彼は如何にして少女の水没を諦めたか
またしても良からぬことが起きてしまった。
例によって死者は出なかったが、近くにいた彼ら、つまり実験失敗により灼熱を味わった者らは、その後小屋でぐったりとしていた。やがて、外が暗くなり若干の涼しさを取り戻す頃にはフラフラと帰っていったのだった。
だが、小屋の主であるドレビスは、それから数日経った現在も未だ体調が戻らず、床に伏していた。
「おじさま、山奥での一人暮らしが大変なのはわかっていますが、どうかご無理をなさらないでくださいね」
小屋のかまどで何やら調理をしている少女が、やや呆れた口調で言った。
角は生えていない。外見は子供だが、包丁で山菜を切るその手つきは、まるで熟年の主婦だ。
名前はソフィアという。ドレビスの血縁者ではない。
彼女は、家庭が困窮しているわけでもないのに、山で野草や山菜を採っては、町でそれを売って家計の足しにしているという、若いながらになんともしっかりした少女であった。この山にもよく来るので、たまにドレビスのもとを訪れては収穫物を分けてやったりしていたのだ。
今年はなぜか植物がほぼ全滅状態だったため、ここを訪れることもなかったのだが、最近ようやく緑が戻り始めたというので、山の様子の確認も兼ねて、こうして老人の安否を確かめにやってきてくれたのだった。
幸い、彼が枯れ木のごとく干からびているといったことはなかったが、塩で揉まれた山菜のようにぐったりとした様子だったので、少しでも栄養のあるものを食べさせなければと料理を作ってくれていた。
それを物珍しそうに眺める山葡萄のような色をした少女、もとい邪神が彼女の足元にぴたりと貼り付くように立っていたのだが、ソフィアはさして気にしていない様子だった。
ただ、ドレビスにとっては気になって仕方がないのだろう。心配そうにそちらに目をやっては、辛そうに息を吐いた。面倒事に巻き込むわけにもいくまい。
三人が山菜の入ったスープを啜っていると、小屋のドアを叩く音が聞こえた。
ソフィアがドアを開けると、そこには一人の若者が立っていた。
「おや、珍しい。ソフィアさんじゃありませんか。お久しぶりですね。ドレビスさんの様子を伺いに来たのですが、体調の方はまだ悪そうですね、これは」
若者は小屋の中を覗き込みながら早口で喋った。
「まあ、ヴィンヘルさん、お久しぶりです。私もおじさまにはしばらくお会いできていなかったもので、今日訪ねてみたら、なんだかお加減がよろしくないみたいで」
少女の心配そうな声に、ヴィンヘルは言葉を詰まらせる。ドレビスの衰弱はほぼこの男が原因であると言っていい。だが、正直に打ち明けるわけにもいかなかった。
「そ、そうなんですか、ええと、ああ、そうだ、薬を持ってきたので、お届けに」
ヴィンヘルはうろたえたような口調で話しだした。どうやら嘘や誤魔化しが苦手な性格らしい。
「それはわざわざご苦労様です。それにしても、お二人は知り合いだったのですね。なんだか仲がよろしいみたいで、知りませんでしたわ」
ソフィアが無邪気に笑うと、ヴィンヘルも引きつった笑みを作った。
ソフィアはヴィンヘルにも食事を勧めたのだが、彼は薬を手渡すと、飲み方を説明してから帰っていった。事故とはいえ、ドレビスに迷惑をかけてしまった彼なりの謝意なのかもしれない。
「ヴィンヘルさんが、このお薬を一日一回、口に含んでから水で流し込んで飲みなさいって。それから、苦いので我慢してくださいって、おっしゃってましたよ」
ソフィアが白い粉末状の薬と水をドレビスに差し出す。ドレビスが申し訳なさそうに礼を言うと、ソフィアは、お礼ならヴィンヘルさんに、と言って微笑んだ。
