大衆娯楽と文芸を同じ値段で売っていたらいかんのではないか
先日、夏目漱石の印税に関する報道が視界に飛び込んできた。
これが非常に面白かった。
「吾輩は猫」印税997円也 漱石自筆の領収証、公開へ
http://www.asahi.com/articles/ASK5C5TKSK5CUCVL019.html
『吾輩は猫である』の上・中・下巻。
中巻第五版、1000部。
下巻第一版、1000部。
下巻第二版、1000部。
下巻第三版、1000部。
下巻第四版、1000部。
上巻第十版、1000部。
右6000部の印税として、997円50銭を領収する。
この金額は、現代価値に換算すると1000万円弱ぐらいで、印税率は20%弱ぐらいとのこと。
ここから計算するに、『吾輩は猫である』の単行本の定価は、現代価値に換算すると一冊あたり1万円弱ぐらいだったと思われる。
上・中・下全部を揃えると、2~3万円程度か。
さて、最近とみに思うのが、純文学だの文芸だのという高尚な文章芸術作品の類は、こういった値段で売るべきなんじゃないのか、ということだ。
つまり、単行本1冊を、1万円とかの高額で売るわけだ。
理由はこうだ。
まず、そういった文章芸術作品を好んで読み、そういった作品に高い価値を置く層というのは、絶対数が少ない。
これは体感の数字で根拠はないが、多くても、読書層全体の1割~2割程度なんじゃないかと思う。
じゃあ残りの8~9割は何者かというと、物語を「軽~く消費する娯楽」として楽しんでいる層だ。
この8~9割を、今回仮に「大衆的読者層」と呼ぼう。
そして残り1~2割を「文学的読者層」と呼ぶことにする。
さて、このような事情を前提とすると(だからこの前提が間違っていると、以下の考えは一切意味がないことになるが)、文章芸術的な作品というのは、大衆娯楽的な作品と比べて、市場における勝負で圧倒的な不利を背負っていることになる。
単純計算で、大衆娯楽的な作品が8000~9000部売れるときに、文章芸術的な作品は1000~2000部しか売れないことになる。
これを仮に、どちらも1000円という値段で売っていたら、大衆娯楽的な作品は採算が取れても、文章芸術的な作品は採算が取れない──つまり、商売として成立しない、ということになりかねない。
ただ、ここでポイントなのは、おそらく素晴らしい文章芸術作品というのは、そういった作品を好む読者にとっては非常に高い価値を持つのではないだろうか、ということである。
それこそ、1万円払って手に入れても、損をした気はしないというぐらいに、高い価値を持つのではなかろうか。
この価値は、大衆娯楽系の作品には、少々荷が重い。
大衆娯楽系の「楽しんで終わり」の小説作品に、1万円を出そうと思えるだけの価値を感じる大衆的読者は、そうそういないだろう。
また、もう一つ思うのは、大衆娯楽的な作品が「短時間で読み流す」楽しみ方が最適なのに対して、文章芸術系の作品は、丹念に読み込み、かつ何度も読み返すことで良さが分かる性質を持っているのではないか、ということである。
仮に、ある読者の一ヶ月あたりのお小遣い(娯楽に仕えるお金)が、3万円だとしよう。
これは、1000円の本を30冊、あるいは1万円の本を3冊買えるだけのお小遣いである。
そして、その読者には、一ヶ月の間に娯楽に使える「時間」が、90時間あったとしよう。
1日平均3時間ほど。
このとき、1000円の本を30冊買った場合には、1冊の本に使える時間は、3時間ほどとなる。
1日1冊を読破してゆくペースだ。
消費物としての大衆娯楽作品を消費してゆくには、適切な読書速度と言えるだろう。
これに対して、1万円の本を3冊買った場合には、30時間──すなわち10日を使って丹念に1冊を読み込むことになる。
文章芸術系の作品が、丹念な読み方かつ何度も読み返しをすることで良さを最大限に味わえるのだとしたら、この時間の使い方のほうが適していることになる。
実際に、1万円も払って一冊の本を手に入れたら、それを短時間で読み飛ばそうとはあまり思わないだろう。時間をかけて丁寧に味わって読もうと考えるのではないか。
もちろん、現実には人は、すべての娯楽費を本に費やすわけじゃないし、すべての娯楽時間を読書に費やすわけではない。
でも、ほかの娯楽を選択肢に入れても、同じような考え方はできると思う。
なので、文章芸術的な作品は、1冊1万円で売って、1000部さばければ採算が取れるという商売にするのが妥当なのではないか。
1000円で1万部を売る大衆娯楽作品と同じ売り方をしていては、ダメなんじゃないかと思うのだ。
──さて。
ここにきて、なろう小説の話をしよう。
なろう小説は、無料で読める。
そして、読み切れないほど大量の作品が、継続的に投稿され続けている。
これはつまり、なろう小説は、1冊1000円の本を遥かに上回る速度で読み飛ばされるのが自然なことなのではないか──などと思うのだ。
ならば、その形態にもっとも適した「快」の与え方をする作品が生き残るのは、必然ではないかと思うのだ。
そして、丹念に読み込まないと良さが見えてこない文章芸術系の作品には、そもそもが適していないステージなのではないか、と。
なお、ライトノベルという市場でも、なろうでウケた作品が安定して売れるという現象が起こっているようだ。
現代のライトノベル読者層のメインは三十代とのことで、例えば三十代独身男性という独身貴族な層にとっては、文庫本600円だの単行本1000円だのという値段は、それを読むために消費する「時間」の大きさと比べれば、「タダみたいなもの」なのかもしれない。
ところで、少し話は変わるが。
僕の知っている範囲で、作品の有料無料と作品の淘汰圧に関して言及している人が、二人いる。
一人はこの小説家になろうのユーザーさん。
そしてもう一人は、かつて週刊少年ジャンプで『ドラゴンボール』の編集を担当していた、鳥嶋和彦さんである。
鳥嶋さんはあるインタビュー記事で、「クリエイティブな作品は、有料の場でしか生まれない」といったようなことを語っていた。
【全文公開】伝説の漫画編集者マシリトはゲーム業界でも偉人だった! 鳥嶋和彦が語る「DQ」「FF」「クロノ・トリガー」誕生秘話
http://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/torishima/5
さて、どうだろう。
彼の言う「クリエイティブな作品」とは何なのか。
そして彼の言う「クリエイティブな作品」は、この無料性によって加速した娯楽世界の中で、生き残れるだけの必然性を持っているのか。
僕には、この問題に正答を出せるほどの能力はない。
なので問題提起だけをして、この話を締めたいと思う。
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