2.牙の下に飛びこむ
「だから、神力を強めるな」
『失礼、つい興奮してしまって。あなたがマリアーナちゃんね、はじめまして。わたくし、ずっと逢いたかったのよ。銀の狩人の想いびとに。ぷぷっ』
ぷぷ?
今、ぷぷって笑った?
女神レクトマリアが……?
『だって、おかしくて。氷の如く冷徹で炎の如くかれ――』
「繰り返すな」
ヴォルフが苦いものを吐き出すように、女神様の言葉を断ちきる。
「用件を言え」
『はいはい。ねぇ、あなた、マリアーナちゃんをどうするつもり?』
マリアーナちゃんって……わたしのこと?
女神様が気軽な口調のまま続ける。
「どうするとは」
『このままマリアーナちゃんをさらって世界の果てにでも行くの? 人としての命が尽きるまで、自分の腕の中で、自分だけを見させておけば、それで満足なのかしら』
「…………」
ヴォルフは無言で女神様を睨みつけた。
わたしの背中に腕を回して、わたしを隠そうとするかのようだ。
「マリアーナは聖女じゃない」
『わかっているくせに』
「まだ、人間はわかっていない」
『悪あがきねえ。もう人の子は、気づいたわ。聖女が聖女ではないことに』
聖女が聖女ではない……?
わたしが聖女じゃないのはその通りなんだけど、聖女が聖女ではないってどういうこと?
『逃げるだけでは守れない。マリアーナちゃん自身が強くならないと、ね』
「…………」
『あら、もう時間。この影はそろそろ限界ねぇ。消滅する前に、ひとつ忠告しておくわ。聖なる水晶の本体が、近くまで来ているわよ。いずれにしても、心を決めるなら早くなさい』
宙に浮いていた光の玉が、一瞬強く輝いたかと思うと、パッと四方に散って消えた。
* * * * *
しばらく呆然としていたわたしが我を取り戻したのは、ヴォルフがわたしをぎゅうっと強く抱きしめたからだった。
「…………」
「ねぇ、ヴォルフ、教えて」
「…………」
「女神様のおっしゃっていたことは、いったいなんなの?」
ヴォルフのあたたかい腕の中で、その整った顔を見上げる。彼は苦しそうに眉をひそめて、目を閉じていた。
「……マリアーナが知らなくてもいいことだ」
「本当に?」
女神様は、逃げるだけでは守れないとおっしゃった。わたし自身が強くならなければいけないと。
今の状況はどうだろう。
わたしは国を、故郷を捨てて旅に出た。なんの憂いもない、幸せな日々。それはすべてヴォルフが守ってくれているからだ。
……でも。
「わたしも、ヴォルフを守りたい」
「マリアーナ」
「あなたにそんな顔してほしくない」
「マリアーナがいれば、俺はそれだけでいいんだ」
「……わたしね、妹のモーリーンと比べて出来が悪くて、『花のモーリーン、蕾のマリアーナ』なんて言われていて」
ヴォルフと出逢う前の自分を思い出す。
わたしは鈍臭くて、家族や友達、周囲の人々と上手く行かなかった。何をやっても裏目に出てしまって、いつも自分を責めていた。
いつしか、そんな自分自身をあきらめていた。
「ずっと、わたしは何もできない駄目な子なんだと思って生きてきた」
「マリアーナ、それは」
「だけどね、ヴォルフと出逢って、わたしも変われるかもしれないと思えたの。わたしは何もかも捨てて、ヴォルフとともに生きるんだって決めた」
「マリアーナ……」
「わたしにもできた。自分の道を決められた。自分がどう在りたいのか、何をしたいのか……。決めるのはまわりの誰かじゃなくて自分なんだって、初めて知ったの」
わたしも、ヴォルフとずっと一緒にいたい。
わたしに幸せをくれたヴォルフを、わたしも幸せにしたい。
そのために。
「わたしはもっと強くなりたい。だから、ね、聖女の話、聞かせて?」
ヴォルフはしばらく低い声で唸ってから、渋々と話してくれた。
聖女選定の儀で、妹のモーリーンが選ばれた理由。
王宮で行われた聖女継承の儀で、聖なる水晶が壊れたわけ。
「すべてヴォルフの神力のせい……?」
モーリーンが神殿の森でヴォルフを垣間見た時に、ヴォルフの神力の残り香のようなものが、一時的にモーリーンを覆った。聖なる水晶が反応したのは、そのため。
そして、水晶が黒く変色しひびわれたのは、ヴォルフの濃厚な『匂い』がわたしに付きすぎていたから。
「つまり、本物の聖女はマリアーナ、おまえだ」
わたしが本物……?
