天野ゆみ
「お疲れ様でした」
そう挨拶をして天野ゆみはその場を立ち去った。
ここは一週間前から働くことになった老人ホーム、私は仕事を初めて今日で4日目だけど、とてつもなく疲れていた。
まだ働き初めてまもないこともあり、覚えることも多いし、職場の人間関係も気を使うし肉体的にも精神的にもだいぶ疲れていた。
左手首につけている腕時計を見ると19時40分という時刻が目に飛び込んできた。
「だいぶ遅くなっちゃったわね、早く帰らないと」
そう言うと小走りで車が止めてある老人ホームがある建物から少し離れた駐車場に向かう。
駐車場に着くと、辺りはもう、真っ暗で駐車場の中心にある街灯を頼りに自分の車のところに向かう。
車に入ると手荷物を助手席に置き、エンジンをかけてその場から走り出した。
今、ゆみが乗っている車は国産車の軽自動車で、色は黒、左右がスライドドアの今流行りの軽自動車だ。
ゆみが働いている老人ホームから自宅までは車で30分ぐらいの距離で大通りに面していない為、極端に交通量が変わらない。
そのおかげであまり混むということはない。
ゆみは運転しながら帰ってからやらなくてはいけないことを頭の中で考えていた。
まず洗濯と、あと私と夫の食事と、うーん、とりあえずそれぐらいかしらね
子供達にはお金を渡してあるからもう食事は済ましてると思うし掃除は明日、仕事に行く前にすればいいわね。
一通りの流れを決めるとこれから疲れる自分を想像したのか、ため息をもらした。ため息をもらした為、か思っていた感情が声に出た。
「あーあ、本当だったら19時で終わりなのにあの人、話しが長すぎるだもんな、そのせいでこんな時間になっちゃたし、もう最悪、そりゃあさ、あの人はさ、もう子供も大きいし何時に家に帰ろうが問題ないと思うけどさ、こっちわさ、まだ子供は小さいし早く家に帰ってやらなくちゃいけないことがいっぱいあるのよ。」
車の中という特殊な個室空間の為か、ついつい感情が出てしまう。今週のゆみの勤務時間は10時から19時なのでそういった愚痴が出てしまっていた。
こういう勤務時間だからゆみは先ほど仕事に行く前に掃除をしようと考えたのだった。
そっからも、ゆみの不満は止まらなかった。
「だいたいあれなのよね、介護業界って大変なわりには給料安いし、それでもって資格取るのだって時間とお金も結構かかるし、あーあ、本当、なんかあれよね」
ひとしきり溜まっていた感情を口にして吐き出したおかげか気持ちが軽くなっていった。
そうすると今度はある人物の姿が頭に浮かんできた。
息子の真のことであった。
「本当に、目を覚ましてくれて良かった!」
そう一言いうと数秒後には目に涙が滲んでいた。
本当に、本当に、良かった。
今でも忘れないけど、ジャングルジムから落ちて頭を怪我して、意識不明って聞いた時、あの時は一瞬で身体の力が抜けちゃって、相当、テンパっていたわね、私。
そう、ゆみはあの時の状況を一生、忘れることは出来ないだろう。
当時働いていたデイケアサービスの職場であらかた仕事が片付き少し休憩しようとしたとき、ズボンのポケットからスマホを取り出し確認すると知らない番号から着信が入っていた。
気になりすぐさまかけ直し、数秒のコールが鳴ったのち、つながった。
「はい!、C大学病院でございます」
その後、息子が怪我をして救急車で運ばれて、病院に搬送されたこと、そして意識がないこと、色々な情報が頭の中に駆け巡り、一瞬、意識が遠のいて行く感覚に陥った。
それからは私の生活は一変した。
本当に色々あったし、本当に色々大変だった。
でもこうして息子の意識が戻り、元気になり、帰ってから会える!と思うとものすごく嬉しくなってしまう。
でも、母親の私からしたら、なんか真、変わったような気がする、そう、なんか雰囲気も変わったしちょっと大人びてきた?、
そんな感じ。
まあ、何はともあれこうしてまた家族としてみんなで過ごせるのは、本当に嬉しい。
そんなことを考えながら、ゆみは家路に着くのであった。
マンションの一室の入り口のドアが開かれた。
開かれたと同時に声が放たれた。
「ただいま!」
と、ゆみは一言いい、リビングの方から聞こえている音に耳を傾けた、テレビの音声、そしてドアが開かれる音、近づいてくる足音。
ゆみの頭の中には子供達の顔が浮かんでいた。
「あ、母さん、おかえり」
「おかえりー」
そこには今日の仕事の疲れが一瞬でなくなってしまうぐらいの、存在があった。
息子の真と娘のリサである。
「はい!ただいま、今日はちょっと遅くなっちゃったわね」
俺の母親ことゆみはちょっと申し訳なさそうにしていた。
そして俺は母親を見て、多分、今日も1日だいぶ疲れたんじゃないだろうか、ふとそんなことを考える。
元社会人の俺からすると働き初めてまもないころはとてつもなく疲れると思う。例え同じ業界で経験者として入ったって、職場や環境が変われば結局また、一からのスタートだ、前世において色々な職業を経験してきた俺には自分のことのようにわかる。
また一から職場の人間関係を構築していくことは、本当に大変だろう、ましてや介護の職場なんつったら女性ばかりだと思うし、女性どうしの人間関係はものすごく難しいと思う。
その後、母さんに食事の準備と軽い掃除をしたことを伝えた。一瞬、え、?、みたいな顔をされたがその時は変な詮索はされずにとりあえず風呂に入りたいと、言うことなのでそそくさと準備をし風呂に向かって行った。
お風呂の湯船に浸かりながら、先ほど息子が言ったことをゆみは考えていた。
えーと、真は料理なんてしたことないと思うけどな、それにリビングも軽く見たら掃除も少ししてあるみたいだし、洗濯物も洗って干してあったし、一体どうしちゃったのかな。
以前は何を言っても嫌々だし、家のことを自ら進んでやることはなかったし、よく娘のリサとケンカばかりしていた。
それが最近はケンカしているところも見ないし、むしろ以前より仲がいいように思える、そして何よりちょっと大人びてきた気がする。
でもそう言う意味じゃ色々と真も成長しているのかしらね?
