ネコと若者とパン屋の親父
あれ、ネズミ年なのにネズミが散々な目にあってる。
まあ、いいか。
□ 1 □
しげみの中を一匹のネコが身をかがめ、のそりのそりと歩いていました。
ネコは、ふと歩くのをやめると耳をせわしく動かします。
カサカサ、カサカサ、とちいさな音が聞こえます。
ネコは音のする方向にきゅうと目を細めます。
いました。
ネズミです。
しげみの葉っぱのかげにまるまるとふとったネズミの姿がちらちらと見え隠れしています。
ネコはほうっと息をはきました。何日かぶりのえものです。ネズミのことを考えるとおなかのまわりがしめつけられるのようにいたみました。もう何日も食べものにありつけず、とてもおなかをすかしているのです。
赤い舌でチロリと口元を舐めるとネコは一層身をひくくして、しずかに、しずかにネズミへ近づいていきます。
と、突然ネズミが走りはじめました。
気づかれたのです。
ネコも慌てて追いかけました。
ぐんぐんとネズミとネコの距離がちぢまります。急にネズミが右に方向を変えました。ネコは少し行きすぎてから慌てて右に向きを変え、ぐんぐんと追いかけます。また距離が縮まっていきます。
あと少し。すると今度はネズミが左へと方向を変えました!
なんということでしょう。ネコはまたまた少し行き過ぎてしまいました。これでまたはじめからからやり直しです。ネズミは追いつかれそうになるたびに右へ左へと方向を変えます。その度にネコはネズミに距離を離され、なかなかネズミを捕まえることができません。
息が上がってしまったネコは最後の力をふりしぼり、ネズミに向かってジャンプしました。あと少し。あと少しで、するどい爪をネズミのせなかにつきたてれる、ネコがそう思った瞬間!
フニャン
ネコはかべにあたまをぶつけて情けない声をあげました。
ネズミはあぶないところをなんとか壁の穴へと逃げこむことに成功したのでした。
フー フニャッ フニャン
痛むあたまをおさえながら、ネコはくやしそうな声をあげました。目の前がぐるぐる回ります。あたまをぶつけたせいもありましたが、実のところおなかがすきすぎのせいでした。
残っていた力を今の狩りに使ってしまったのです。もう、走ることも満足にできません。さて、ネコは困ってしまいました。狩りができなければどうやって食べ物を手に入れればよいのでしょう?このままでは……
ネコはかなしそうに空を見上げました。
冬の空は古ぼけた雑巾のように薄汚れた雲におおわれていました。
□ 2 □
ほんのちょっとでもいいから青いところが見えたらいいのに、と空を見上げた若者は思いました。
灰色の雲が蓋のように覆いかぶさり、今にも雪がふりそうです。
若者はポケットの中をさぐりました。ポケットから出てきたの銅貨二枚きり。
それを見て若者はため息をつきました。手に握られている銅貨と足元に転がるずだ袋。それが若者の全財産なのです。
今朝、勤めていたところを辞めさせられ、住むところも追い出されたのです。
おなかの虫が、ぐぅと鳴きました。
「とりあえず、なにか食べるか」
若者は力なくつぶやきました。
若者は、パン屋の前でうでぐみをして悩んでいました。
一番安いパン一つが銅貨一枚です。
今のおなかの虫の居どころは二つぐらい食べないとおとなしくなってはくれなさそうです。とはいえ、ここでパンを二つも買ったら本当に無一文になってしまいます。それも、なにかと心配でした。
「まあ、いいかぁ」
若者はパンを二つ買うことにしました。どうせ銅貨一枚残しても大したことはできはしないのです。なら、せめておなかを一杯にしてしまう方が賢いと考えたのです。
「あれ、これは?」
パン屋の親父さんの手には二つのパンと小さな紙袋がありました。
「おまけだ」
「おまけ?」
「おまえ、金無いんだろ?あんなに真剣な顔をしてパンをながめてたからな」
「あーー、うれしいけど、そう言うのいいです」
「遠慮するな。パンのクズを揚げただけの奴だ。売り物にはなんねぇ。ほうっておいても俺の腹におさまるだけだからな」
女房にはやせろっていわれているんでお前がもっていってくれるなら丁度いい、とパン屋のおやじさんはたっぷりしたおなかをさすりながら言いました。
