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彼氏






私が勤める会社には、とんでもない美貌の持ち主がいる。



彼は昨年入社してきたばかりの新人なのに、新入社員研修を終え、OJT が始まる頃にはすでに社内で知らない人間はいないほどの有名人になっていた。



その怖いほどに端正過ぎる容姿はもちろん、身長も高く高学歴で、配属された部署では新人らしからぬ仕事ぶりが評判で、おまけに性格までよかったのだ。



当然、そんな彼はとてもモテた。

同期をはじめ、先輩の女性社員、同じオフィスビルに入っている他社の女性、数えたらきりがないほどに声を掛けられているそうだ。


中には真剣な告白もあるそうだが、彼はそういった類のものに一度も頷かなかった。



私はその噂を聞いたとき、


彼は恋愛なんかによそ見しないで仕事に取り組む真面目な子なんだな・・・


と、好印象を持った。



時々いるのだ。

入社早々恋愛事でトラブルを起こす学生気分の抜け切れていない人間が。



特に彼のように目立ってモテるタイプは、自らは何もしなくてもトラブルに巻き込まれることだって多いだろう。


けれど彼はそんなトラブルの種さえ拾わない、清廉を絵に描いたような人だった。



飲みの席でも適度に飲むが控えめで、酔っぱらった姿など見たことはなかった。


たまにミスをしても、指摘するとすぐに理解し、同じ過ちを繰り返さないよう努力する。



そんなところは、一緒に働く者として、非常に好感を覚えた。





けれど、それだけだった。




確かに彼は外見も性格も素晴らしかったし、話をしても楽しい。

礼儀正しく清潔感があって、社内のほとんどの独身女性社員が彼のファンで、ものすごい争奪戦が展開されている、という噂も大いに納得できる。



だけど私は、その争奪戦に加わるつもりなど微塵もなかった。




だって私は、彼より十二も年上だったから――――――――――――――――



「あ、当麻とうま主任!さきほど柏原かしわら係長が探してらっしゃいましたよ」



化粧室から出たところで、件の美貌の持ち主、榊原さかきばら みなとから声を掛けられ、私は立ち止まった。



「柏原係長が?・・・何の用か知ってる?」



その名前に嫌な予感がした私は、怪訝を繕いもせずに尋ねた。

柏原係長・・彼は私の同期なのだが、こんな、終業まで一時間を切った頃に何か用があるなんて、残業の気配がぷんぷんではないか。

ただの食事や飲みの誘いなら彼はメールで連絡してくるはずだ。


今日は早く帰りたかったのに。



「いえ、用件はお聞きしてませんが・・・・・って、美咲さん、顔が怖いですよ」


「だって、あいつがこんな時間に私を探すなんて・・・」


「残業、ですか?」



私の語尾を優しく盗んで、榊原くんが尋ねてくる。



「ん・・・・かもしれない」



私は申し訳ない気持ちを混ぜてそう答えた。


けれど榊原くんはにっこり笑うと、



「いいですよ。僕も手伝います」と言ってくれた。



「ありがとう。でも内容によったら、手伝ってもらえることが少ないかも・・」


「そのときは近くのカフェにでも行ってますから。美咲さんは気にせず仕事してください」


「ごめんね。でもそう言ってもらえて助かる・・あ、だめでしょ。職場で名前は・・・」


「すみません、ついうっかり。大丈夫ですよ、僕達しかいませんから」



周りを見まわす私に、彼が落ち着いて言う。


十二も年下なのに、彼の方がしっかりしているように思う瞬間だ。



私は軽く彼を睨んでみたが、それはポーズに過ぎず、彼もなにやら嬉しそうに「すみません」と言葉だけの謝罪を返してきた。



そのいたずらっぽい表情は仕事をしているときの真剣なものとは全然違って、私は、ズルいな・・と思った。


こんなギャップを見せられたら、いい歳した私だってどぎまぎしてしまうではないか。



けれど彼はこちらのことなんかお構いなしに、私に近付いてくると、上体を屈めて・・・・



「今夜・・・・楽しみで死にそうです・・・・」



耳もとで、甘く囁いた。





我が社のとんでもない美貌の持ち主は、一カ月ほど前から、私の恋人になったのだ――――――――――――――



彼から好きだと告げられたのは、数ヶ月前だった。



社内で一番モテると噂の彼だったから、はじめは冗談かリップサービスかと思った。

けれど彼はいたって真面目な調子で、本気だからとか、誤魔化さないでとか、映画のセリフ顔負けな口説き文句を次から次へと浴びせてきて、とうとう私は一カ月前に陥落してしまった。



