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その日のための準備

作者: 蔡鷲娟





鮮やかな色が傍にあって、初めて人は自分が色のない世界に生きていたことに気づくのかもしれない。



   *



「涼ちゃーん、こっち手伝ってくれる?」


「はい」


「ちょっとそこ持っててね、私こっち、釘打っちゃうから」


「はい」


カンカンカン、と打ち付ける金槌の小気味よい音が響いては消えていく。そうしてどんどん、ただの板が形を変えていくのが面白い。


 表はジリジリと太陽が焼き付ける暑い夏の日中、まだエアコンのない屋内で何人もの人がひしめき合いながら作業をしている。二週間前に始まったカフェの内装工事は順調に進んでいて、日を追うごとに室内は整っていく。わいわいと作業している若い男たちは叔母の知り合いの職人さんに派遣してもらった、職人の卵たちだ。大工に左官に板金。それぞれの場所で得意なものをやってもらっている……らしい。

 大森涼花(おおもりすずか)は作業の進捗状況などさっぱり分からないまま、叔母である佐野千夏(さのちなつ)が、手際よく板に釘を打ちつけていくのを見ていた。釘の頭が木の中に隠れ、いつの間にか出来上がっていた棚に目をみはっていると、千夏から次の指示が入った。


「おっけ、できた。じゃあ次は壁に固定するからさ、ドリル借りてきてくれる?」


「はい」


 言われて立ち上ったところで、後ろから低い声がかかった。


「千夏さーん、そういうのはおれたちがやりますって! ってか壁まだ塗り終わってないっす!」


「えー? う~ん、そっかぁ。じゃあどうしよっかな……」


 頬に手を当てて思案し出した千夏は涼花の母の妹であり、それなりにいい年のはずなのだが、見た目には二十代か三十代にしか見えない、年齢不詳の“美魔女”である。若いころに海外に飛び出し、あっちこっちで仕事をしてきたやり手のビジネスウーマンなのだそうだが、逆にそういう経緯で、叔母という割と近しい関係でありながら、二十六になる今まで涼花は千夏の存在を知らなかった。


「じゃあね、外でベンチ組み立ててこよう。確かまだやってなかったよね」


 よっ、と軽い感じで立ち上がった千夏は、金槌を振り回しながら外に向かう。その背中にまた、若い男の笑いを含んだ声が掛かる。


「それ、市販のじゃないから穴とかついてないっすよー? おれたちが組み立てる前提で切ってきたから……」


「えー? じゃあだれか一緒に手伝ってよ! 手、空いてる人―?」


「だからいたらとっくにやってますって! 千夏さん作業早すぎ、ちょっと待っててくださいって」


 はははは……と笑いが漏れる空間で、涼花は一人、取り残された気分になっていた。


 叔母にカフェをやるから手伝ってくれと言われ、言われるがままに叔母のマンションに引っ越してきて工事の手伝いを始めた。本当にちょっとした手伝いしかできない自分は果たしてここにいてもいいのだろうか、と日々思いながら、千夏には何も言えない。しがないフリーターで、地元でふらふらしていた自分を呼んでくれた千夏が自分のことをどう思っているのかなんて、涼花には分からなかった。


「涼ちゃん、そしたらあれだ、早めにお昼休憩の準備しちゃおうか。いつもどおり、涼ちゃんはおにぎりお願いね。私はサラダ作って……あ、帰りがてらお肉屋さんでから揚げ頼んでいっちゃおう。そしたら楽だよね」


「はい」


 あれがダメなら次はこれ、とすぐに考えを切り替えられるのがすごいと思う。自分は言われたことを言われた通りにしかできない。


「じゃあいったん戻るんで、よろしくお願いしまーす。お昼待っててね~」


「ういーっす」


 服に付いた木屑を軽く払い、千夏はそのまま店を出ていく。涼花は慌ててその後を追う。瞬間、かっと痛いほどの日差しに照らされたが、千夏は気にする様子もなく歩いていく。


「あ、ねぇ見て。あんなところにケーキ屋さんあったっけ。今度買いに行ってみない?」


「は、はい、そうですね」


「あー、あっちにはカフェがあるよ! ライバルだわ、偵察にいかなきゃ!」


 どうでもいいティーシャツとデニムをはいて木屑にまみれていようと、千夏はいつだって美人だし、魅力的だった。こうしてよく話しかけてくれるのだけれど、気の利いた返事の仕方が分からず、いつも困ってしまう。元気よくはしゃぐ千夏に見えないように、涼花はこっそりとため息をついた。