「それにしても、この娘はどこから来たんですか。なんだか不思議な見た目をしてらっしゃるけど、まさか山で拾ったとか」
あながち間違ってもいない。山で拾った娘を押し付けられたというのが真相だが、ドレビスは否定せず、自分で拾ったことにしておいた。
「まあ、酷いことをする親がいるものですね。私、許せませんわ」
ソフィアは唇を尖らせて言った。親がいるならぜひとも突き返してやりたいものだ、などとドレビスが毒づくわけもなく、曖昧な返答で誤魔化す他なかった。
翌日、ヴィンヘルの薬が効いたのか、目が覚めたドレビスは立って歩けるまでに回復していた。
それでも、ソフィアはわざわざ朝早くから彼のもとにやってきて、朝食を作ってくれた。なんとも情け深い少女である。
食事を終えると、ドレビスは何かお礼がしたいとソフィアに申し出た。もちろん彼女はこれを断ったのだが、ドレビスは珍しく食い下がった。温情がよほど身に沁みたのだろうか。ソフィアも最後には折れた。
「それでしたら、この近くの沢まで連れて行ってもらえませんか。家族からは危険だから水辺に近づくなと言われているのですが、川の辺りでもいろんな山菜が採れて、食べると美味しいんですよ」
そんな簡単なことでいいのかとドレビスは問うたが、ソフィアはどうしても沢に行きたいらしい。それならばと、軽く準備をしたらすぐに出かけることになった。沢までは歩いても大した時間はかからない。何かあればすぐ戻ってこれる距離だ。
ソフィアは嬉しそうにかごを背負い、くるりと体を回した。
「さ、一緒に行きましょう。きっとたくさん採れるわ」
ドレビスに言ったのではない。彼女の側に付いている邪神に向かって言ったのだ。
沢の周りには大小さまざまな岩が囲うように転がっており、水の流れる音を反響させている。
川幅はそう広くはなく、狭い所なら子供でもなんとか跨げる程度だ。そう危険もあるまい。
ソフィアは山菜採りに夢中な様子だ。川辺をせわしなく動いては山菜を摘み取り、また動いては摘み取りを繰り返している。
ドレビスはやや離れた場所で岩に腰を落とし、ソフィアが邪神を連れて歩き回る様を眺めている。ソフィアの楽しそうな表情を見て、ドレビスも満足げだ。体調もそれほど悪くはなさそうだった。
水の近くでは植物の育ちも良いのか、濃い緑色が辺り一面を覆っている。一度は枯れ果ててしまったように思えても、こうしてまた新たな根を張り、葉を広げる。なんともたくましいものである。
ドレビスが目を離している間に、ソフィアは川を越えて向こう岸にいた。あまり遠くまで行かない約束だったのだが、どうやら相当夢中になっているらしい。
ソフィアを呼び戻そうとドレビスが声を上げた時だった。
邪神が彼女を追って川を越えようとして、岩の上に立っていた。
そこはソフィアにとっては難なく渡れるほどの広さだが……。
邪神がドレビスの視界から消えた。
ドレビスの声で振り返ったソフィアもまた、邪神が川に落ちる瞬間を目撃していた。
とはいえ、決して深い川ではない。いくら小柄な邪神でも十分に足がつく水深である。大した事故にはならない、そのはずだった。
ソフィアが駆けつけて川を覗き込むと、水の流れに身を任せるように、仰向けに川を下っていく邪神の姿があった。一切の抵抗をせず、ただ緩やかに流れていく。
ドレビスがそれ追いかける。だが、体調が戻ったとはいえ、彼が病み上がりの老人であることに変わりはない。少女のほうがよほど迅速だった。
ソフィアが辛うじて邪神を捕まえると、ドレビスと二人がかりでなんとか引き上げた。抱えられた小さな体から水が滴り落ちる。
だが、びしょ濡れになったのは邪神だけではなかった。気付けば、分厚い雲が空を覆っていて。
その日は、国中で急激な土砂降りの雨に見舞われたそうな。