といっても、彼は口説いてる最中もほどよく逃げ道も残してくれていたので、私が彼と付き合うことにしたのは彼の積極的な態度に押し切られたせいではなく、ただ単に、彼を好きになったからだ。



もちろん、年齢のことを悩まなかったわけではない。

私がこの会社に入ったとき、彼はまだランドセルを背負った小学生だったわけだから。


それだけではない。

私の今の年齢は、日本人女性の初婚平均年齢をとっくに超えている。


もともと結婚願望がさほど強くなかった私は、数年前に当時付き合っていた人と別れたときにその少ない願望をさらに減らしたのだが、三十半ばを超えて恋人ができたとなれば、減らしたはずの願望も敗者復活的に蘇ってきそうな予感がしていた。



 ”結婚はともかく、子供はタイムリミットがあるからねえ・・・・”



同年代の友人達との会話が、忘れようとしても頭のどこかに居座っていたからだ。



けれど、彼は十二も年下の、世間一般で言うところの、遊びたい年齢だ。

そして、まだそれが許される年齢でもある。



片や私は出産のタイムリミットが迫ってきている。



それをまったく意識するなという方が難しいだろう。



捨てようと思ったはずの ”願望” が、彼の登場で ”期待” にランクアップしていると気付いたとき、私はなんだか恥ずかしくなってしまった。


まだ付き合い始めて一カ月ほどで、深い付き合いでもないのにそこまで考えるなんてと、彼に申し訳なくなったのだ。




とにかく、私が年齢のことで彼に後ろめたい気持ちを持っていることは間違いなかったのだ・・・・・





「私をお呼びと伺いましたが?」



榊原くんと別れた私は、同期で上司でもある柏原 いつきのデスクに向かった。


デスクといっても、私の斜め前にあるので立ち上がればすぐの距離だ。



彼は同期の中でも一番に係長になり、このままだと社内の昇進最速記録を更新するのではともっぱらの噂だった。


私達の代は入社してしばらくはよく飲みに行ったり同期の集まりも多かったのだが、やがて異動やら退職で抜ける者が出てきて、今はほとんど年賀状だけの付き合いになっていた。


