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あの日、休憩室で榊原くんに冷たい言い方をしてしまった後も、彼はいつもと少しも変わらない態度だった。



仕事帰りに会社から離れたところで待ち合わせして、榊原くんがずっと気になっていたという創作居酒屋に行ってみたり、

社内の誰にも気付かれないよう、付箋にメッセージを添えてみたり、


そんな、まさに絵に描いたような ”社内恋愛” の日々を送っていたのだ。



あの日のぎこちなさなんてなかったように思えてくるほど、私達の間は平和だった。



私が少しでも疲れた顔をしているとさりげなく私の好きな飲み物を買ってきてくれたりする榊原くん。

もちろん、誰にも見られないようにこそっと渡してくれるのだが、その感じが、若干のスリルがあってドキドキしてしまう。


もうドキドキなんて使う年齢でもないかもしれないけど、事実、ドキドキしてしまうのだから仕方ない。


中高生の時だって、こんなに恋愛事に胸を躍らせていた覚えがない。



けれどそうやって社内恋愛を育んでいても、やっぱりあの日の休憩室での出来事を忘れてしまうことはできなくて、ふとした瞬間に思い出してしまう。



榊原くんが何も言ってこないのに私から持ち出すのも気が進まないし、かと言って、何もなかったことにもできない。



関係は良好なのに、小さなしこりが時々私を悩ませていた・・・・・




そしてもうひとつ、私を悩ませるものがあった。



”手作りチョコレート” だ。



柏原くんの誘いに乗ってしまった手作りチョコの練習だけど、榊原くんとあんなことがあって、私はやっぱり断ろうと思った。

榊原くんが私と柏原くんのことを気にしていたから。



けれど翌日、出勤途中で偶然出会った榊原くんは普段と変わらない挨拶をくれて、周りの目があるので当たり障りのない会話しかできなかったのだが、途中、バレンタインの話題が出てくると、彼の雰囲気がぱっと朗らかになったのだ。