日陰を選んで歩いていく道は、千夏のマンションへと向かう道だ。毎日昼時になると、こうして一度マンションへ戻り、職人さんたちの昼ご飯を用意してまた戻るのだ。涼花も最近になって、大量のおにぎりを握るのがうまくなってきた。ここでなら役に立てるかな、と思いつつ、おにぎりくらいで……と思う自分もいる。

 肉屋に寄って、から揚げを大量注文し、マンションに着く。朝セットしておいたご飯が炊けているのを確認して、涼花のおにぎりづくりは始まった。一心不乱に握っていると、いろいろなことを考えなくて済むからいい。隣で素敵なエプロンをつけた千夏が、おしゃれにサラダを盛り付けていようとも、それはあまり視界に入れないようにして、とにかくおにぎりに集中する。

 若い男の人がものすごい量を食べることを知ったのも、千夏の手伝いを始めてからだ。人数かける四つを目安にひたすら握っていくが、不思議と大変だとは思わない。初めて握って食べてもらった後、「おいしい」と褒められたのが嬉しかったなんて、千夏にも言えていないのだが、それが涼花の今の原動力になっている。


 今日も猛烈な勢いでなくなっていくんだろうな、と握り終わったおにぎりに海苔を巻いていると、インターホンが鳴った。千夏が「はいはい」と言いながらキッチンを出ていく。


「……あら! びっくりした、いつ日本に?」


 涼花のいる場所からは見えない位置にあるモニター越しに、誰かと話をしている。どうも宅配便などではないようだ。しばらく話をしたあと、千夏はキッチンに戻ってきた。


「涼ちゃん、お客さんが来たわ。私の知り合いなんだけど……あれ、あの子いくつだったかしら、涼ちゃんと年近いんじゃないかしら?」


 千夏は首を傾げながらそう言うが、涼花には訳が分からない。数分後、再びインターホンが鳴り、千夏はパタパタとスリッパを鳴らして玄関に向かった。

 いったい誰が来たというのだろうか。涼花は手を洗って様子を見に行こうとしたが、客の方が動きが早かったようだ。


「うわー、さすが千夏さん、いいマンションに住んでんねー!」


 歓声とともに現れたのは若い男だった。大きなリュックサックを背中に背負い、ティーシャツにカーゴパンツ。無造作な短髪はどことなく粗野な感じもするが、ダサいという感じはない。きょろきょろとリビングを観察していた彼の視線が、キッチンにいた涼花に向いた。


「あ、こんちはー、お邪魔しまーす」


「こっ……こんにちは」


 元気よく挨拶をされ、とっさに返したのはいいが、一体誰なんだろう。叔母の友達にしては若すぎるようだが。そこへ千夏がようやく戻ってきた。


「ちょっと恭平くんっ、なにこれ、おんも!」


 千夏は何やら大きくて重たいものを引きずっている。


「はは、お土産~。そんなに重くないでしょ、コーヒー豆だよ、世界各地の。だって千夏さんカフェやるんでしょー?」


 けらけらと明るく笑う青年は、背負っていたリュックサックを下ろした。ごん、と結構な音を立てたところを見ると、こちらもずいぶん重たいようだ。


「あら、そうなのー? じゃあ後で中身確かめなきゃ。涼ちゃん、この子斎藤恭平(さいとうきょうへい)くんっていって、私がフランスにいたときに知り合ったの。バックパッカーでね、世界中回ってて。たくましいのよ~」


「……バックパッカー?」


 耳慣れない単語を口に出しながら、涼花は改めて目の前の青年を見た。茶色がかった短髪に日焼けした肌。細身の体格ながら、しっかりと筋肉のついた腕。


「バックパッカーっていうのは、こういうでっかいバックパックを背負ってね、旅する人のこと。まー言ってみれば貧乏旅行者だね。宿もホテルとか泊まらないでバックパッカー専用のしょぼい宿とか、ドミトリーとか、あ、二段ベッドがたくさんあるような共同の部屋にね、泊まったりすんの」


 よく通る声で説明してくれた青年が、最後ににかっと笑った。人好きのする笑顔だと涼花は思った。


「ってことでおれ、斉藤恭平っていいます、おねーさんは?」


 おねーさんは、と聞かれて、いや、あなたの方が年上でしょう、と反発しつつ答える。


「大森涼花といいます。えっと……千夏さんの、姪です」


「へー、姪っ子なんだ、千夏さん兄弟いたんだねー」


 言いながら彼の興味の視線が千夏に移り、涼花はほっとした。キラキラと光を内包するような大きな瞳が自分に向いているのが、なんだか耐え難く思ったからだ。

 