実際、柏原くんともそんな感じでしばらく疎遠になっていた。

けれど四年前、私が部署異動で彼の下につくことになってからは、インターバルなんて感じさせないくらいの気安さで接していたのだ。

もちろん、仕事中はあくまでも上司と部下の関係を保っていたけれど。



「ああ、今ちょっと手が空いてるかな?」


「・・・・・空いてると言えば空いてますけど・・・・」


「そんな嫌そうな顔すんなよ」


私の反応を見た彼に、苦笑で返される。


「申し訳ありません。嫌な予感しかしないものですから・・・」


「嫌な予感って・・・・まあいい。ちょっと会議部屋に移動してもいいか?」



そう言うと彼はデスクの上にあったブルーのファイルを持ち、私をガラス窓で仕切られた会議部屋に促した。


会議室というほど大仰ではなく、手軽なミーティングが行えるような、小さなスペースだ。

腰あたりの高さより上は全面ガラス窓になっているので、話し声は聞こえなくともその中に誰がいるのかは一目瞭然だった。

もちろん、ブラインドを下ろせば外からの視線を遮ることも可能だ。



私達が入ったときブラインドはすべて下ろされていたが、彼がその角度を変え、外の様子が見えるように調整した。



長机が中央に並び、その周りを簡易椅子が取り囲んでいるけれど、二人とも腰をおろそうとはしなかった。



そして彼はファイルをポンと机に放り置いた。



「実はちょっと相談があるんだよ」


「ほらきた。残業ですか?」



私はファイルの中身を確認しようとしたが、



「それはカモフラージュ。手ぶらでここに入ったら怪しまれるだろう?」



会議部屋の外をクイッと顎で示しながら、彼がそう言った。



彼の指した先に榊原くんがいたので、私は思わず「え?!」と発してしまった。



すると彼は特に驚いた風でもなく、「バレバレなんだよ」と笑ったのだった。



「いったいどんだけ長い付き合いだと思ってんだよ。そんなの、お前を見てたらすぐに気が付くって」



半ば呆れ顔の彼に、私は軽くパニックになる。


誰にも言わないでおこうと決めたはずの彼との関係が、たった一ヶ月でバレてしまうなんて・・・・



けれどこの同い年の上司はそこに重きを置くつもりではないようで、



「そんなことより・・・」



と、私の恋愛事情など興味もなさそうに話し始めた。



「そんなことより、お前、もし今昇進の話が来たらどうする?」



何の前触れもなく持ち出された話題に、パニックを鎮めきれていなかった私は「は?昇進?」と、乱雑に尋ね返していた。



「オレ達の同期の女性社員ではまだ係長は出てないからな。そろそろお前がなってもいいんじゃないかって話らしいぞ。まあ、まだ具体的な話はないけどな。でもお前、最近あいつと付き合いはじめただろ?で、もしかして寿退社組に入りそうなら、昇進もおめでたいだけの話ではなくなってくるからな・・・・昇進したら、すぐ辞めるわけにはいかないし。だからその前に、念の為、お前の意思確認・・・てとこかな。相手があいつだろうと誰だろうと、将来的に結婚後も仕事を続けるつもりはあるのか?」



彼の中に、”同期の友人” と ”親身になってくれる上司” の顔が混ざっているのを強く感じた。



いったいいつから榊原くんとのことがバレていたのだろう・・とか、同期の女性社員で一番に係長になれるなんて・・とか、頭の中は忙しく回転していたけれど、ただ ”結婚” という単語が出てきた瞬間、妙に気持ちが重たくなってしまった。