その顔を見てしまったら、私はどうしても彼に手作りチョコレートを贈りたくなってしまった・・・・



柏原くんの手を借りずに一人で頑張ろうかとも思ったけれど、やっぱり、試食してくれる人がいた方が上達しそうな気もした。



私は迷ったうえで、柏原くんの誘いに乗ったままでいることにしたのだった。



だが、これが、上手くいかない。


スーパーのバレンタイン特設コーナーで売られていた、おそらく小学生、中学生向けの手作りキットをいくつか購入してみたのだが、それにもかかわらず、失敗続きだったのだ。


チョコレートがうまく溶けなかったり、逆に硬くなり過ぎたり・・・・

型からはみ出して固まってしまったチョコレートを見ると、不細工で、情けなくなってしまった。

レシピ通りにしているのにここまで失敗するなんて、柏原くんの言う通り、本当に私は天才的に下手なのかもしれない・・・・


それでも、どんな失敗作でも持って来いとのお達しを受け、私は渋々柏原くんに渡していた。

誰もいない会議部屋とか、エレベーターで二人になった隙にとか、渡す場所は転々としたけれど、チョコレートを渡した日は必ず柏原くんから感想の電話があった。


《よく混ぜたか?》

《次はちょっと牛乳を混ぜてみろよ》


私との約束を守って、柏原くんは一度も失敗作を笑ったり貶したりせず、ちゃんとしたアドバイスをくれた。


・・・・そのアドバイスが基本中の基本に聞こえて、私はそんなことすらできていないのかと、また情けなくなったが。


でも彼のアドバイスを取り入れると、ほんの少し、上達しているような気にはなった。



このまま頑張れば、バレンタイン当日にはなんとか間に合うかもしれない。

徐々にそう思えるようになっていった。



けれど一週間ほど過ぎた頃、おかしな噂が流れ始めたのだった。




―――――――――――――柏原係長と当麻主任の結婚が決まったらしい。




そんな根も葉もない噂が、じわじわと社内に広がっていたのだ。



どうやら、私が柏原くんにチョコレートを渡しているところを誰かに見られたらしい。


人目を避けて何かを渡していれば、確かにいろんな想像はできるだろう。

しかも一度ではなく、何度か目撃されていたとしたら、勘違いするのも仕方ない。



けれど、”付き合ってる” ではなく ”結婚が決まった” と、一段も二段も飛ばされたような内容には驚いてしまった。



しかも昼休みに大久保さんが教えてくれるまで、私は全然知らなかったのだ。



化粧室でメイク直しをしている途中、『本当なんですか?』と訊かれた私は、心当たりがあるせいか笑い飛ばすことはできなかったが、心の底から否定したのは言うまでもない。



大久保さんと別れてすぐに、私は榊原くんに電話をかけた。


仲が良い大久保さんがこの噂を知っているのなら、榊原くんの耳にも間違いなく入っているはずだと思ったからだ。


こんな日に限って榊原くんは日帰り出張だった。

この時間帯なら出先でも昼休憩だろうと思ったのだが、長めに鳴らした呼び出し音は留守電に切り替わってしまう。


・・・・電話したところで、なんて言うつもりだったのか・・・・



チョコレートの件を秘密にしている以上、私が柏原くんと会っていた本当の理由は話せない。

でも、だからといって榊原くんに嘘を吐きたくもなかった。



少し悩んで、私はメールを送ることにした。

とにかく、噂を知っているかどうかだけでも確かめたかったのだ。


化粧ポーチを胸と腕で挟むように持ち、メール作成しようとした、


そのとき、



「お疲れ」



昼休みの少々解放感が混じった賑わいから抜けて、声をかけられた。


声で誰だか分かった私は、反射的に顔を上げながらメーラーを閉じる。


すると事態を知らない柏原くんが呑気に「こんなとこで何してんだ?」と訊いてきた。


「お疲れ、じゃないわよ」


私は無性にイラついてとつっけんどんに言い返していた。



「なに苛立ってんだよ。もしかして、またアレが上手くいかなかったのか?」



アレとはチョコレートのことだろう。


柏原くんの軽口はいつものことなのに、いつものようには流せなかった。



「そうじゃないわよ!そんなこ・・」


言いかけて、ここが人通りの少なくない廊下であることを思い出した私は、柏原くんを端の死角になりやすいところに促した。


「・・・そんなことより、あんたと私の噂が流れてるの知ってる?」


潜めた声で尋ねると、柏原くんは愉快そうに笑った。


「怖い顔してるから何事かと思えばそんなことかよ。知ってるも何も、俺とお前の噂なんて入社以来流れては消え流れては消えの連続だろう?何を今さら」


平然と言い切る彼に、私は「そりゃそうだけど・・・」と返す言葉を失う。



確かに、柏原くんの言う通り、私達の噂は昔からあったのだ。


”付き合ってるらしい” からはじまり、”別れた” ”よりを戻した” 

柏原くんが転勤する際は ”当麻に振られた柏原が異動願を出した” そんな噂も聞いたことがあった。



学生ならまだしも社会人になってまでそんな恋愛系の噂に時間を割くなんて馬鹿げていると呆れたが、私達以外の人間もターゲットにされたりしていたので、いちいち感情を動かす必要もないと無視することにしていたのだ。


柏原くんはモテたので、余計に女子の噂の的にされやすかったのかもしれない。


私達は同期の中でも仲が良い方だし、柏原くんも私も付き合うのはいつも社外の人であまり恋人の存在が透けて見えることはなかったから、そういう噂がたちやすかったのだと思う。



ああいうのは否定するだけ怪しまれるから――――――――



以前の私なら、そう考えて、適当にあしらっていただろう。

でも今は全然状況が違う。


私は今回の噂はどうしても否定して消したかった。




「俺達の噂なんて今に始まったことじゃないのにそんな顔してるのは、あいつのせいか?」





柏原くんに尋ねられて、私は思わず言葉に詰まってしまった。



・・・・・図星だったからだ。



何も言い返せずにいる私に、柏原くんは「ふうん・・・」と楽しそうに笑う。



「・・・・・なによ」


「いや、お前、確か四年前はもう恋愛なんてしない、私は仕事に生きるんだ!・・・なんて言ってたのになあ・・・。まさかあんな若い男を捕まえ・・・・わ、何すんだよ。いきなり殴るなよな」


「うるさいわね!あんたがそんな大昔のこと持ち出すからでしょ!」



四年前、私が柏原くんと同じ部署に異動したのと当時付き合ってた人に振られたのがちょうど重なり、何度か彼にその話をしたことがあったのだ。


何も本気で恋愛しないと決めたわけではなかったけれど、別れるときに向こうから言われた言葉にちょっとへこんだり、その時すでに三十を超えていてまたゼロから恋愛するのが億劫になっていたりで、とにかく、しばらくは恋愛よりも仕事優先にするのだと、久しぶりに会った同期に語っていたのだろう。


「はいはい、悪かった悪かった」


柏原くんはちっとも悪びれずに笑ったままだ。


その明るい性格は憎めないけれど、今の私の気持ちは榊原くんのことでいっぱいで柏原くんとこうして二人で話をしているだけでも申し訳ない気がしていた。


もちろん柏原くんはそんな私の思いなんて知らないわけだから、いつものように、親しい同期の会話を続けようとしてくる。


「そんなことより、今日はアレあるのか?俺残業になるから、お前先にあがりなら・・」


「もうやめておいた方がよくない?」


私は柏原くんが言い終わる前にそう言っていた。


「は?なんで?」


「だって、たぶん今回の噂の原因はそれだもの。誰かに見られていたんだと思う」


「そんなのただの噂だろ?いちいち気にしてたら神経がいくつあっても足りないぞ?」


「でも今回のは今までとは違って ”結婚する” とか言われてるのよ?それに、今までは噂が流れても社内だけだったし、当時付き合ってた人の耳に入ることもなかったからいちいち気にしてなかったけど、今は違うから・・・・・。私、榊原くんに余計な心配させたくないの」