 千夏と楽しそうに話をする青年の姿を気にしながら、涼花は作ったおにぎりを大きな弁当箱に詰める。そして予定の個数を詰めた後で、炊飯器を覗いて思案した。……この人も一緒にお昼ご飯食べるのかな。


「あ、時間! そろそろ持って行ってあげなきゃ休憩になっちゃうわ」


 部屋の掛け時計を見た千夏が慌てた声を出す頃には、涼花はおにぎりもサラダもバッグに詰め、皿や箸等も入れて持って行ける準備を整えていた。毎日のことだから、このくらいはできる。


「準備できました、千夏さん」


「あら~助かる! じゃ、行きましょ! あ、ねぇ、恭平くんも一緒に来て、手伝わない?」


 手を叩いて喜んだ千夏は、笑顔のまま恭平に振り向いた。恭平は一瞬きょとんとした顔をした後で、頭を搔きながら言う。


「あ~別にいいけどさ、じゃあ手伝う代わりにここに泊めてよ! 泊まるとこ探してないんだよね、まだ」


 え? と涼花は思ったが、千夏はあっけらかんと了承した。


「あらそんなの最初っからそのつもりよ! ホテルに泊まるなんてもったいないわ。その代わり寝るとこはそこのソファーだけど」


 千夏はリビングの大きなソファーを指差す。リビングには立派な応接セットがあって、三人掛けのゆったりしたつくりのソファーがあった。恭平はそれを見て頷いた。


「うん、あのソファーなら余裕で寝れる! ありがとう、千夏さん!」


 にかっと笑った顔は少年のように純粋で、涼花はうっかり反論するのを忘れてしまった。それに、千夏がいいというのだから、自分には何も言う権利はない。


「じゃあ行きましょ! 急がないと、お肉屋さんにも寄らなきゃだし」


 千夏が帽子を被り、せかせかと玄関に向かっていくのを、恭平は苦笑しながら付いていく。その後ろに大きな弁当のバッグを持った涼花が続いた。玄関で靴を履いた恭平が涼花を振り返り、


「重そうだからおれが持つよ」


 と、バッグをさっと持つと、すたすた歩いていく。恭平の行動に不意を突かれた涼花は、どきどきする心臓の鼓動を感じながら靴を履き、慌てて二人を追いかける。

 

 なんだろう、なんだかよくわからないけれど、すごくエネルギッシュだ。千夏も、恭平も。

 

 エレベーターのドアを開けて待っていてくれた二人の明るい笑顔を見ながら、まぶしい太陽に向かっていくような気持ちで、涼花はエレベーターに乗り込んだ。

 


  *



 午後の作業は順調だった。突然現れた助っ人の恭平は、驚くべき順応性を発揮して職人たちに溶け込んだ。そして彼の手先が器用だったことも相まって、作業はトントン拍子に進んでいった。涼花は相変わらずみんなの間をすり抜けるようにしてこまごまとした手伝いや掃除をこなし、日が落ちる頃に一日の作業は終了した。


「お疲れ様っしたー」


「はーい、今日もありがとう! 明日もよろしくねー!」


 語尾にハートをつけて千夏が職人たちを送り出すのを聞きながら、涼花はなんて元気な人たちなんだろう、と逆にげんなりせずにはいられない。自分だって朝から晩まで働いていたことはあるし、体力の面では割と自信があったのに、千夏のアグレッシブさには本当に仰天させられる。今日も自分の倍は動き回っていたと思う。

 

 はぁ、といろんな意味でのため息を零したところに、男の声がしてどきっとした。


「だいぶ仕上がってきた感じだなー。オープンはいつなんだろ? 知ってる?」


 いつも職人たちが帰った後は、千夏と二人だけで最後の掃除をして帰る。だから、男の声が響いたのに驚いたのだが、そうだ、この人がいたんだった。


「ね、オープンいつだか知ってる?」


「え? あ、ああ、 二週間後の日曜日だって……確か言ってたと思います」


 まさか自分に話しかけているとは思っていなかったから、挙動不審になってしまう。涼花は頭の中にカレンダーを描いてそう答えた。


「ふーん、二週間後か。まぁ妥当なラインなのかな」


 恭平は考え込む素振りを見せながら店の中を見回した。涼花は相手がこちらを見ていないのをいいことに、じっと恭平を観察した。

 知らない人の間にぐいぐい入っていって、すぐに溶け込める人懐っこさ。指示をすぐに理解できる反射神経の良さ、賢さ。それに子どもみたいに無邪気な表情。

 どれも自分にはないものだった。一週間ほどこうして作業していても、涼花はいっこうに職人さんたちと気軽におしゃべりできるようにはならなかったし、自分から話しかけにいくこともできなかった。そもそも話題が見つからなかった。唯一できるのは昼ごはんの用意くらいで、それだっておにぎりを作るのが精いっぱいだった。なのに恭平は、今日さっき現れたばかりだというのに、もう職人さんたちと仲良くなってしまった。同年代の男の人だから、というのは強いのかもしれないけれど、彼にはそれだけじゃない魅力がある。

