選択
大学を卒業してから二年目、社会人になって一年が経過したが、早くも限界がきた。
全体朝礼では上司から契約を取ってこいと怒号が飛び、二人分の仕事を一人でやれと無理難題をふられた。
僕は情けなくも、社会の洗礼に耐えられなかった。
結局、入社して一年で退職し、大学時代のバイト先に出戻りした。
彼女のほうも社会人四年目だが、上司とそりが合わないらしく、顔を見るだけで腹が立つほど日々イラついているらしい。辞めようにも親の面子や転職の不安もあり、我慢ばかりのストレス生活に苦しんでいた。
そんな彼女のストレスもあってか、僕にとって耳の痛い小言が増えた。
「今のバイト、いつまで続けるの?」
電話口に聞こえる声は明らかに低いトーンだった。
「余裕できるまでかな」
「いつできるの?」
「まだわからないけど……」
少しの沈黙。
「……そう。で、次の休みだけどさ」
「あ、ごめん。その日ライブがあるんだ」
「……じゃあそこは別に予定入れるから」
「うん。……ごめん」
そんなやり取りが増えた。
それに反して、バンド活動は順調だった。始めてから約三年、都内のライブハウスにも出演し、地道ながらも人気を集めていった。バンドの仲間も増え、イベントにも呼ばれることも多くなった。
そこでたまたま見ていた事務所の関係者に声をかけられた。
契約すれば、少ないが給料も出るし、これからの活動をバックアップしていくという話だった。
ありがたい話ではあったが、どこか胡散臭さもあり、最終的に契約には至らなかった。変わらずこれまで通り、僕らは地道に活動していくことを選んだ。
結局、会社を辞めてからのアルバイト生活は一年続き、気付けばバンド優先の日々になっていた。
七月のある日、彼女に電話で休みの予定を確認している時、それは突然やってきた。
「来月はお盆休みとかとれるの?」
「いや、九月にならないととれないかな。先月一人辞めちゃったから忙しくて」
「そっか。その人の分までやらなきゃいけないんだね」
「まぁ仕方ないけどね。私も辞めたいと思うけど。誰かさんが早く貰ってくれないし」
「あー、うん。……ごめん」
「ねぇ、本当にこれから先どうするの?バンドとか、仕事とか」
途端に彼女は真剣な声音になった。
「……バンドはもう少し頑張りたい。順調に来てると思うし」
「それでうまくいったとしてもさ、それでずっと安定できるの?ちゃんと考えてる?」
「いや、それは、やっぱり頑張るしかないというか……」
「……私がさ、どれだけ待ってると思ってるの?」
耳元に聞こえる彼女の声は、呆れや怒りの入り混じった混沌のようだった。
「私が欲しいのはあなたと一緒に安定した生活を送ることなの。なのにあなたは自分のやりたいことばっかりじゃない……」
僕は無言で聞く。
これ以上、彼女に対して「ごめん」という言葉は意味を成さない気がした。
もはや、謝って済むことではなかった。
「少し、連絡は控えようと思います。じゃあ、おやすみ」
―――――バンドか、彼女か。
大事なものを選択する時が来たのだ。
・・・×・・・×・・・
電話が切れた後、不思議と冷静さを保っていた。
自分の過去の選択を後悔するわけでもなく、彼女にきつく言われたことに動揺することもなく、ただただ、平然としていた。
辛さも悲しさも、感情がどこかへいってしまったように。
話はシンプルだった。
バンドを辞めて彼女をとるか、彼女を諦めてバンドをとるか、だ。
彼女の望みは、そういうことだった。
そうだとしても、僕の答えは最初から決まっている。
―――――バンドもやって彼女も幸せにする、だ。
救いがあるのだとしたら、彼女が『嫌いだ』と言わず、連絡を控えると言ったことだ。つまり、彼女は別れたいと思っていないということだ。
約束は守られている。
そのたった一つの事実だけで、僕は彼女の想いを知ることが出来る。
僕は冗談でも、彼女を諦めるだなんて言いたくない。そんな結論はあり得ないから。それと同じくらい、バンドにも挑戦したいと思っている。自分を表現できる、あのステージに立ちたいと思っている。
僕は本当にバカな男だ。欲張りで、頑固で、わがままで。いつも面倒をかけてしまう。そんなダメな男と付きあってくれる人など彼女しかいないのだ。これから出会う人がいたとしても、彼女以上の人はいないと断言できてしまうくらいに。
九年前の四月、彼女と出会った。
八年前の九月、彼女と恋人になった。
それ以来ずっと、彼女は僕の特別だった。これからも、そうであってほしい。
僕は、彼女からの連絡を待った。