若者は近場の公園のベンチに腰掛けるとモゾモゾとパンを取り出しました。これからどうしようかと考えながら、空を見上げました。
空はさっきよりもさらに暗い色になっていました。まるで、今日寝るところもない自分の人生を暗示しているような色です。
若者はパンを一口かじると、その日何度目かのため息をつきました。
自然と顔もうつむき気味になります。そんなうつむいた視界に、これまたショボくれたネコが入ってきました。
よたよた
とぼとぼ
毛並みの艶もない、痩せこけた今にも倒れてしまいそうなくたびれたネコでした。若者はなんとなく親近感を感じました。
ふと、ネコと若者の目が合いました。
ネコは、ナァーゴと鳴き。
若者はふぅとため息をつきました。
□ 3 □
ナァーゴとネコは若者を見て鳴きました。いや、ネコは若者を見ていた訳ではありません。若者が持つパンをじっと見つめていたのです。若者にもその視線がわかります。
「なんだ?ダメだぜ。俺もお前もそんなにちがわねぇからな。こいつをやるわけにはいかねぇ」
若者の言い訳にネコは再び、ナァーゴと答えました。
「ああ、もう!お前、分かってんのか?
そういう目で俺を見ても無駄だからな」
「ナー」
「ナー、じゃねーよ」
「ナーオ、ナー、ナー、ナー」
「あー、もう、うるせぇなぁ」
若者は立ち上がるとネコに向かって持っていたパンを投げました。まだ半分も食べていないパンです。
「欲しけりゃ、やるよ」
ネコは目の前に落ちたパンの匂いをふんふんと嗅ぐと咥えてふらふらと歩いていきました。すぐにでも食べるのかと思った若者は、首を傾げました。
「おい、なんだよ。せっかくやったのに食べないのかよ」
若者は少し不機嫌そうに口をとがらせました。なにしろなけなしのパンなのです。ネコがそれをどうするつもりなのか若者は気になって仕方ありませんでした。若者はつい去っていくネコをおいかけました。
ネコは公園を抜け、道路を渡り、ずんずんと歩いていきます。一体どこへ行くのか、若者はいつの間にか夢中になってネコを追いかけました。
やがて、ネコは空き地の一角にある茂みへと姿を消しました。
そこがネコの棲みかで、そこでゆっくり食事ということなのか。若者はそう思い、確認のためにちょっとだけ覗いてみることにしました。
ニャー ニャー ニャー
ミー ミー
フニャッ フニャッ フニャッ
若者は覗いたことをすぐに後悔しました。なぜならネコの棲みかには三匹の仔ネコがひしめいていたのです。
ネコは咥えていたパンを仔ネコたちの前にポトリと落とします。仔ネコたちは夢中になってパンに群がります。腹ペコのようでした。
「ナーゴ、ナー、ナー」
ネコ、もとい母ネコが鳴きました。若者には、「なんだ、あんた、見たのね」と言っているように聞こえました。
「ああ、畜生め。それは反則だろ」
若者はくるりとまわれ右をするとその場を立ち去ろうとします。
「ナーゴ」
どこか甘えたような母ネコの声が若者の背中を追いかけてきました。
ナー ナー ニー ニー ニャン ニャン ニャン
仔ネコたちの伴奏付きでした。若者はがっくりと肩を落とします。
「あー、いいぜ!持ってけ。全部食べちまえ」
若者はまだ一口も食べていない最後のパンを母ネコに向かって放り投げました。
「これで全部だ。もう俺に関わんなよ。じゃあな、あばよ!」
若者は、腹立たしげに足を踏み鳴らしながらその場を去りました。
別にネコに怒っている訳ではないのてす。
若者は自分のよけいなことをする性分が腹立たしかったのでした。空からはとうとうチロチロと雪が降り始めました。
「ああ、お前はいつもそうやって損ばかりかしているんだ。大バカ野郎め」
寒さに冷たくなった手をポケットに突っ込むと、自分自身に怒りながら雪がつもった道を歩き続けました。
□ 4 □
「おかしいなぁ。確かにここに置いたはずなのに」
パン屋の親父さんは頭をポリポリとかきました。かいた頭が小麦粉で白くなりましたが、そんなことを気にすることもなく、棚の上やテーブルの下を何度も見て回ります。
大切な結婚指輪が無くなってしまったのです。