 恭平がドアを開けて店の外へ出ていくのを見てハッとし、涼花は掃除を再開した。早く片付けてしまわないと帰れない。ビニールの張られた床に散乱した木屑を箒で掃き集めてごみ袋に入れていると、楽しげに会話をしながら千夏と恭平が戻ってきた。


「涼花ちゃん、今日は恭平くんがひさしぶりの日本だから、居酒屋で飲むわよ!」


「え、えっと、あの」


 涼花は一瞬、自分も一緒に行っていいものかと思った。


「わーい、千夏さんのおごりでしょ、やったー! ご馳走になりまーす」


 だが間髪入れずに恭平が嬉しそうな声で同調したので、涼花の戸惑いは遮られてしまった。


「よーし、じゃあ早速行きましょう! 炭火焼き鳥の店だから、もうこのままでいいわね」


「はーい!」


 千夏がシャツを指して着替えずに行くぞ、と暗に言うと、恭平が大きく手を挙げてそれに賛同する。


「あ、あの……」


 涼花の小さな声は盛り上がる二人には届かず、結局何も言えないまま、引っ張られるように居酒屋に向かった。

 


   *



「かんぱーい!」


 これで何度目の乾杯だろうか、と涼花は千夏を見て苦笑した。上機嫌の千夏はビールジョッキを傾け、豪快に飲んでいく。こんなに飲む人だということも初めて知った。


「うー、やっぱビールは日本が一番うまいね~! 生ビールさいこー!」


 こちらも上機嫌の恭平が五杯目のジョッキを空にした。いい飲みっぷりの二人についていけない涼花は、最初に頼んだビールもまだ半分残っている状態だ。一応酒は飲めるけれど、あまり飲みなれていないし、どちらかというとジュースの方がおいしいと感じてしまうお子様舌の持ち主だった。ちびちびとジョッキに残ったビールを飲みながら、控えめにつまみを口に入れていく。


「それでスペインの後はどーしたの? ヨーロッパは大方回ったんでしょ?」


「せっかくなんで、そっからモロッコに渡ったんですよ。そしたらまた災難で!」


 断片的な情報から何となく見えてきたのは、千夏がパリのカフェでバリスタとして働いていたところに、恭平がたまたまお客でやってきたのが始まりで、そこから意気投合してお友達になったらしいということだ。恭平の年は二十五歳で、少し年の離れた友人ではあるが、千夏がいろいろな意味ですごく若いので問題ないのだろう。

 恭平は昼間に聞いた通りバックパッカーで、世界各地を旅して回っている。もう五大陸は制覇済みで、後は気ままに行きたいところにふらりと行く生活。ではお金はどうしているのだろうかと思えば、旅先で記事を書くライターの仕事で稼いでいるらしい。


「イミグレで止められて~。パスポートの写真と違い過ぎるって。おれその時めっちゃ日焼けしてて、しかも髪も髭も伸びてたんすよね。それで疑われちゃって」


「え~? あはは、そんな人相変わることってあるぅ?」


「いやマジっすよ、コレ! んでそっこー髭剃らせてもらって、そしたら肌の色だけなんで、何とか入れてもらえて。でもその後も……」


 二人の話を聞いているのは楽しい。知らない国の知らない街、知らない言葉、知らない食べ物。何を言っているのかもよく分からない時もあるけれど、目を輝かせて語り合う二人を見ているだけで楽しいから別にいいと思えた。

 

 旅か……。旅なんて、学校の修学旅行とかそういうの以外、行ったことなかったな。

 親に言われるがまま、勧められた大学に入ったけれど、涼花の順風満帆な人生はそこまでだった。就活はしたが、なんだかぴんと来なくてうまくいかず、フリーターとして働くしかなかった。コンビニと飲食を掛け持ちして、日に十五時間くらい働いていた日もあった。