最後の一文は、自分でも不思議なほど凛然とした声だった。


柏原くんもそれを意外に感じたのか、少し驚いたように目を開いた。



けれど、すぐに穏やかな顔つきになった。


「・・・・・・ま、それもそうだな。あいつだってきっと噂を聞いてるんだろうし、恋人に余計な心配をかけないのはエチケットだよな。分かった。例のアレはもう終わりにしよう。あ、でももし今日持って来てるんだったら、せっかくだし貰っておくけど?今日はあいつもいないし、それで最後ってことでいいんじゃないか?」



例え部下だろうとそちらが正しければ潔く引く。そんな上司の評判を思い出した私は、そのお返しというわけではないが、彼の提案を受け取ることにしたのだった。



「いいわ。じゃ、私は十九時には終わらせるから、どこか絶対に人が来ないところ・・・・」


「非常階段はどうだ?あそこならその時間絶対に誰も来ないだろう」


「非常階段・・・・」


「なに?何か問題あるか?」



非常階段は、榊原くんが私に初めて告白してくれた場所だった。


そんなことまで気になってしまうなんて・・・・・・私はよほど榊原くんのことが好きらしい。


けれど柏原くんにそれを打ち明けるのも憚られて、私は曖昧に誤魔化した。



「別に。じゃあ帰り支度して十九時にはそこにいるから」


「分かった。オレは十九時過ぎに休憩するフリしてそっちに向かうよ。そんなに大きなものじゃないよな?」


「いつもと同じくらいの大きさよ。上着のポケットに入るくらい」


「じゃ、バレることもないだろ。OK、ではそろそろ昼休みも終わりますから仕事に戻りましょうか、当麻主任?」



おどけて言う柏原くん。



その、噂なんて気にしない鷹揚な態度に、私の心も少しだけ浮上したのだった。



十八時半をまわった頃に、私は「お先に失礼します」と告げて席を離れた。

そして更衣室に移動し、個人用のロッカーのカギを開けて奥に置いておいたチョコレートを確認する。


今日持ってきたのはトリュフだ。

素人には無謀にも思えたが、昨日帰りに寄ったスーパーで ”誰でも簡単!” のパッケージ文句につられて購入してしまったのだった。


だが意外とレシピは分かり易く、形は多少歪だがなんとなく味は大丈夫な気がした。


お節介な同期の提案を受けてからはじめてまともに作れたものかもしれない。




私は簡単にメイク直しをしてからコートのポケットにチョコレートを忍ばせて、非常階段に向かったのだった。




キ・・・という独特の音をたてて非常階段に続く扉を開けた。


ぼんやりと明るいそこは、各階から自由に出入りできるのだが、フロアの最奥という位置のせいかほとんど人は寄り付かない。


もしわざわざここに来る人間がいたとしたら、一人になりたいのか、誰かとの密会か、そのどちらかだろう。



・・・・そう思うと、私が今しようとしているのも密会になるのだろうか。



人目を避けてこんなところで会ってたりしたら、やっぱり誤解されても仕方ないんだろうな・・・・


もともとはそういう誤解をされたくないから、人気のない場所を選んでいたわけだけど、それが思いっきり裏目に出てしまった。



ささやかに後悔しながら、私はコン、コン、コン・・と階段を下りた。

そして踊り場で壁に背を当てると、ポケットから小さな箱を取り出し、たった今自分が入ってきた扉を見上げた。



時間にきっちりしてる柏原くんは、すぐに来るだろう。

そうしたら私はこれを渡して、一つ下のフロアから出たらいい。

この下もうちの会社のフロアだし何も問題はない。



私の頭の中はそんな段取りしかなくて、数か月前、榊原くんとここで二人きりになったときに感じていた緊張なんて今は数ミリも持っていなかった。



数か月前・・・・ここで、榊原くんに告白されたのだ。



”告白” なんて、学生や若い人の特権だと思っていた。

歳を重ねると、告白なんてなくても流れでそういう風になったり、雰囲気で付き合うことになったりが多いだろうから。

私自身の経験もそうだったし、友達や周りの人からも、いちいち告白されたなんて話は聞かない。



だから榊原くんから好きだと想いを告げられて、そのまっすぐさに照れたのと同時に、ちょっと羨ましかったりしたのを覚えている。


彼はまだ新卒で、若くて、私にはない瑞々しさがあったからだ。



それから数か月。その瑞々しい彼は私の大切な人になり、私はその大切な人に大の苦手な手作りチョコを贈ろうとしているなんて、なんだか不思議だ。



そう思った私がクスリと細い笑い息を吐いたとき、キ・・・と音が鳴ったのだった。




扉が開くと、その隙間から外の明るさが非常階段にも入り込んできたが、それは束の間だけで、すぐに扉は閉じられた。



