家族
「夜中に歩いてー!」
幽霊は、何よりも生きていた。誰よりも生きているのが幽霊だった。
「嫌いな授業を受けなくて良いし!」
彼女は死に、生まれた。
「お父さんも、お母さんも、親戚も、きょうだいも、誰も、私に干渉しない!」
初めて生きても良い道を、がんじがらめでもう手遅れだった自分が生きる道を、死ぬことで、周りの手を逃れて、やっとの想いで手に入れた。
「好かれなくていいし、嫌われたって関係ないし、ずっと、好きな人を見守れるから」
彼女は、とても幸せになった。
「私、これが、本当に、生きるってことなんだなぁって、やっと……わかったの」
――生きてるとき?
まるで死んでるみたいだったよ。
私、死ぬために生きてるのかって、ずっと考えてた。
「なーんて。ね」
恥ずかしいところを見られちゃったね。と、花は困ったように──たぶんだけど、困ったように笑った。
笑って、その辺をふらふらと跳びはねて、無理にはしゃいでみせた。
「…………家族、そういえば、家族には……会わない、のか? 家族じゃなくても、誰かさ、会いたい人とか……その……」
なるべく平静を装って駄目元で聞いてみる。きっと、居ないと言う気がした。
「私ね──ひどい死にかた、したから」
それは、いつになく、まるで幽霊のように、全く温度のない声だった。
「私を、どんなふうに、あの人たちが、見て、感じるかは知らない。
うまく言えないけど、ただ私──」
彼女は言葉を切り、少しの間沈黙した。
なにか、思って、何か、思い詰め、何だか、寂しそうで、けれど、どこか怒ったふうに。
「わかったような風に言われたくないのよ、
可哀想だなんて家族に言われたくない。
そんな私を、見せたくない、何も、わからなくていい、何も」
彼女の言う、ひどい死にかた、が何を差すのかはわからない。けれど、何となく、その気持ちはわかるような気がした。
「私、今、幸せで居たいんだよ、やっと……っていうのも、嫌だけど、せっかく死んだんだから、生きてる、辛かったなっていうのを、まざまざと見せ付けてくる家族なんかに会ったら私──きっと平静でいられない、生きてるときの私の、ひどい死にかたをした私の残像を見せ付けてくるなんて」
また、泣きそうになる彼女を抱きしめる。
「ごめん──」
わかって居た。
「意地悪なことを、聞いた」
彼女はいつも笑っている自分を、自身に課していた。それは裏を返せば、そうでない自分を酷く恐れている。嫌な──ことに、わざわざ、嫌でも、直面しにいくなんて、そんなことを、受け入れられるような、傷では無いのだろう。それだけ、ひどい死にかたをした、と彼女は、感じているのだから。
──そう、せっかく、と言うのもなんだが、死んだのなら現実は、捨てても良いじゃないか。可哀想な目で皆が見てくる場所なんかに、わざわざ、行かなくていい。
「……じゅっちゃんにも、黒歴史とか、あるでしょう? あれと同じだよ、家族や近所に言いたくないでしょ? 少年漫画の下着シーンの部分にカタログの下着の切り抜きを貼る趣味とか、夜の校舎で窓ガラスを壊して回ったことが格好いいと思ってたときとか」
少し、まだ泣きそうな震えた声で、彼女は彼女なりのジョークをとばす。いつもの、冗談が好きな彼女らしかったけれど、今はうまく笑ってやれなかった。あと、それは僕の黒歴史じゃない。
「黒歴史って、ときに残酷だと、思わない?」
「自分の死を黒歴史で良いのか」
「似たようなもの。嫌なものは、死んだら未練くらいしか無いんだし。
逆に言えば、もう、死んだから、襲って来ないんだし。
それにちょっとふざけないとこんな話、出来ないよ」
「そっか……」
改めて考えてみたら、幽霊って皆が皆、同じ考えってわけではないのかとなんだか今さらのように、そう思った。せっかく死んだからという前向きな気持ちを持つことで、やってみたいことをして居るのが彼女の幸せならそれでも良い。どうせ、皆には見えないんだから。誰からも憐れまれる可哀想な自分、なんて設定で人生を続けるなんて想像するだけでも確かに地獄のようだ。
「わかった」
僕は、あの頃、何もしてやれなかった。
だったら、今くらいは彼女に幸せだと、生きているとはこういう楽しいことがあると思って欲しい。僕は滑り台の方に向かいながら
彼女に言う。泣かないように、笑いかけた。
「じゃあ、遊ぶか!」
彼女が、どうしてあの日60万もするギターを欲しがったのか、今となってはわからない。好みだったのか単なる思い付きなのか特別な思い出なのか。真っ白いクラシックギターは、ところどころに可愛らしい花と小鳥の絵があしらわれていた。
僕にはろくに弾けないのにそんな大金を払うような勇気も貯金もなかったんだけれど、ときどき、ふと、思い出す。
訳のわからない感情が溢れてきて、その場面だけ、今も何度も思い出していた。
見ていると彼女が側に居るような気がして、ショーウィンドウのガラスの向こうは、天国とこの世界の境目なのかもしれないと、そんな風な気もして、うまく、言えないけれど、この辺りを歩いていればまた楽しそうな声が聞こえてくるんじゃないかって、どこかで期待していたんだと思う。
期待して──悲しくて──懐かしくて、それだけだったんだろう。
上手い人の手に、弾いて貰える人の手に渡るべきだ。一時の感傷なんかなんの役にも立たないんだって、そんなものに60万も出せるのか、早まるな、きっと飾り物になるだけなのに未練が重すぎる。
そう言い聞かせて通りを足早に通り過ぎるというのを何度も繰り返した。
自分でも、あのときはごちゃごちゃだった。
彼女が欲しがったからなのか、それとも、僕にもなにか思うところがあったのか。
自分でも、結局、これがどういう感情だったのかと言われると答えに困ってしまう。
たとえばこんな客が来て幽霊が欲しがったからなんて言ってみたらふざけた理由だと、店員さんに笑われるのだろうか。
言わないけれど。何度か、考えてしまう。
訳のわからない感情を引きずっている。
けれど、確かに言えることがある。
この一時の感傷は、僕の全てであり、彼女の証だった。