 でも、馬車馬のように働いていたのはお金が欲しかったからというわけではなくて、ただそうしていないと自分の存在意義を見失いそうになっていたからだ。たまの休みの日は針のむしろのようだった。父親は涼花に話しかけなくなっていたが、無言の背中が『お前は何のために大学を出たんだ』といつも言っているようで怖かった。バイトでもなんでも、とにかく働いていれば母親は文句を言わなかったので、なるべく家にいないようにシフトを組み、家に毎月お金を入れた。

 そんな生活をしていたから、涼花はたとえ自分で稼いだお金であろうとも、旅行に行くとは言いだせずに過ごしてきてしまった。余暇には目もくれず、ひたすらルーティーンのようにバイトをこなしていく日々をずっと重ねてきた。


「サハラ砂漠はね、すっごく綺麗だったよ。もーあれは言葉では言い表せないよ!」


「あ~いいなぁ、いつか行ってみたいとは思ってるんだけどね。……あ、すみませ~ん、生中もう一杯お願いしまーす」


「あ、じゃあおれも。二杯でお願いします!」


 ビールをがぶがぶ飲みながら陽気に話す千夏と恭平が、涼花には眩しくて仕方がなかった。自分の知らない世界をたくさん知っている二人がひどく輝いていて、自分は霞んでいるようで。

 

 納得していたはずの生活だった。それなりにお金は稼げていたし、望むことは何もなかった。私はこのまま生きていくんだってそう思っていた。


「……ね、涼花ちゃん? 聞いてる?」


「え、え? はい?」


 気が付いたら恭平が涼花の顔を覗き込んでいて、驚いてのけぞった。目の前に座っていたはずの千夏は席を立ったようだった。


「千夏さんならトイレ。……あのさ、お礼言いたかったんだよね、今日のお昼の」


「えっと、何のことでしょう?」


 背もたれに背中を預けて座り直した恭平が、照れくさそうに頬を掻きながら言う。ほんのり赤い頬は酔っているのだろう。目もよく見たらちょっと潤んでいた。


「お昼ご飯さ、おれ急に現れたのにおれの分のおにぎりまであったじゃない? あれ追加してくれたんでしょ? マンション出る前に」


 何の話かと思ったら、おにぎりの話だった。千夏の行動は予測できなかったが、昼近くにやってきた客をそのまま帰すことはしないだろうし、と機転を利かせて追加でおにぎりを握って入れたのだった。必要なければ食欲旺盛な若い男の腹に納まってしまうだろうし、困ることと言えば炊飯器が空っぽになるくらいのことだったから、涼花は黙ってそうしたのだ。


「だれかの分取っちゃうんじゃ申し訳ないなと思ったんだけど、なんか普通におれのところに回ってきたからさ。もしかしてと思って」


「あ……はい、追加しました」


 どう言ったらいいか分からずそのまま答えると、恭平は納得したように息を吐いて微笑んだ。


「やっぱり。ありがとう、おいしかった。ちょうど腹も減ってたし、あのおにぎりなかったら泣いてたかも」


 大げさに腹を押さえて言うのが可笑しくて、涼花は思わず笑ってしまった。


「ふふっ……まさか」


「いや~ほんとよ? おれ一人コンビニまで走らなきゃかなって思ってたもん。ホント嬉しかった」


 その全開の笑顔を、瞬き数回の間みつめて、すぐに目を逸らした。キラキラしすぎているから、目の毒だ。


「ああいう気遣いできるのってさすが女の子だよね。おれには無理。おれ、大ざっぱすぎるってみんなに言われるんだ。自分では結構繊細なつもりなのに」


 朗らかに笑いながら、恭平はまたビールを口に含んだ。


「んでも繊細だったらあれか~、ゲテモノ料理とかチャレンジできないよな。ドアなしトイレとか、前の人のお尻見つめながら……おっと、ごめん、ご飯中だった」


 えええ? と思いながら涼花は直接尋ねられず、曖昧に笑った。本当に未知の世界に生きている人だ。自分のちっぽけな世界とは違う、大きな世界に。


「涼花ちゃんはさ、どうして千夏さんを手伝ってるの。あ、ってか涼花ちゃんって呼んでもいい?」


「あ、はい。……大丈夫です」


 一瞬、自分の方が一つ年上なんだけれど、と思った。でもいい、彼の方がずっと大人びて見えたから。


「千夏さんが、ひと月前くらいに家に来て、カフェをやることにしたって、うちの母と話しているところにちょうど居合わせて……。私がフリーターだって知ったら、千夏さんがじゃあ私のところへ来ない? って誘ってくれて。それで……」