「よ。待たせたか?」



残業中だというのに疲れなんて滲んでいない上司が、軽やかに階段を下りてくる。


「お疲れ。まだ仕事終わってないんでしょ?わざわざ悪いわね」


「いやいや、俺が言い出したことだから気にすんな。お、今日のはこれか?ラッピングもいい感じにできてるな」


手のひらを上向かせて ”ちょうだい” のポーズをする柏原くんに、私は「今日はトリュフに挑戦してみました」と言いながら小箱を手渡した。


「トリュフ?またハードル上げたな」


「でも割と上手くいった方だと思うのよ?さすがに一週間もチョコレートを溶かし続けてたから、いい加減慣れてきたのかも」


「言ったな?じゃあ期待して食うぞ?」


目じりに皺を走らせて笑う柏原くん。


ああ、ちょっと歳とったな・・・と思ってしまう。

・・・・お互い様だけど。


「誤解しないで。私の今まで作ったチョコの中ではまだマシな方・・って意味だから」


慌てて付け足す私に、柏原くんは皺を濃くした。


「たった一週間でずいぶん成長したんだな。お前の更なる成長を見届けられないのが残念だよ」


芝居がかって大げさに言う柏原くんに、私は「お褒めにあずかり光栄です」と同じ芝居口調で返した。



彼とは、ずっとこんな風だった。


冗談を言い合って、仕事で落ち込んだりしてもそれをネタに軽口叩き合うような関係。


彼の隣はとても居心地が良かったけれど、彼に特別な女の子ができればすぐにその位置を辞退したし、彼が転勤して何年も顔を合わさなくたって、心が辛くなることはなかった。


私の彼氏が柏原くんの存在を気にしたときだって、彼と私で何かがあるわけがない、ただの同期と言い切っていたし、逆にそんなこと気にするなんて狭量な男だと、自分の彼氏の評価を落としたりしたものだ。



だが、榊原くんは違った―――――――――――――



「おーい、聞こえてるか?」


ぼんやりと榊原くんのことを考えていた私は、ハッと柏原くんの声に反応した。


「あ、ごめん。なんて言ったの?」


「やっぱり聞いてなかったな?あいつにはこのチョコレートのこと話したのか?って訊いたんだよ」


そう言って柏原くんは小箱を顔の横まで持ち上げてみせる。


「・・・・・まだ話してないわ」


「なんだ、てっきり、噂を否定するのに今回のことも説明したと思ってたけど?」


「・・・・噂のこともまだ話せてないの・・・・」



昼休みに一度榊原くんに電話してみたが、その後彼から折り返しはなかった。

メールを送ろうとしたときに柏原くんと会って、昼休みが終わってしまって、結局私は榊原くんに何の連絡もできていなかったのだ。




「ふうん・・・・。まあ、お前達の問題だから別にいいけど、なんか、よそよそしい感じだよな。まだ付き合いたてで遠慮してんのか?というより、猫かぶってるだけか」


「・・・・・なによ、猫かぶってるって」


「ほら、そんな顔、あいつの前ではしないだろ?お前のことだから歳のこととか気にしてるのかもしれないけどな。・・・・ま、特別な相手ほど言いたいことが言えなくなる時ってあるか」


同い年のくせにたまに兄のような態度になる柏原くんが、優しく笑った。


そして、何気なく私の頭をぽんぽんと叩き、私がそれに反応して柏原くんの顔を見上げたのだが、



キ・・・・



三度目に扉が開く音がして、私も柏原くんも、そちらに目をやった。




その場所には、榊原くんが立っていた―――――――――




「あ・・・・」



私は何かを言おうと口を開いたけれど、それを拒否するように榊原くんが勢いよく駆け出してしまい、ガタン、と重たい扉が閉じる音にかき消されてしまう。



「なにやってんだよ、はやく追えよ!」


突然のことに呆然としてしまった私を、鋭い柏原くんの声が責める。


「・・・・・・っ!ごめん!」


なぜだかそう口にしていた私はすぐに階段を駆け上がった。


コッコッコッコッとハイヒールの硬い音が響き渡る中、心の中では榊原くん名前を大声で叫んでいた。



フロアに出た私は榊原くんの姿を探すも、近くには見当たらない。


さすがに社内を走り回ることもできないので早歩きで廊下を進むと、同じ部署の男性社員が通りかかった。



「あれ?当麻主任、もう帰られたと思ってましたよ」


「・・・ちょっとメイク直ししてたのよ。あ、そうだ、榊原くん知らない?さっきちらっと見かけた気がしたんだけど・・・」


「榊原なら出先から戻ってきて、当麻主任のこと探してましたよ。『もう帰った』って答えたらあいつもすぐに帰りましたけど。今日は直帰予定だったみたいですからね。わざわざ当麻主任に用があって立ち寄ったみたいです。相当懐かれてますよね、当麻主任」