わたしは、偽聖女じゃなかったの?
「でも……でも! 聖なる水晶がヴォルフの神力に反応していたということは、わたしもモーリーンみたいに、仮に神力をまとっていただけなのではないの?」
「そうだとしても、もうマリアーナ以上に神力をまとう女性は現れない。たとえ本来の聖女がいたとしても、俺の神力はそれとは比べようがないほど強い」
「…………」
「俺はもう、マリアーナ以外の女をそばに寄せるつもりはないんだ」
ヴォルフがわたしの二の腕を掴み、燃えるような瞳でわたしを見た。
「俺から離れれば、やがて聖女ではなくなるかもしれない。いつか普通の女性として、人間の男の妻になり、母になれるかもしれない」
その瞳の奥に揺らめく影はなんだろう。激情のような、躊躇いのような、そして歓喜のような、悲哀のような、相反する感情が表れては消える。
金色の虹彩がひときわ強く輝くと、ヴォルフはわたしを息が詰まるほどの力で抱き寄せた。
「だが、マリアーナ……、絶対に離さない。人間でも、神々でも、俺からおまえを奪うものは許さない」
首筋にあたるヴォルフの息が熱い。
そっと抱き返すと、広い背中がかすかに震えていた。
どんな生き物よりも強く美しい聖獣が、女神レクトマリアの高貴なる眷属神が、わたしを求めて震えている……。
「ヴォルフ、大好き」
愛しさが急にこみあげて、あふれた。
それは今、突然生まれたのではなく、もともとわたしの中にあったものなのだとわかった。
わたしは……、わたしは。
陰気で地味な『蕾のマリアーナ』とか、人々に幸福をもたらす『聖女モーリーン』とか。
神とか人間とかすらも関係なく。
「あなたを愛してる」
ささやきは甘く蕩けた。
生まれて初めて知った想いがうれしくて、この喜びをヴォルフに伝えたかった。
「愛してるの」
繰り返すわたしを、驚いた顔で凝視するヴォルフ。
「マリアーナ……、それは男としてと思っていいのか?」
「男として?」
「そうだ。俺にこんなことをされてもいいのか?」
端整な顔が近づいてきて、唇と唇がそうっとふれる。
わたしは思わずクスッと笑ってしまった。
「口づけは前にもしたわ。狼の時にもよく舐められてた」
「あれは別だろ」
ヴォルフはちょっとすねたように言った 。
けれど、すぐに真剣な表情になって、大きな手のひらでわたしの頬をつつんだ。その手は耳を撫で、襟足をくすぐってから、わたしの後頭部を支える。
もう一方の手は、わたしの腰に回った。ほんの少し力を入れられただけで、動けなくなる。
もう、逃げられない。わたしはついに、ヴォルフに捕まってしまった。
「では、こんな口づけは?」
怖いくらい熱い視線だった。獲物を前にした野生の獣のような鋭い目。
でも、どこか拒絶されるのを恐れているようにも思えた。
「マリアーナ……」
わたしはその吐息と、激しい口づけを受け入れた。
――いいえ、わたしは捕まったのではないわ。
わたしは自ら喜んで、聖なる獣の牙の下に飛びこんだのだ。
ヴォルフの告白、そしてついにマリアーナが恋を自覚しました。
次回「選ぶ道がなければ」。
マリアーナの前に示された三つの選択肢とは?




