静止
十一月、また二カ月ぶりにメールをした。ワンマンライブへの誘いの連絡だ。
地元にいる彼女にとっては少し遠いし、何より元彼のライブを見に来るなんてなかなかできる事じゃない。それでも、わずかな期待をしていた。
来れないなら来れないでいい。その返事だけでもよかった。
その日の夜、返事が返ってきた。
『ごめん。その日は予定がある』
仕方ない。そう思うしかなかった。もう彼女と僕は何でもないのだから。
『返事ありがとう。気にしなくて大丈夫です。また何かあれば連絡ください』
我ながら女々しい奴だと思った。すっぱり諦められるならどれだけ良いことか。
彼女に相手がいなければ、僕にもまだチャンスがあると、この期に及んで最後の悪あがきをしている。
自分で選んだ道とはいえ、みじめにも未練タラタラなのである。
何が、『また何かあれば連絡ください』だ。
ほんと、かっこ悪い。
しかし、情けないのは百も承知。彼女が好きというのは今でも変わらないのだから。
……ストーカーにならないように気をつけよう、と頭の片隅で思った。
・・・×・・・×・・・
それは突然やってきた。
正月が明けて数日、不意に彼女からメールが届いた。
また胸が締め付けられる。期待と不安が入り混じり、メールを開く。
『一応、報告します。彼氏ができました』
―――――終わった。完全に。
その瞬間、僕が彼女に抱いている気持ちは、行き場のないものになった。
それは彼女にとって、迷惑なものになるから。
思ったより、冷静な自分がいた。
覚悟はしていた。僕より良い人なんて沢山いる。当り前だ。
彼女のそばにいてあげられない僕より、すぐ近くにいる人のほうが幸せに決まっている。
これでよかった。僕では彼女を幸せにできない。
『おめでとう。よかったね。良い人がいて』
『ありがとう。最後に少しだけ、電話していい?』
―――――最後に、か。
『いいよ』
すぐに、携帯が鳴る。
「もしもし」
「もしもし」
久しぶりに聞いた彼女の声。懐かしくはなかった。何年も聞いてきた声だから。
「彼氏出来ました」
「よかったね。その人大丈夫?ちゃんとした人?変なチャラ男とかじゃないよね?」
「大丈夫だよ。お父さんみたいなこと言わないでよ」
「いや、もう娘を嫁にやるようなものだよ、これは」
「心配し過ぎだよ」
「過保護だからね」
「ふふ。大丈夫。私が選んだ人だから」
「不安だよ。僕みたいなダメな奴を選ぶくらいなんだから」
「あなたはダメじゃないよ。自分でそうやって言うけど、私にとっては本当に最高で大好きな人だったよ」
それを聞いて、言葉に詰まった。涙腺がじわじわと刺激されるのを我慢した。それに気付かれないように言葉を返す。
「……でも、僕は君の九年間を無駄にした。自分のわがままで幸せにできなかった。辛い思いをさせたんだよ」
電話の向こうで、鼻をすする声が聞こえた。
「無駄じゃなかったよ。私は九年間すごく楽しかったよ。いろんなところに連れて行ってくれてありがとう。私はね、幸せだったよ」
ダメだった。返事すらできなかった。涙があふれた。大好きだった。僕も幸せだった。
―――――本当に、この人には敵わない。
長い間、辛い思いをさせた僕に対して、幸せだったと言ってくれた。
その一言だけで、僕はまた、彼女に救われてしまった。
深呼吸をして、ゆっくりと話す。
「ありがとう。僕も君が彼女で本当に良かった。沢山教えてもらって、沢山救われた。大好きだよ。幸せになってね」
「ありがとう」
彼女も声が震えていた。
「泣いてばいばいとかは嫌だったんだけどね。やっぱりダメだね」
泣き笑いしている彼女の顔が浮かんだ。そういうところも本当に、彼女らしい。
「そうだね。まぁ、こういうグダグダなのが僕たちらしいよね」
「ふふ、言えてる」
声をあげて、二人して笑った。
「連絡くれてありがとう。嬉しかった」
「うん。バンドも頑張って」
「うん。良い報告できるように頑張ります」
「陰ながら応援してます」
「ありがとう」
「うん。それじゃあ、そろそろ切るね」
「うん」
「ばいばい」
「ばいばい」
耳元からゆっくり携帯をおろす。
視界にあるのは、ワンルームの小さな部屋。三人掛けのソファにぽつんと座り、もたれかかる。
静寂の中、デジタル時計は正確に時を刻む。
静止した僕のことなど気にも留めず、世界は止まらずに動いていた。