4.国王陛下との再会
ヴォルフはいつの間にか姿を消していた。
わたしは独り、森より少し高い崖の上から、聖なる水晶が近づいてくるのを見つめる。
時折木々の枝の影に隠れて明滅する白い光は、近づくにつれどんどん明るさを増していく。
聖なる水晶の周囲には、何人か、集団になった人間がいるようだった。光に照らされる人影と、小さなざわめき。
おそらく水晶の反応を見ながら、聖女を追ってきているのだ。
「うわあっ! 聖なる水晶が」
「また聖なる水晶が割れてしまうぞ!」
男達がわたしの立っている崖の下にたどりついた時、叫び声がした。
水晶が灼熱の太陽のように強く光り、薄く煙が上がりはじめる。
「聖なる水晶を遠ざけよ! そこの神官、早くここを離れるのだ!」
水晶を抱えた神官と思われる男が、慌ててこの場から走り去る。
だいぶ離れたところで、水晶から放たれる光が少し弱まり、その神官は立ち止まったようだった。
「……聖女様! そこにいらっしゃるのは聖女様でしょうか?」
崖下に留まった男達のひとりが、わたしに声をかけてくる。
「大神殿の神殿長にございます。聖女様、どうぞ私どもが近くに寄り、言葉を交わすことをお許しください」
神殿長……?
王都の大神殿でお世話になった、あの白髪白髭の神殿長様?
かなりのお年だったと思うのだけど、ご本人がこんなところにまで足を運んだのかしら。
驚きは、それだけではなかった。
「聖女殿! 私はレクトマリア神聖王国、国王オルヘイム二世。聖女殿をお迎えにあがりました」
こ、国王陛下!?
暗くて顔ははっきりしないけれど、確かに声は、国王陛下のよく響く低い声だ。
陛下からも、わたしの顔はほとんど見えていないと思う。
陛下はそのまま声を張って、話しつづける。
「先日、王都にて執り行われた聖女継承の儀が失敗に終わったことは、ご存知でしょうか。儀式で聖なる水晶は光らず、聖女モーリーンは聖女の証を立てることができませんでした」
モーリーンが失敗した……?
それでは、「聖女の力が失われた」という、あの街の噂は本当だったの?
「その後、聖なる水晶から細いひと筋の光が放たれ、常に一定の方向を指ししめすようになったのです。我々は、それこそが真の聖女の居場所を示す啓示ではないかと考え、こうしてここまで参りました」
「…………」
「どうか聖女殿に拝謁する栄誉を、我らにお与えください」
真の聖女……。
そう。ここを下りたら、わたしは身代わりの聖女ではなく、本物の聖女になるのだ。
わたしは、彼らに聞こえるように大きな声で返事をした。
「国王陛下、今そちらに参ります。お待ちくださいませ」
下のほうで、陛下や神官達、護衛の騎士達がどよめく気配がした。
わたしはできるだけなだらかな斜面を探し、彼らの前に下りていった。
王国を代表する男達の鋭い視線が集中するのを感じる。
「国王陛下、神殿長様、ご無沙汰しております」
わたしは大神殿の聖宮で習った正式なお辞儀をする。
冒険者用の上着はドレスのように裾が長くはないので、形だけのカーテシーだ。
男達が息を呑んだ。
「あなたは……? その黒髪、聖女モーリーンにそっくりなお顔……もしや、もしやあなたはマリアーナ様では?」
神殿長が大きくわなないた。その声もまた震えている。
国王陛下も驚愕の声を上げた。
「マリアーナだと? マリアーナは深淵の森へと追放したはず。なぜ、おまえがここにいる?」
陛下も神殿長も、信じられないものを見たかのように、目を見開いている。
「確かに、わたしはマリアーナです」
「生きていたのか……」
「はい。深淵の森で、親切な方に助けていただきました」
「深淵の森から生還する者がいるとは……。しかし、ここは深淵の森からもかなり離れているが」
「その方に森での暮らし方を教えていただき、あちこちを転々としておりました」
「そうか。聖なる水晶が、なぜここへ向かったのか……。まさか」
陛下が改めて何かに気づいたようにおののいた。豪胆な陛下の声も、かすかに震えているようだった。
