱いたまま、テラスの隅の一点を凝視する。
明るい朝の陽だまりの中。それは突然ふっと現れた。
ふよふよと漂う、小さな球体……。
ぼんやりと白く光り、かすかに明滅している。
「聖なる、水晶!?」
思わず叫んでしまう。
ヴォルフがわたしをなだめるように、背中をさする。
国王陛下がまた聖なる水晶を復活させて、わたしを追ってきたの?
ヴォルフと離れるなんて、もう絶対にいや……!
「大丈夫だ。俺がついてる。あれは人間達の作った水晶じゃないから、心配しなくていい。……まあ、面倒だが」
聖なる水晶じゃない……?
そう疑問に思って見てみると、確かにちょっと違う。弱々しい光り方とか、大きさとか。
聖なる水晶が人の頭ほどあるとしたら、それは子供の拳ほどの大きさしかなかった。
小さな白い球体が、くるんと空中に輪を描いた。
『ハァイ、おはよう! わたくしよ、わたくし』
「…………」
『レ、ク、ト、マ、リ、ア!』
沈黙が辺りをつつむ。
『あら……? なぜ反応がないのかしら?』
ヴォルフが深くため息を吐いた。
「何か用か」
『ご挨拶ねぇ。せっかく女神様が来てあげたのに』
「頼んでない」
『まぁまぁ、落ち着いて』
「落ち着いてる!」
女神様にからかわれて、青筋を立てるヴォルフ。
女神様はたぶん、ヴォルフが可愛いのね。思春期の弟をかまいすぎて嫌われてしまった、近所の宿屋のお姉さんに似てる。
『えー、わたくし、ヴォルフに嫌われてるの……?』
しゅんとする女神様。
そう言えば、女神様は心の中の声も聞こえるんだった!
『あら、今はそんなに聞こえないのよ。日中だし。ほら、現身もこんなに小さくて弱いし』
「いえあのっ、申し訳ありません! 近所に住んでた女の人と女神様を一緒にするだなんて!」
慌てて謝ると、白い玉はふよふよとわたしの頭の上を旋回した。
『いいのよ、ふふっ。マリアーナちゃんがわたくしを怖がらなければ、それで』
「……ありがとうございます」
『それにしても、仲睦まじいわね~! 朝からイチャイチャしちゃって!』
「えっ……!?」
あ、わたし、ヴォルフの膝に抱っこされたままだった!!
急いで下りようとしたら、ヴォルフにぎゅっと腰を抱かれて止められた。
「このままでいい」
「でも、女神様の前で……」
「いないものと思えば」
『酷い! 酷いわー』
「…………」
『ねぇ、あなた達、性交したの!? してないわよね? なんで!?』
ヴォルフが眉をひそめた。
「あんたのほうが、よっぽど酷い」
せ、性交?
女神様の口からまさか性交なんて、言葉が出るわけが……。そう言えば。
愛と豊穣の女神レクトマリアは、実は愛と性の女神なんだった……。
『そうよぉ、なんで愛と豊穣の女神ってことになったのか知らないけど、わたくしは愛と性の女神よ! うふふっ』
恋するふたりがようやく一つになった――かと思ったら、まだだったみたいです(笑)。
次回「男は狼、女は聖女」。
女神の加護って、そういうことだったの!?