いつもは無くしては大変なので、小麦粉をこねる前にテーブルの隅に置いているのです。もちろん、今日もそうしました。なのに一仕事終わった後に見てみると、指輪がどこにもありません。これは一大事と親父さんは大慌てでさがし始めたのですがどこへいってしまったのか、指輪はまるで見つかりません。
「ああ、ああ。困ったぞ。困ったぞ。今日は大事な結婚記念日じゃないか。一体全体、どうやって言い訳すればいいんだろう」
親父さんは両手で頬杖をついて、さてどうしたものかと途方にくれるのでした。
□ 5 □
ペロペロとたんねんに手を舐めて、さらにその手で頭をなでつけます。
さっきもらったパンが体に力を与えてくれています。お母さんネコは眠っている仔ネコたちを見て、喉をグルルと小さく鳴らしました。
この子たちのためにももう失敗はできない。
さあ、狩りの時間です。
お母さんネコは決意も新たにうっすらとつもった雪の中へと踏み出しました。
獲物を求めて歩いていたお母さんネコはその歩みを止めました。
ネズミです。
軒先でネズミが空を見上げていました。
今度こそつかまえてやるとお母さんネコは心の中で思いました。だけど、あせってはダメです。慎重にいくのです。
お母さんネコはヒゲに集中して風の流れをよみます。臭いで気づかれないように、まずは獲物の風下にたたねばなりません。さっきはあせっていてそんな基本中の基本すらわすれていたのです。
ネズミは空を見上げたまま、せわしなく鼻や耳を動かしていましたが近づくお母さんネコにまるで気づいていないようです。
今です!
お母さんネコは一気にネズミとの距離を縮めます。
ネズミが気づいて逃げ出しました。
右へ、左へ。ネズミもふり切ろうと必死で走ります。お母さんネコも負けじと追いかけます。目の前に壁が迫ります。壁の一部に裂け目がありました。ネズミはその裂け目めがけて一層速度を上げます。まるで一本の矢のようです。
あそこに逃げ込まれてはまた逃がしてしまいます。お母さんネコはぐっと身を縮めると一気にネズミめがけてジャンプしました。
そして……
□ 6 □
若者は公園の真ん中に立つ木の下に毛布にくるまっていました。雪はやんでも冷たい風はすきっ腹に響くのです。
若者は紙袋からパン屋の親父さんからもらったおまけを一欠片口に放り込みました。
「あっ、これうまいな」
カリッカリに揚げたパンの食感と噛んだ後の口にじわりと広がる油が空腹をやわらげてくれます。パン屋の親父さんの親切を断らなくて本当によかったと若者は思いました。
そんなことを思っていると目の前にさっきの母ネコがやって来るではないですか。
「うおっ!?
目ざといなお前。こいつもねだりにきたのかよ」
警戒心もあらわに若者はおまけの入った紙袋を抱きしめてネコから守ろうとします。ネコは不思議そうに首を傾げると口に咥えているものをそっと若者の前に置きました。
「えっ?なに。それを俺にくれるってのか?」
「ナーゴ」
ネコは背筋も尻尾もピンと立てて誇らしげに鳴きました。
「う~ん。くれるってもなぁ」
若者は目の前に置かれたネズミとネコを交互に見ながら困った顔をしました。
「気持ちはうれしいけど、さすがにネズミは食えないなぁ」
若者は頭をポリポリとかくと、どうネコに説明をしようかと悩むのでした。その時です。若者はあることに気づきました。
「あれ?それってもしかして……」
□ 7 □
あの、すみません。と声をかけられてパン屋の親父さんは我に返りました。ずっと店先のテーブル席で途方にくれていたところでした。
見ると、ずだ袋を抱えた若者が一人、立っていました。足元に一匹の三毛ネコを引き連れています。
「はて、君は……」
親父さんはその若者には見覚えがありました。確か昼前に真剣にパンを睨んでいた若者です。余りに真剣に見詰めていたので思わずおまけをあげたのを思い出しました。
「先程はありがとうございました。
ところで、どうかされましたか?なにかすごく悩んでいるように見えましたが」
「いや、なんてことはないのだけどね。
大切なものを無くして困っているだよ」
「大切なものってなんですか?」
「指輪さ。大切な結婚指輪を無くしてしまったんだ」
「指輪?
