3.選ぶ道がなければ
洞窟の壁を彩るのは鉱物の欠片だろうか。
細く差しこむ月光に照らされて、暗い洞窟のいたるところが星空のように淡く輝いていた。
「……ヴォルフ」
静かな地底の星空の中で、わたしを抱きしめたままヴォルフはしばらく無言だったが、そのあと彼がこぼした言葉に、わたしは凍りついた。
「しかし、女神の加護はどうする?」
――女神の加護。
そう、わたしが本当に聖女だとすれば、わたしの乙女を捧げた相手に『女神の加護』が移るのだ。
「女神の加護が国王のものとなれば、また国が富み、民は平穏な生活を送ることができるようになるだろう」
けれど、ヴォルフにわたしのすべてを差し出してしまったら……?
「マリアーナはどうしたい?」
「…………」
「俺は、おまえを離さないと言った。俺からおまえを奪うものは許さない、と。その気持ちは変わらない」
ヴォルフは砂地にあぐらをかいて、足の間にわたしを座らせ抱えこんだ。
「だが、俺の想いを押し通すことが、マリアーナの幸せなのかどうか……俺には、わからない」
わたしを落ち着かせるように、ゆっくりと髪を撫でる。
「最初は、狼の小さな怪我まで気にするおまえの優しさや、無邪気な愛らしさに惹かれた」
わたしの頭のてっぺんに、優しい口づけが降ってくる。
「それから、自分を陥れた人間達すら思いやる慈愛の深さや、せめて立派な聖女になろうと一生懸命なところも。気づいたら、とても大切な存在になっていた」
わたしの黒髪をひと房手に取り、まるで神聖な誓いのようにそっと唇を寄せる。
「だが、自分の人生は自分で決める、強くなりたいと言ったマリアーナは、今までで一番輝いていた」
そして、わたしと真っ直ぐに目を合わせた。
何かを迷い揺れていた金色の瞳は、今は覚悟を決めたように力強かった。
「マリアーナには三つの道がある。聖女となる道、普通の女性に戻る道、俺とともに在る道だ」
三つの道……。
一つめは、初夜の儀で国王に女神の加護を与え、国王の寵愛を受け、国を守護する聖女として生きる道。
わたしひとりが犠牲になれば、国も人々も守ることができる。
二つめは、眷属神の神力が消えるのを待ち、普通の女性として妻となり、母となる道。
時間はかかるかもしれないけれど、わたしを染めている神力が薄れれば、他の女性が聖なる水晶に認められる可能性もあるだろう。
そして、三つめ。
国を捨て、国民の幸福には目をつぶり、ヴォルフとふたり、ひっそりと深い森の奥で隠れ住む道。
「おまえが選べ」
ヴォルフは静かに言った。
……ヴォルフ。
強引にわたしをさらっていくこともできるのに、あなたはまた、わたしに選ばせてくれるのね。
身代わりの聖女として大神殿で暮らしていた日々。
あの頃もそうだった。
聖女に期待して優しくしてくれる国王陛下や神官達をだましているという罪悪感と、本当に聖女としてやっていけるのかという未来への不安。
つらくて苦しくて逃げ出したかったわたしを、ヴォルフは見守ってくれた。連れ去って懐に保護するのは簡単だっただろうに、わたしが道を決めるのを待ってくれた。
わたしの道。
どうする? どの道を選ぶ?
ああ、いっそ選ぶ道がなければ、わたしはヴォルフと行けたのに……。
* * * * *
最後の夜だ。
「好き」
今宵が、ヴォルフとの最後の夜になる。
「あなたが大好き」
結論はすぐに出た。
「世界中の誰よりも」
ヴォルフと行きたいと切望した時点で、答えは出ていた。
「何があっても、ずっと」
その道を行けないから、行きたいと思い惑うのだ。
「愛してる」
わたしは、国王陛下のもとに戻る。
* * * * *
わたし達は何もせずに、ただ寄り添っていた。
人間の姿を解き、大きな白銀の狼に変化したヴォルフのおなかにもたれかかり、ひんやりとした夜の空気を感じる。
ヴォルフの体のあたたかさ、匂い、美しい毛並みにつつまれる幸福感を、一生覚えておきたい。
「ヴォルフ、空が見たい」
国を出てから、ヴォルフの胸に抱かれて何度も空を見上げた。
夕焼け、夜空、夜明けの光。
すべてが美しく、優しく、幸せだった。
「……わたし達の旅の終わりに」
ヴォルフはわたしを背中にのせて、ゆっくりと歩いてくれた。
滝とは反対側に別の出入口があるようで、しばらく行くと外に出られた。
岩肌が剥き出しのやや高い崖の上のようだ。滝の轟音は酷く遠く、足もとの森はひっそりと暗かった。
薄明るい夜空を見上げる。
「月がない?」
月だと思っていた光の源は、天球を彩る星々だった。
「星月夜……。女神様、月のない夜なのに来てくださったのね」
女神レクトマリアは、月の化身。
月が満ちるとその神力が強まり、月が隠れると弱まるという。
「クゥン」
ヴォルフは不満そうだ。
単に強大すぎる神力を調整するのが面倒で、月のない夜を選んだだけだろう、とでも言いたそう。
その時、遠くにぽつりと光が見えた。
月でもなく星でもない。
小さいけれど、はっきりした白い光が一つ、木々の間を縫って近づいてくる。
「聖なる水晶……」
洞窟の中で、女神様がおっしゃっていた。聖なる水晶の本体が近くまで来ている、と。
あれがたぶん復活した水晶なのだろう。
聖なる水晶を羅針盤にして、人間達が追ってきているのだ。
あの人達がここに着いたら、今日が終わる。
あなたと過ごした毎日を、わたしは絶対に忘れないわ。
それは、誰にも奪えない、わたしだけの宝物。
夜が終わる。
次回「国王陛下との再会」。
本当の聖女はいったい誰だったのか――。
国王や神殿長が、初めてマリアーナこそが真の聖女だったのだと気づきます。