彼は十二も年下で、まだ付き合いはじめて一カ月で、まだ結婚なんて考える段階ではない。



けれど、やはり私の年齢のこともあるし、今後の道筋をまったく定めないままでいられるほど、私は若くはないのだ。



私は手にしたままのファイルを両腕で抱えながら、



「仕事は・・・続けると思うわ」と答えていた。




恋愛より仕事、結婚なんてと諦めていた頃とは違い、今はそれを一緒に考えなければならない相手がいる。


彼の意思も、将来設計も何も聞いてはいないけれど、もし結婚するとしても、正直なところ、彼の稼ぎだけに寄りかかるのは不安もある。


それに、今まで積み上げてきたキャリアを捨ててしまうのも勇気が必要だろう。



まだまだ仮定中の仮定だったが、もし結婚・・・なんてことになっても、私は仕事を辞めないと思ったのだ。



「そっか。・・・ま、うちの会社は総合の寿退社や休職・復職にも理解があるからな。よく考えて決めろよ。じゃ、とりあえず昇進の件はオフレコということで・・・・」



話しの通じる上司が上司らしい態度でそう言ってくれたが、ふと、窓ガラスの向こうに視線が移った。



「・・・?」



私もつられてそちらを見ると、榊原くんが若い女性社員に腕を持たれているところだった。


離席しようと立ち上がったところに、女性社員が寄ってきた、そんな感じだろうか。


どちらかというと女性の方が積極的に話しかけているようだったが、二人は親しげな雰囲気だった。



私はなんとなく視線を外せずにいたけれど、シャッとブラインドが閉じられ、強制的に私の視界から彼らはいなくなった。



「職場をなんだと思ってるのかねえ、あいつらは」



柏原くんの呑気な声に、少し救われた。



「しょうがないわよ。榊原くんはモテるから」



それはどうしようもない事実だ。



「自分が彼女だって言えばいいのに」



長机に浅く腰をかけ、胸の前で腕を組みながら柏原くんが言った。


手足が長いので、そんな普通の仕草が男前に感じる。

榊原くんほどでないけれど、彼はまた違った系統で整った顔立ちをしていて、スタイルもよくて、頼りがいがある上司だと、主に若手の女性社員から人気があった。


確かに彼は、こうやって同期の心配をしてくれるように、ただ優しいだけでなく面倒見がいいと思う。



「・・・・歳が違い過ぎるでしょ」


「そうか?でもお前童顔だから並んでも違和感はないぞ?」


「・・・・それ、褒めてるの?」


「褒めてる褒めてる。お前だって知ってるだろ?俺なんて入社当時から貫禄あり過ぎるって先輩にチクチク言われてたんだからな。羨ましいくらいだよ」


「あんたは態度も大きかったんじゃないの?」



言ってから、ここが職場で彼が上司だったことを思い出し、しまった・・と思った。



「・・・柏原係長は入社当時から態度が大変大きかったですものね」



わざとらしく言い直すと、彼が「なんだよそれ」と、声をあげて笑った。




すると、その笑い声が外にまで漏れていたのか、会議部屋の扉を遠慮がちに叩く音がした。



「はい?」


「失礼します。柏原係長、どうかされましたか?」



心配げな顔を覗かせたのは榊原くんだった。



柏原くんはまだ笑いを残したままの顔で、榊原くんの方を見た。



「いや、なんでもないよ。それより、お前が先週出した商品展開についてのイシューだが、今日のパワーランチで話題に上ったらしいぞ。近いうちに何らかの声掛けがあるかもしれないから、もっと具体的なものを用意しておいた方がいいな。今夜は残れるか?」



”頼りがいのある上司” という評判を裏切らない柏原係長に、榊原くんは「本当ですか?」と明るく訊き返した。


けれど、


「あ、でも今夜は・・・」と言い淀む。



今夜、彼は私の部屋に来る予定だったのだ。




付き合いはじめて一カ月。


彼からの告白で始まったわけだけど、そろそろ関係を深めようと互いに意思疎通させたうえでの、約束だった・・・・


一カ月の間、一度だけ彼が私の部屋に来たことがあったが、そのときは女性特有の事情でただ食事をしただけだったのだ。



いくら年下といえ彼だってもう立派な大人で、私だって恥ずかしがる歳じゃない。


けれど、どんなに経験を踏もうとも、付き合ってはじめて迎える夜というのは、緊張せずにはいられないのだ。



一晩限りの相手とか、そういう欲の為の間柄でもなく、



これから真剣に関係を深めていこうとしている人とのはじめての行為に、少しも緊張しない人間なんているのだろうか?




だが、この様子では今夜の約束も延期になってしまいそうだなと、私はしょうがないという諦めと残念に思う気持ち、そして僅かだがホッとしている自分に気が付いていた。




「よかったじゃない、榊原くん。名前を覚えてもらえるチャンスじゃない」


「いや、こいつはもうとっくに上に名前を覚えられてるだろ」


「仕事が出来るって?」


「そう。あとまあ、おまけ的にだけど ”社内の女性社員人気ナンバーワン” とか?役員の中でも噂になってるらしいぞ」



それは納得せざるを得ない。彼の外見はテレビや雑誌の中に出てくる人達以上のものがあるから。


けれど、彼の良し悪し、評価はそこで決まるわけではないのにと、私はなんだか歯がゆい思いになってしまう。



ちらと見遣った榊原くんも、少し悲しそうな目で私達のやり取りを眺めていた。




そしてその日の部屋デートは延期になったのだった。







一人きりの部屋で、彼に作るはずだった手料理を食べながら、私は、彼とより深い関係になった後のことを考えていた。



たぶん、もっと、彼のことを好きになってしまうだろう・・・・・




私は、そうなることが・・・・・、ほんの少し怖かったのだ。














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