もう帰った・・・・


私は簡単に礼を言うと、エレベーターホールに急いだ。



ちょうど誰かが使った直後だったのかエレベーターは扉が開いていて、私は脇目も振らず滑り込んだ。


そして誰も乗ってないのをいいことに、カチカチカチと何度もボタンを押す。



少しでも早く榊原くんに追いつきたかったのだ。



エレベーターが一階エントランスに着くと、私は扉が開ききる前に飛び出した。


そしてそのまま榊原くんの帰宅方向に走った。

ハイヒールで走るなんて久しぶりだったけど、そんなの気にしてられない。


追いつけるかどうか分からないけど、そうせずにはいられなかった。



こんな風に男の人を走って追いかけるなんて初めてで、しかもそれが十二も年下の男の子だなんてなんだか信じられないけど、



たぶん、それが ”好き” ということなのだと思う。



けれどそんな私の想いとは裏腹に、大した距離も走っていないのにもう踵が痛くなってきた。


私はヒリリとした痛みを感じながらも、そんな痛みは無視することにした。


噂とか、さっきの私と柏原くんの姿とか、もしかしたら榊原くんはもっと痛い気持ちになったのかもしれないと思ったら、踵の痛みなんか罰にもならないから。



帰宅ラッシュほどではないがこの時間帯のオフィス街は駅に向かう人の流れが大きくて、私はそれを縫うようにして榊原くんを探した。



すると、横断歩道で信号待ちをしている人の群れの中に、大好きな後ろ姿を見つけた。


ステンカラーの、細身のコート。


背の高い榊原くんにとても似合っていて、あのコートは男前度を一・五倍にすると女性社員が話していた。



私は彼を見つけられた安堵と、久しぶりに走って息があがってしまったせいで、横断歩道の手前で足を止め、呼吸を整えた。


けれど、すぐに信号が青に変わってしまい、信号待ちの集団が一斉に歩き出したのだ。



やっと見つけた彼が、また離れていく。


そう感じた刹那、



「待って!榊原くん待って!!」



大声で叫んでいた。



私の声に、何事かと人々が振り返る。


当然、榊原くんも後ろを向いて、私の姿に気が付いた。


なのに、彼は一旦止めた足をまた前に戻したのだ。


離れているのでその表情までは見て取れなかったが、私は彼が怒っているのだと思い、


「待って!榊原くん、話を聞いて!」


恥も外聞もなく彼に呼びかける。



すると、横断歩道の途中まで行っていた榊原くんが、またくるりと振り向いて、今度は私に向かって小走りに戻ってきてくれた。



それが分かった途端、私は肩から力が抜けて深い息が零れ出ていた。




「・・・・・僕を追いかけてきてくれたんですね・・・・」



私の目の前に立った榊原くんは、無表情だった。



「だって、きっと、榊原くん、誤解、したと思っ、て・・・・」



まだ呼吸が落ち着かない私は、途切れ途切れになるセリフがもどかしくて、それでも榊原くんにちゃんと話したかった。



「・・・・・そんな高いハイヒールで走ったりしたら、危ないじゃないですか」



そう言った榊原くんは、その場に膝をついて私の足を見てくれた。



「ほら、踵を傷めてるんじゃないですか?」



見上げて尋ねてくるその表情は、いつもの彼だった。



「だい・・・大丈夫」


「僕、今日は直帰予定だったんで車なんです。すぐそこのパーキングに止めてるんで、そこまで歩けますか?」


「あ・・・・うん、平気」


「じゃ、行きましょう」



榊原くんは素早く立ち上がって、私の手を握った。



「・・・・・榊原くん?・・・・ここ、会社の近くだから・・・・」


だから手を離して。


そう伝えようとするも、逆に強く握り返されてしまう。



「何も悪いことはしてません」



そう言い切った榊原くんの横顔はとても年下には思えないほどに男らしくて、私は何も返せなかった・・・・・




少し歩いたところにあるパーキングに榊原くんの車はあった。

学生の頃にアルバイトをして中古の国産SUVを購入したと聞いたことがあったが、実際に見るのははじめてだった。


ピピッと音がしてロックが解除されると、榊原くんは助手席のドアを開けてくれた。


「足、大丈夫ですか?」


「大丈夫よ。ちょっと擦れただけだから。でも、ありがとう・・・」



私を乗せた後榊原くんは後部座席にビジネスバッグを置き、運転席に乗り込んだ。



「・・・・美咲さんがこの車に乗るのははじめてですよね?」


「そうね・・・・」



微妙に会話が広がらない。


彼がエンジンをかけると車内にはスタンダードジャズが流れ出し、無音ではなくなったけれど、二人の雰囲気はぎこちなさが残った。



「家まで送ります。・・・・その間、話をしてもいいですか?」



こちらを見ずに尋ねてくる榊原くんに、私も前を向いたまま


「・・・・・・私も話したいことがあるの」


と答えたのだった。





榊原くんがハンドルを握る車に乗るのははじめてだったけど、年齢の割には落ち着いた運転だなと思った。


それは彼の普段の性格に似ているようにも感じて、私はどこか安心していた。



