距離
電話から二カ月後の九月、三連休の初日。十二時に想い出の街で待ち合わせ。
僕は彼女の私物が入った大きな紙袋を持って、あの映画館の前にいた。
時間の十分前、彼女が現れた。昔に比べ大人びた彼女の姿を見て、これまでの年月を実感する。
とはいえ、黒のロングTシャツにジーパンとパンプスというわりとラフな格好だった。おめかししてくることを少しだけ期待していたのだが、いつも通りだった。
「……あつい」
「久々の第一声がそれ?」
「ふふ」
「これ、荷物」
「ん。ありがと」
「ご飯でも行く?」
「うん。お腹すいた」
今日は映画を見ずに、想い出の定食屋に行った。
「チキン煮込み定食の五穀米で」
「相変わらずそれしか食べないね」
「好きなんだもん」
「僕にも半分ちょうだい」
「じゃあ、私にもから揚げね」
外食するときはいつもそうだった。半分こにしてお互いのおかずを交換した。
今日もそうだった。別れたというのが嘘みたいに。
食べ終わってから、これからの話をする。
「バンド、順調?」
「うん。まぁそれなり。今度ワンマンが決まった」
「へぇ、すごいじゃん。いつ?」
「十一月」
「そう」
「うん。まぁ、暇があれば来てよ。無理はしなくていいから」
「考えとく」
「それよりそっちは?彼氏、出来そう?」
「いやー、まだかなー」
少しほっとする。
「良い人いなかったら、また戻ってくれば。僕は待ってるよ」
「ばか、無理だよ」
「残念」
そんな会話が自然とできた。恋人ではないけど、友達でもない。家族に近い、そんな距離感。
「そういえばさ、今度高校の同窓会やるって。聞いた?」
「ああ、聞いた。行かないけど」
「ふふ。いつも行かないよね」
彼女の見なれた微笑み。
「まあね」
「私は久しぶりに行こうかなって思ってる」
「そう。まぁ、みんなによろしく」
「うん」
一息ついたところで、店を出た。
彼女が通っていた専門学校の近くのコインパーキングに車を停めたらしく、そこへ荷物を置きに行くことになった。
一度、映画館を通り過ぎ、ショッピングモールや駅周辺の賑わいから反対方向に歩いていくと、閑静な住宅街に出る。車の往来も少なく、都会の喧騒とは程遠い。車道と車道の間には桜並木の散歩コースやピラミッドのような噴水が印象的な公園が整備されていた。
彼女を自転車の後ろに乗せて、何度も通った道。
隣を歩く彼女と、もう手を繋ぐことはない。
「なんかさ、新しい建物増えたよね」
「確かにね。昔はあのマンションとかもなかったしね」
「ほら、あそこにパン屋もできてるし」
「ほんとだ。今知った」
「えー、目、細いから見えてないんだね」
「ちゃんと見えてるよ」
「起きて―」
「起きてるってば」
「ふふ」
彼女は笑う。楽しそうに。
こんな目をした僕を、彼女は好きだと言ってくれた。それだけで、僕は救われた。
一度、僕の好きなところを聞いたことがある。
『みんなが見てないところで気を使ってくれるところ。無愛想な印象なのに優しいところ。あと、目が細いところ』
彼女にからかわれるのは、嫌じゃなかった。
彼女が好きだと言ってくれるだけで十分だった。他の誰もがこの目を嫌いだと言っても、その一言に敵うものはなかった。
「荷物ありがと」
車に到着して、荷物を渡す。今日はこれで終わり。付き合ってから九年目のこの日、デートをするわけではなく、ただ、荷物を渡すためだけの日。特別なことは何もない。
「駅まで送るけど、乗る?」
「いや、大丈夫。歩くから」
「そう」
彼女は軽自動車の後ろのドアを開け、渡した紙袋を放り込む。
ドアを閉め、こちらに向き直る。
「ありがと。久々に会えてよかった」
「僕も楽しかったよ。こっちまできてくれてありがとう」
「うん」
少しの沈黙。彼女が明るく声をかける。
「良い人、いるといいね」
「いないよ。僕にはもう無理だよ」
「なんで?」
不思議そうに首をかしげる。そんなに疑問に思うほどの事でもない。一目瞭然だ。
「こんなダメで目が細い奴を好きになる人なんてもういないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「意外といるよ。きっと。ファンの子とか」
「それはないよ。僕よりベースの奴のほうが人気だし」
「ああ、ベース君はモテそうだよね」
「そうだよ。僕にはさ、その……、ほんとに、君くらいだと思うよ。これから先も」
微妙に告白みたいで照れくさかった。それでも、ちゃんと言葉にしておきたかった。
「ふふ、大袈裟だよ。探せばちゃんといるよ」
「探す気はないけどね」
「探しなさいよ、全く。まぁ、バンドも頑張ってね。応援してるから」
「ありがとう。頑張るよ」
「私を振ったんだから、成功してくれなきゃ困るよ」
そう言って、彼女は笑った。悪戯っ子のように。あの頃とは違う、長い髪を風に揺らして。
「じゃあ、そろそろいくね」
「うん。気をつけて」
彼女は「ばいばい」と言って手を振りながら、運転席に乗り込んだ。車を発進させ、駐車券を入れる。料金を投入し、バーが上がる。
僕は歩道に出て、彼女を見送る。
窓越しに、彼女はもう一度手を振った。僕も同じように胸のあたりで手を振り返した。
遠ざかっていく車。立ちつくす僕。
ばいばい、とは言えなかった。