もしかしてこれですか?」
若者が手に持っていたものを親父さんに見せました。それは紛れもなく親父さんが無くした指輪でした。親父さんは目を丸くしました。
「それだ!君は一体それをどこで見つけたんだ?」
こいつがね、と若者は足元のネコに顔を向けました。
「ネズミを捕まえたんでが、そのネズミの口にこの指輪があったんですよ。
それで、どこでネズミを捕まえたのかこいつに案内してもらったんです」
若者から受け取った指輪を大切そうに指にはめながら親父さんは言いました。
「いや、ありがとう。本当に助かったよ」
そして改めて若者をまじまじと見つめるのです。若者は見るからに貧相なかっこうでした。くたびれた服に、おそらく大したものなんか入っていないだろうずだ袋が一つきりです。
「不思議に思うんだが、君はこの指輪を拾った時に売ってしまうこともできたんじゃないのか?」
「はあ。できたかもしれませんね」
「ではなぜ、そうしなかったんだい?」
「だって、その指輪は俺のじゃないですから。
それに、なくした人は困っているだろうと思ったんですよ」
「なるほど。でも、失礼だが、君はお金に困っていそうだが」
「あはは。分かりますか。
お金に困っているどころか、今日の寝床にも困ってますよ」
「なんだって?それは一体どうしてなのかね」
「勤めていた粉引き小屋をやめさせられたのです」
「やめさせられた?
なにかへまをしたのかね」
「大きな声では言えないのですが、粉引き小屋で働いている先輩たちが不正をしてるのを見逃せなかったんですよ。彼らは小麦とか引いて袋詰めする時に一握りか二握りをこっそり自分たちの懐にいれているんです」
「なんだって?粉引き小屋の親父にその事は話したのか?」
「逆に俺が追い出されました。
田舎から出てきたばかりの若造の話なんて誰もまともに聞いてくれないってことですよ」
若者は少し寂しそうな表情で答えました。
すると、パン屋の親父さんは若者の肩をいきなり叩きました。パチンとすごくいい音がしました。
「痛っ!な、なにするんですか」
「いや、そんなこともないぞ!
わしは君の言うことを信じる!
こと小麦粉の話となれば聞き捨てならん。
さぁ、中へ入ってくれ。君の話をじっくり聞かせてもらおう」
パン屋の親父さんは若者の腕をつかむとそのまま、店の中へと引きずりこみました。
「話によっちゃあ、わしが粉引き小屋の親父も、そのけしからん先輩どももとっちめてやる。ついでに君の今後の話もしよう。
なに悪いことは言わない。ちょうど手伝いが一人欲しいなと思っていたんだ」
パン屋のドアがバタンと閉められました。
□ 8 □
パン屋の前にネコが一匹の座っていました。
手をペロリと舐めるとのんびりと毛づくろいはじめました。雲間から太陽が顔を出しネコを照らしました。
パン屋のドアがガチャリと開くと親父さんが顔を出しました。
「ああ、すまない。実はネズミ対策にネコを飼う必要もあると思うんだ。できれば相談に乗ってはくれないか?」
親父さんはネコに向かって、片目を瞑ってそう言いました。
ネコは、ナーオと答えると気取った足取りでパン屋の中へとゆっくりと入っていきます。
パン屋のドアはパタンと閉められました。
そして、今度こそ開かれることはありませんでした。
2020/01/02 初稿
2020/01/04 誤字を修正
2020/02/17 誤字修正
2020/03/21 誤字修正