真冬の街中を走っていると、クリスマスはもうとっくに終わったというのにまだあちこちでイルミネーションが行われていて、澄んだ夜の空気にきらきらと映されている。



けれど私と榊原くんは、そんな車窓の景色を愛でる余裕はなく、互いにどこから話の糸口を見つけようか迷っているような気がした。



「さっき・・・・」



痺れを切らしたのは榊原くんだった。



「あそこで柏原係長と何をしてたのか、・・・・訊いてもいいですか?」



どこか控えめな問い方に、私は微かに心の距離を感じた。


さっき横断歩道で見かけた姿は確かに怒りを纏っていたのに・・・・



これが、柏原くんが言った ”よそよそしい感じ” なのだろう。

私も榊原くんも、まだお互いに遠慮し合っている。

それは事実だった。



「あれは・・・・」


言いかけて、淀む。


適当に言い訳することもできる。

例えば、借りてたCDを返したとか、変な噂があるから人目のない場所を選んで返したのだとか、

いくらでも誤魔化しようはあるのに、私は言葉が出てこなかった。


すると



「・・・・・・言いにくいことならいいです」



ステアリングを握っている彼が、そう言った。


「違うの!」


咄嗟にそう言った私だけど、榊原くんは「いいんです」と首を振った。



「美咲さんのこと信じてますし、お二人が同期で仲が良いのは前から分かってたことですから」



それは榊原くんの本心なのかもしれないけれど、私は、彼がその裏に隠した気持ちに触れたかった。



だから――――――――――――




「私、お菓子作りがド下手なの!」




膝の上で両手を握り、榊原くんから逃げるように目を強く閉じて勢い任せで打ち明けた。



言ってしまってから、私は、もっと言い方があるだろうに・・・と、”ド下手” なんて子供じみた言い方をした自分が恥ずかしくなった。



職場でしかほとんど会ったことがない榊原くんの中では、きっと私は、もっとしっかりしていて、仕事も料理も、お菓子作りだって器用にこなす自立した女というイメージなのだと思う。



そんな私を好きと言ってくれた彼の前で、そのイメージを壊すようなことはしたくなかったのだが、これ以上柏原くんのことで彼に心配かけたくはないという気持ちの方が大きくなっていたのだ。



「え・・・お菓子作り・・・?」


私の告白を聞いた榊原くんは、唐突な話題転換にぽかんとこちらを見た。

ちょうど信号で停止したせいもあり、彼はまじまじと見つめてくる。


私はその眼差しにちょっと窮屈さを感じながらも、榊原くんが戻ってきてくれたことが嬉しかった。


「あの・・・・うん、そうなの。だけど榊原くん、前に私の手作りチョコが楽しみだって言ってたでしょう?・・あ、バレンタインの話なんだけど・・・。それで、私がお菓子作りが苦手だって知ってる柏原くんが自分を練習台にしたらいいって提案してくれて・・・・」


「練習台、ですか・・・?」


私の言ったことを辿るように、榊原くんが尋ね返してくる。


「そうなの。たぶん、同期のよしみでだと思うんだけどね。ほら、榊原くんは私が料理するのを見て、きっとお菓子作りも得意だと思ってたでしょう?その期待を裏切りたくなくて・・・・・違うわね、私が、榊原くんにがっかりされたくなくて、それで柏原くんにアドバイスもらってたの。もう一週間くらいになるかな。私が作ったのを柏原くんに渡して味見してもらってたんだけど、それを誰かに見られてたみたいで、それであんな噂を、」


「二人が春に結婚するって噂ですか?」


榊原くんがまた一瞬無表情になって、顔を前に戻した。

信号が青になったのだ。


やっぱりあの噂は、榊原くんのところにまで届いていたようだ。


榊原くんの知っているのは春という具体的な時期まで含まれているみたいだけど。


「・・・・・知ってたんだ・・・」


「大久保が別の部署の同期から教えてもらったみたいで、僕は一昨日聞きました」



榊原くんは運転に意識を移しながら、でもその横顔はいつもの優しい榊原くんだった。



「・・・・・私は、今日知ったの。大久保さんから『本当ですか?』って訊かれて・・・・あ、もちろんすぐに否定したんだけど」



大久保さん一人に否定したからといって噂自体がなくなるわけではないけれど、私は否定したということを榊原くんに知ってほしかった。


けれど榊原くんはフ・・ッと小さな息を溢すと、


「噂なんてどうでもいいんです」と言ったのだ。



十二も年下のくせして私よりも落ち着いて見えるときがあるような、大人びている印象はあったけれど、今がその最たるものかもしれない。


彼は泰然と進行する先を向いていて、本当に ”噂なんて” という態度だった。



もちろん、実際に私が付き合ってるのは榊原くんなのだから、柏原くんと結婚なんてするわけないのだが、それでも恋人と他の人との噂を聞いたりしたら少しは疑ったりするものではないのだろうか?


なのに今の榊原くんからは、そんな様子が微塵も感じられないのだ。



私のことを信じてくれているのは嬉しい。


でもそれなら、なぜさっき非常階段で私と柏原くんを見てすぐに引き返したりしたのだろう?