 フリーターと口にするのは気が引けたが、事実は事実であり、仕方ないと思った。……不思議だ、今まではそんなこと思ったりしなかったのに。

 続く言葉が見つからずもじもじしていたら、千夏さんが元気に帰ってきて、また飲み始めた。


「うーん! 楽しーねぇ! おかわりー!」


「ちょ、千夏さん飲みすぎだって!」


 さすがに度を超していると感じたのか、恭平が千夏にストップをかける。だが千夏はお構いなしで、店員におかわりを注文する。

 ああ、これどうなっちゃうんだろう……。結末がなんとなく見えてきながらも涼花は何もできず、慌てる恭平とハイテンションな千夏をただぼんやりと見守るだけだった。

 


  *



「千夏さん、すっかり寝ちゃった?」


「……はい」


 帰り道、いい感じに酔っぱらった千夏が歩けなくなって、恭平がおんぶする羽目になった。最初は「歩けるぅ!」と強がっていた千夏だったが、一分も経たないうちに恭平の背中で寝息を立て出した。


「千夏さん、こんなに飲むって知らなかったです」


 涼花が苦笑しながら言うと、恭平も笑って応えてくれた。


「パリにいたときはね、しょっちゅう日本人で集まって飲み会してたよ。千夏さん美人なのにさ、物言いが明け透けでおっさんそのものなんだ。んで、酔いが回ると寝ちゃうから、途中でその辺に転がしといてさ。そのくせ朝になるとしゃきーんって目覚めて二日酔いゼロなんて言うんだから、得な体質だよな」


 そんな千夏のいろいろな武勇伝を恭平が涼花に暴露しながらのんびり歩いて、三人はマンションへ帰り着いた。

 寝室のベッドにごろんと千夏を転がすと、恭平はふと涼花を振りかえった。


「あのさ……さっき気づいたんだけど、涼花ちゃんって、ここに一緒に……住んでる?」


 窺うような視線に、涼花は理解した。ああやっぱりそう思っていなかったんだな。知っていたら女二人住まいの家に泊まらせてとはなかなか言えないだろうから。


「は、はい。……あの、でも」


「あ~ごめんね! 戸惑わせちゃって! 大丈夫、今からでもホテル見つかると思うし! ってか千夏さん何でオッケーして」


 ぶつぶつ言いながら自分の荷物のところに行き、恭平は重いバックパックを背負った。


「んじゃ、おれ行くから、後で千夏さんに電話するって言っておいてくれる?」


 当然出ていく、という顔の恭平に、涼花は首を振って言った。


「いえ、あの、もう遅いですし、私なら大丈夫ですから泊まって行ってください。千夏さんも泊まっていけって言ってたし……」


 千夏をおんぶして連れてきてもらって、それでさよならというわけにもいかない。一晩くらいのことな

ら、別になんていうこともない。


「いや、でもやっぱり……」


「私、お風呂ためてきますから、待っててくださいね。本当に、気にしなくていいんで」


 なお躊躇を見せる恭平に、涼花はそう言いおいてその場を離れた。脱衣所に入る直前に振り向いたら、恭平は観念したようにバックパックを下ろしていたから泊まって行ってくれるだろう。後で千夏に怒られなくて済む、と胸を撫で下ろし、涼花は風呂の準備に取り掛かった。     

 


 *



 涼花の見通しが甘かったというべきなのか、千夏と恭平の思考が型破りだったというべきなのか、恭平はその日一晩だけの滞在ではなく、その後もずっとリビングのソファーを占領し続けた。

 朝起きて三人で朝ご飯を食べ、カフェに行って一緒に内装工事を手伝い、夜は一緒にマンションに戻り、夕食を作って食べたり外へ食べに行ったり、そして風呂に入って寝る。そういう生活が一週間ほど続いていた。

 恭平が来てから内装工事の作業効率がアップし、職人さんたちも楽しそうに働いてくれているので、文句など言えるはずもないが、一応妙齢の女性である涼花としては、家族ではない男性と一つ屋根の下、というのはなかなかに緊張を強いられる環境であった。

 

 昨夜もちょっとした事件があった。脱衣所のドアが少し空いていたので、誰もいないと思った涼花がドアを開けると、そこには湯気の立つ肌をさらした恭平がいた。漫画などでよくある話だが、実際に自分で体験することになるとは思わず、涼花としては大いに戸惑った。一瞬のことだったのであまりよく見ていないし、顔から胸辺りまでしか見ていないのだからセーフなのだけれど。