そう考えるとなんか複雑ね、今まで手が掛かっていた息子が急に自分の元から離れて行くような気持ちね。
まあなんだかんだ言っても母親の私からしたらいろんな意味で嬉しいな。
そうして考えるのを止めてお風呂をあとにしたのであった。
今、俺はこれから色々聞かれるだろうことを想像しながら母親の分の夕食を用意していた。でも多分、大丈夫だと思う。
だって今のこの現代社会において、実は37のおっさんが生まれ変わってあんたの息子になりました!、て言って誰か信じるだろうか?、絶対信じないと思う。
だからある程度は問題ないと思う。
色々あーだこーだ考えていると、風呂から上がってきた母親が声をかけてきた。
「え、なに、ご飯の準備してくれたの?」
「うん、せっかくだから食べてみてよ、上手く出来たか、ちょっとよくわからないけど」
「でも真、どこで料理覚えたの?、教えてくれる人なんていないでしょ」
「ほら、そこにある料理の本、それ見て作ったんだよ」
と、俺はリサにも言ったように同じ返しをする。
「お母さん、お母さん、お兄ちゃんが作ったご飯、すごく美味しいかったんだよ」
いつのまにか自分の部屋から出てきていた妹のリサは嬉しそうに言った。
「へえー、凄いわね、真、じゃあせっかくだから食べてみるわね」
ゆみはそう言うと椅子に座り食べ始めた。
その後、母さんは美味しいと連呼しながら夕食を食べ終えて、俺と母さんはふたりでくつろいでいた。
ちなみに妹のリサは母さんが夕食を食べ始めてすぐに眠い、と言って部屋に戻って行った。
まあそうだよな、時刻を確認すると21時30分ぐらいだった。俺も少し眠気がきているが気になるほどではない。
しかし父親はまだ帰ってこないのか?管理職とはいえ大変だな、やっぱり一流企業とはいえ、労働時間短縮は難しいのかね。
「ところで、真さ、料理もそうだけと、洗濯に掃除、なんでやってくれたの?、別にお母さんがやるからいいのに」
「だって母さんも父さんも最近、帰ってくるの遅いでしょう、それにさ、母さんが遅くなる日にさ俺とリサで千円ずつって、多いしさお金もったいないじゃん、だったら料理作った方がいいし、洗濯に掃除ぐらいだったら出来るし」
ゆみは今、目の前の息子が言った言葉を一瞬、信じられなかった、普通は小学6年生ぐらいだったら親に対する気遣いを表す時、恥ずかしがってひねくれるものだと思う。
でも目の前の息子はどうだろことか、恥ずかしいがることもなく、ひねくれることもなく、面と向かって、私の方を向いて言ってきている。
ゆみは自分でもわからない感情で心がいっぱいになり、気がつくと目に涙を溜めていた。
今までの息子の過去のことが頭の中に走馬灯のように駆け巡り、気付くと目の前の息子を抱きしめていた。
「ちょっと、母さん、やめてよ、どうしたの?」
「真、ありがとう、母さんすごく嬉しいな」
突然の母親の行動に俺は面喰らってしまったが、喜びに満ちているその態度は凄い伝わってきていた。
まさか泣かれるとは思っていなかったので驚いたが、俺もその行動を見て泣きそうになってしまった。
親からしたら子供の成長ほど嬉しいことはないのかもしれないな。
その後、俺が眠そうにしていた為、母親からもう寝なさい!、と言われ眠りについた。
俺が眠りについて30分後ぐらいに父親こと、天野一郎が帰宅し、母親のゆみから息子の成長ぶりを嬉しそうに語っていたのであった。