私の疑問を感じ取ったのか、榊原くんは少しの沈黙の後、その理由を話してくれた。



「美咲さんと柏原係長の噂なんて、僕が入社したときからありました。お二人は新入社員の中でもよく話題になるくらい目立つ存在でしたし、特に柏原係長は女子に人気でしたから。誰かが思い切って柏原係長本人に訊いたら笑って否定されたらしいんですけど、それでもお二人の雰囲気がお似合いだってことで、僕達同期の間では ”今は付き合ってないとしても時間の問題” もしくは ”付き合ってるけど社内恋愛だから秘密にしている” という設定で固まってたんです。でも僕は美咲さんのことをずっと見てましたから、柏原係長との間に何かあるとは思えませんでした。だからあのとき思い切って告白したんです」



榊原くんは何でもない風な話し口調だったけれど、さりげなく、ずっと見ていたと言われて、私は胸が響いた。


「ですから、お二人の噂で今さら動揺なんかするはずないんです。・・・・・でも、最近、僕達が付き合い出してからなんですけど、なんだか柏原係長と美咲さん、二人きりの場面とよく遭遇するんです。偶然かもしれませんけど、それがどうしても気になってしまって・・・・。そんなときにあの噂です。いくら僕が噂なんて気にしないと思っていてもさすがに何もない素振りはできませんでした」


子細に話しながらも榊原くんは運転も丁寧なままで、車は幹線道路から脇に入り、車窓に流れる灯りも少なくなった。


榊原くんは私のマンションを知っているから、きっとこの道が近道になるのだろうと、私は疑いもしなかった。



確かに、最近柏原くんと一緒にいるときに榊原くんと出会うことが何度かあった。

けれど柏原くんはただの同期で、もちろん今は上司でもあるけれど、例え二人きりでいようとそういう目で見られている感覚はなかったのだ。



だけど・・・・



私は榊原くんと大久保さんのことを思い出していた。


彼らの仲を疑うつもりなど一ミリもないけれど、やぱっり、どうしても意識はしてしまう。


それと同じように、榊原くんも私と柏原くんのことを気にしていたのだと思うと、申し訳ない気持ちが膨れ上がってくる。


さっきの非常階段の光景、もし逆の立場だったら?

人目を忍ぶような場所で榊原くんと大久保さんが二人きりでいるのを目撃したら?


私は今になって、やっぱり柏原くんにチョコレートの練習台になってもらったのは間違いだったと思った。


いくら榊原くんに手作りチョコを贈りたかったからといっても、その榊原くんの気持ちを傷付けるような可能性が少しでもあるなら、受けるべきではなかった。



「・・・・・・ごめんなさい」



気が付いたら、そう言っていた。


すると榊原くんは少し驚いたようにこちらを向き、


「いいんです、そんな・・・美咲さんのせいじゃありませんから。ただ僕が勝手にへこんでただけで、自分の器の小ささに腹が立っただけなんです。でもそれは・・・僕がまだ美咲さんや柏原係長みたいに大人になりきれていないせいですから・・・・」


困ったような、寂しそうな顔つきで告げた。



榊原くんの器が小さいなんて、社内の人間が聞いたとして、誰が信じるだろう。



私は静かに首を振った。



「そうじゃないわ。もともと、私が正直にお菓子作りが苦手だって話していればよかったのよ。なのに、榊原くんに変な見栄を張ろうとするからこんなことになっちゃったの」


「美咲さん・・・・」



車の外の景色は更に静けさを増していく。



そして、車も人も、誰もいない交差点の信号が黙って赤に変わった。



当然私達が乗った車は止まり、静謐が充満する。



二人とも前を向いていたけれど、


「美咲さん?」


榊原くんの声に、私は振り向いた。



彼は整った顔に少しばかり厳しい色を足して、私を見ていた。



「・・・・なに?」



私が返事すると、榊原くんはぐっと何かを心に閉じ込めるように唇を噛み、そして私を見つめたまま、泣きそうな表情をして―――――――――




「僕に独占させてください――――――――――――」




掠れるような絞り出すような声で、そう言った。




そのセリフが、その様子が、なんだか切羽詰まっているように感じて、私も胸が苦しくなる。


そしてドクドクドク・・と騒がしくなる心臓。


自分の胸の辺りをコートの上から擦り、お願いだからこれ以上うるさくしないでと願ってみるも、榊原くんに見つめられたままでは叶わなかった。



――――――――おかしくなる。



これ以上榊原くんの視線を受けていたら、私はおかしくなる――――――――



そう感じた私はパッと顔を背けた。


けれど、



「美咲さんの好きなもの、得意なもの、それから苦手なものも、全部僕に独占させてください。他の誰よりも、僕が美咲さんのことを一番知ってる人間になりたいんです。だから―――――――――」