「さすがにちょっと意識しちゃうというか」


「え? 何を?」


 ぽつりと零した独り言に返事が返ってくるとは思わず、ぎょっとして顔をあげると、そこには恭平がいた。

 新しく設置されたシンクを拭いていた涼花と、カウンターの向こう側で棚にニスを塗っていた恭平の距離が近かったことに気づいたが、手遅れだった。もう職人さんも帰ってしまっていて、店の中は二人きりだった。


「いえ、何でもないです……」


 さすがに言えない、と口を閉ざした涼花に、恭平は合点のいったような顔で頷いた。


「あ、わかった。オープン近くなってきたから緊張してるんでしょ。でも涼花ちゃんって飲食やってたんじゃないの?」


 見当違いなことを自信たっぷりに言う恭平に、でもちょうどいいや、とそれに乗っかった。


「……えっと、ファミレスはやったことあるんですけど、カフェは初めてなんで。しかもこんなにおしゃれだし……」


 涼花はだいぶ整った内装を見渡しながら言い訳する。天井には空気を回すためのシーリングファンが取り付けられ、可愛らしいデザインの照明が吊り下げられた。夜になれば白く塗られた壁と穏やかな光が何ともいえない雰囲気を醸し出す。千夏が買い付けてきたアンティークの机やいすは、まだ隅の方に寄せられているが、一つとして同じものはなく、ばらばらに見えてどこか統一感がある。手作りの棚やカウンターはとても手作りとは思えない仕上がりで、その空間に溶け込んでいた。


「確かにきれいに仕上がったよな。昔、千夏さんがパリで働いてた時のお店にちょっと似てるかも」


 そうなんだ、と思いながら、もう一度見渡していると、恭平は立ち上がって額の汗を拭いた。エアコンは何日か前に取り付けられたが、工事が完了するまで使えない。恭平は腰をとんとんと叩きながら息を吐き、涼花を見た。


「あのさ、おれも一緒に働いても、いいかな。千夏さんとは昨日話したんだけど」


「え?」


 急な話に涼花は驚いて目を見開いた。一緒に働くって、ここで、このカフェで、だろうか。


「次の旅の旅費が貯まるまでって感じで、あんまり長くはないと思うんだけど、まぁ一緒に働くのはそんな問題ないと思うんだ、けど」


 珍しく恭平は言葉尻を濁した。


「……その、今でさえ迷惑かけてるけど、これからもマンションに居候させてもらいたいと思って……。ここで部屋とか借りちゃうと、貯まるもんも貯まんないし、ごめん、おれの都合だけど」


 頭を搔きながら申し訳なさそうに言う恭平に、涼花は首を振った。


「千夏さんがいいっていうなら、それで。私には決定権は……」


「そういうんじゃなくてさ」


 急に声の大きくなった恭平に驚き、目を見張る。目の前にいる恭平は涼花の顔をじっと見ていた。怒っているわけではない、ただ伝えようとする意思を感じさせる瞳だった。


「涼花ちゃんの意見が聞きたいんだ。迷惑だったらはっきり言って。じゃないとおれ、いいもんだと思って甘えちゃうから。本当は潔く出ていくべきなんだろうけど、正直、理想とお金の板挟み状態なんだ。……って、こういう風に言うと断れないよなぁ」


「あ~」と声を出しながら苦悩する恭平に、思わず笑いがこみあげてくる。本当に正直な人だ。何も言わずに居座っちゃえばいいのに、そうしないで私の意見を聞こうとするなんて。

 

 ……いい人だと思う。それはこの一週間でよくわかった。お金のためだというが、その仕事ぶりはすごく丁寧だし、楽しそうに人と接する。自分にはない能力を持っている。それは千夏と同じなのだけれど、年が近い分、余計に自分のふがいなさが身に染みる。


「……どうしてそんな風にできるのかな」


 思わず声に出してしまってハッとする。言うつもりなんてなかったのに。


「そんな風にって?」


 恭平に聞き返されて、涼花は目を逸らして体を縮めた。

 

 私ばっかり惨めだ。大学も出たのに、何がしたいのか分からない。バイトしかしていない。もう二十六なのに。ただただ目の前のことを処理していくしかできない。未来なんて見えない。足元さえも。



「……何に悩んでんのかわかんないけどさ」


 恭平がぽつりと呟いた。いつの間にか日が落ちて、店内は夕暮れの光を迎え入れ、鮮やかなオレンジ色と穏やかな影が複雑な模様を描いていた。不意に窓から入ってきた風が、涼花の前髪を少しだけ揺らした。