「まさか、真の聖女とは――マリアーナ、おまえだったのか!?」
騎士達が簡単な野営の準備をしている。
夜明けまではあとわずかだが、とりあえず落ち着いて話をしたいという国王陛下の指示で、火が焚かれ、折りたたみ式の小さな椅子が並べられた。
深淵の森を出てからの生活や、聖なる水晶のことをぽつりぽつりと話していた陛下とわたしの前に、温かいお茶が出される。
「マリアーナ……、いや聖女殿。これまでの度重なる無礼を許してほしい」
陛下が姿勢を正し、改まった口調で言った。
「無礼、なんて」
「私は、聖なる水晶の破損が、強すぎる女神の加護のためだったとは思いもしなかった。それほど強い加護を持っていた聖女は、歴代でもいなかったのだ」
「それは……いえ、なんでもありません」
「あなたが聖女として帰ってきてくれたら、王国はかつてない恩寵を得られるだろう……」
陛下が椅子から立ちあがり、わたしの前で片膝を立ててひざまずく。
周囲の視線が集まる。そして、騎士達も神官達も、いっせいにわたしのほうを向いてひざまずき、頭を垂れた。
「陛下!? 皆様も!?」
「聖女マリアーナ、どうか国民のために、王宮へ――私のもとへ、戻ってもらえないだろうか」
大勢の男達が、静かにわたしの言葉を待っていた。
レクトマリア神聖王国の頂点に立つ人が……一度は、わたしを聖女の名をかたる強欲な女だと断罪した国王陛下が、わたしの前にひざまずき、わたしの帰還を乞うている。
「陛下! どうぞ頭を上げてください」
「では、私の願いを叶えてくれるのか?」
「わたしはもとより、いったん帰郷するつもりでした。聖女の件も陛下ときちんとお話したいと思っておりました。だから、もう……」
「そうか、感謝する。あなたは変わらず謙虚なのだな」
陛下はふっと苦笑した。
みんなに離れたところで待機するように命じ、わたしと陛下は焚き火の前の椅子に、ふたりで座り直す。
「モーリーンにだまされ、あなたを傲慢な悪女だと信じてしまうなど……、私も焼きが回ったものだ」
「あの、モーリーンは今……?」
「あの娘は聖女継承の儀のあと、聖宮に幽閉した。まだ事情は話していないし、処分もしていない。騒がれても困るのでな」
「そうですか……」
とりあえず惨いことにはなっていないようで、ほっとする。
冷めてしまったお茶をひと口飲み、横に並べた椅子に腰かけた陛下を見ると、陛下はじっとわたしを見つめていた。
「あなたを助けたという者は?」
「え?」
「どこにいるのだ。この深い森に、独りで住んでいたわけではあるまい」
「今は……もういません。わたしが国に戻ると決めると、去っていきました」
陛下の目の色が一瞬昏くなる。内側に熾火のような揺らめきが見えた気がした。
「それは男か?」
「そう、ですね」
「……よもやその男と関係を持ったとは言わぬだろうな」
「関係?」
「男女の関係だ。もしそのようなことがあったのなら、その男はただではすまないぞ」
視線に含まれた熱が、火吹き棒で風を送られた熾火のように熱く燃えあがる。
「聖女の初夜権は私にある。それは譲れぬ」
そう言うと、陛下はわたしの手を握った。
「……陛下」
わたしがそっと手を抜こうとすると、さらに強く握られる。
「その……そういうことはありませんでした」
「そうか」
焚き火の炎の陰で、陛下の太い指がわたしの手の甲をゆっくりと撫でた。
人差し指から中指、中指から薬指へとたどった陛下の指は、わたしの指の股に入りこみ、繰り返しこすりあげる。わずかな動きなのに、酷く淫靡だった。
「王宮に戻ったら、すぐに儀式の準備をする。できるだけ早く、聖女継承の儀、そして、初夜の儀を執り行うつもりだ」
「…………」
わたしは応えられずに、無言でうつむいた。
聖なる水晶に導かれ、真の聖女を探していた国王が見つけたのは、生きては帰れぬ森へ追放したはずのマリアーナでした。
次回「王都への帰還」。