榊原くんの声が耳もとで聞こえた、と思った瞬間、



唇を、塞がれていた。



榊原くんの体温と香りが私を包み込んで、あっけなく虜にしていく。



榊原くんの唇が私の唇を食み、角度を変えて続く。



それは、すべてを覆ってしまうような勢いで、深く深く、榊原くんに求められていると実感できる口づけだった。



彼のいったいどこにこんな熱情が潜んでいたのだろうと、私は驚きながらもそれ以上に嬉しかった。

左手でそっと彼の襟足に触れると、その体がビクリ、と震えた。

榊原くんの香りが一層濃くなったように感じて、私は彼ともっと繋がりたいと素直に思った。


けれどそう思った途端、榊原くんのキスが唐突に終わったのだった。



「・・・・・・すみません、我慢できなくて、つい・・・・」



私の体を解放した榊原くんが、済まなさそうに言った。



「あ・・・・・・・ううん、大丈夫」



何が大丈夫だ、榊原くんのキスに引き込まれていたくせに。


私は自嘲したくなるところを堪え、大人の対応をとる。



すると榊原くんは愁眉を開いて


「でも、今言ったことは本心ですから」


と告げた。



「美咲さんが僕に苦手なものを隠したかった気持ちも理解できます。でも、僕の知らない美咲さんを他の誰かが知っているのは嫌です」



嫌です。そうはっきり言い切る榊原くんに、私は彼の想いの強さを見た気がした。



「・・・・そうよね、それは、ごめんなさい。でもやっぱり私の中で榊原くんは特別だから、その・・・手作りのチョコレートを期待されたらそれに応えたいと思ったの。でも、やり方を間違えたのね・・・・」



最初から苦手だと打ち明けて、それでも彼のために作ってみると伝えればよかった。かっこつけたりせずに。



私の反省を聞いた榊原くんは、さっきまでの雰囲気を霧散させるように、


「僕は美咲さんの ”特別” なんですね」


と言って、にっこりと微笑んでくれた。



それがまたこちらが蕩けてしまうような甘やかなものだったから、私は急に顔が熱くなってしまう。


榊原くんはそんな私の反応に満足したようにフッと笑い息を弾ませ、


「じゃあ、”特別” の証として、僕のことも名前で呼んでくれませんか?」


そう尋ねながら、車を発進させた。

・・・・・もう結構前に信号は青に変わっていたのだ。



「榊原と柏原、名前も似てるから、なんだか同じレベルにいるような感じがしてしまって・・・・って、そんなことを気にするなんて、やっぱり僕はまだまだ子供っぽいですよね」


苦笑いを浮かべる榊原くんに、私はすぐにでも応じたくなった。



「名前って・・・・湊くん・・・?」


戸惑いつつもそう呼んでみたのに、どうしてか彼からは返事が聞こえない。

私は不安になって、もう一度問いかけた。


「え? ”湊くん” じゃダメ?」


焦って運転席に顔を寄せると、榊原くんは片手で口元を隠していた。


「・・・・・榊原くん?」


「美咲さんって・・・・・・・何気に無自覚ですよね」


私を横目で掠め見て、ハア・・・と長めのため息を吐いた榊原くん。


「無自覚?何が?湊くんじゃダメだった・・」


ダメだったの?

そう訊き終わる前に、彼の優しいキスが私のこめかみに当てられた。



「―――――――――っ」


キスされた場所を脊髄反射のように手で押さえた私は、自分でも顔が紅潮しているのが分かった。



榊原くん―――――湊くんは、運転しながら私の髪に触れると、



「美咲さん、可愛い・・・・・・」


そのまま溶けてなくなってしまうのではというほどに甘く、囁いたのだった。



車の中ではちょうどジャズの My Funny Valentine が流れ出し、私はそれに耳を傾けるフリで顔のほてりを冷ました。



この曲の登場人物はファニーフェイスと歌われていて、”だけど、私のために変わったりしないで。私のことが好きならそのままでいて・・・” そう言われている歌詞に、今の自分が重なったように感じた。



きっと、どんなファニーな(滑稽な、おかしな)チョコレートを贈っても、湊くんは喜んでくれるだろうから。


そのことにもっと早く気付いていれば、あんなファニーな噂も流れなかっただろうに・・・・



私が曲に乗るようにそんなことを考えていると、「最後にひとつだけ・・・」と湊くんが口を開いた。



「なに?」


「柏原係長に練習台になってもらってたチョコレートですけど、柏原係長からの提案だったんですよね?」


「そうだけど・・・・」


「どうして柏原係長がそこまでしてくれたんですか?美咲さんに何か借りがあったとか?」


「そんなことはないけど・・・・同期のよしみというか、単なるお節介というか・・・・?」


「お節介ですか・・・・」



私の説明に納得いかないのか、湊くんは右肘を窓に置いて、指先は自分の唇に当てたり離したりしていた。

まるでなにか思案しているように。



けれどそんなに間を置かずに、「・・・・・うん」と頷いた。



そして運転しながら助手席の私にちらりと見向き、いつもの穏やかな笑顔で言った。



「そのお節介なチョコレートは、もうおしまいでいいですよね?」



素直に打ち明けた後の恋人からの嫉妬は、とても甘く、



私は一足先にバレンタインのチョコレートを贈ってもらった気分だった。













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