「おれも昔はさ、言いたいこと言えないタイプだったんだ。高校出て、普通に大学入ったんだけど、それは親に勧められたところで、別に自分が勉強したかったわけじゃなくて。一年くらい悶々としてたけど、ある日突然ぶちってキレちゃって。何のために生きているのかわかんなくなっちゃってさ。このままじゃ鬱になっちゃうと思って、ぽーんと海外に飛び出したの。親のいない、知り合いのいないところに逃げたんだな」


 それは今の恭平からは想像もできないような話だった。少し自分に似ていると思ったが、思い立って海外に行ってしまうところは全く違う。


「そしたらさ、もう自分の意見言わないとどうにもならない世界じゃん。何とかして意思伝えて、切符買ったりご飯食べたり、毎日が戦いみたいなもんで。そんな生活してたらなんか楽しくなっちゃって。ああ、おれのいる世界はこっちなのかなって。それでいったん日本に帰って親と話して、大学中退してさ、旅費貯めるためにガンガンバイトして、そんでまた旅に出たの」


 オレンジの光を頬に受けながら、恭平はふわりと笑った。苦笑しているような、誇らしげな、複雑な笑顔だった。


「世界一周も一応したんだけど、まだまだ行き足りなくって。また準備しないとって戻って来たんだ。旅行ビザじゃ就労制限かかるからね。あんまりがつがつ稼ぎに行くわけにはいかないんだ、捕まっちゃうと困るし」


「それで……」


 いろいろ合点がいって、ああ、と思った。この人は自分の道を見つけたんだ。そして自分の足で歩いていくために、もがいているんだ。今、とても輝いて見えるのは、いろいろな苦労を重ねて、それでもこの道がいいって選んだからなんだ。楽しいからなんだ。

 何も言えずにいても、こちらを見つめてくる澄んだ瞳に、すべて見透かされている気がした。せり上がってきた羨ましいという気持ちを。


「……涼花ちゃんだってちゃんと見つかるよ。だいたい今だってすごくいい仕事してるじゃん。みんなのことを考えて隙間縫ってあれこれやって。ちょこまか動いててリスみたいだなって思ってた」


 ……リス? そんなこと初めて言われた。

 多分思っていることが顔に出ているのかもしれない。恭平は苦笑を零してふっと息を吐いた。


「よく働いていると思う。大丈夫、みんなそう思ってるよ。千夏さんも、職人さんたちも」


 明るい光が徐々に移動して、室内は闇に浸食されつつあった。それでも穏やかに笑う恭平の顔は良く見えた。それは数週間前に会ったばかりとは思えないほど慕わしい笑顔だった。

 

 ずっと前から知り合いだったような、ずっと見ていたくなるような、心地いい笑顔。

 その笑顔に、涼花は自然と口を開いていた。


「……あの、恭平さん、大丈夫です、私」


「え?」


 うまくいえないのがもどかしい。でも考えることなどもう何もなかった。ハプニングはこれからもあるだろうけど、もうどうでもいい。

 そんなことよりもむしろ近くにいて、この輝きを見ていたい。いろいろな話を聞いてみたい。もっと話をしたい。だから……。


「いてください、一緒に」


 胸の中に満ちる温かい気持ちに任せてそう言うと、恭平の顔が真っ赤になった。


「……わ、かった」


 照れたように視線を逸らされて、涼花は自分の言葉を反芻する。……あれ、言い方間違えた?


「あっ、あの、その深い意味はなくてですね、あの」


「だ、大丈夫、分かってるから!」


 お互いに顔を隠しながら言い繕う。よく見えないけれど、真っ赤になっているはずだ。そうしてしばらくの間ふたりしてじたばたしているところへ千夏がやってきて、ふたりはさらに動転した。パチ、と付けられた照明に、見えなかった表情が映し出される。


「あれ? どうしたの二人とも真っ赤よ。おやおや、若い二人に何かあったのかな? うふふ」


「千夏さん! からかうのやめてくださいよ! 何もないっすから!」


「そ、そうです!」


 薄闇に包まれた真新しいカフェの店内で、暖かな笑い声が響く。

 宝石のように輝いていて、包み込むように温かい。そんなふたりの傍で、自分にも何かを見つけられそうな小さな予感を涼花は感じていた。


 きっと、いつかは、私にも。今はちっぽけな自分だけど、いつかのために頑張ってみよう。その日のために準備をしよう。勇気を育てていこう。


「あら、涼ちゃん、良い笑顔ね」


 自然と笑みが零れるのを千夏に見られてしまった。いつもならなんて答えたらいいか迷うところだけれど、これからは千夏にもいろんな話を聞いてみよう、そう思ったら素直に笑うことができた。


「はい」


 変わっていける、そう思った。

                  





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