彼は如何にして少女の焼却を諦めたか
山に緑が戻り始めたのは、異変が起きてからおよそ一ヶ月が過ぎた頃だった。
影響は町にまで及び、ほとんどの作物が無駄になりはしたが、幸い死者は出なかった。
国の調査によると、広範囲に渡って植物が枯れてしまった原因は、やはりあの毒のせいではないかと推測された。
とはいえ、テリオンが用意したあの少量の毒で、山中の植物を死に至らしめることができる可能性など無きに等しい。
確かにあれは劇薬と呼ばれる類の強力な毒物であり、矢じりに塗って放てばどんな大型動物もたちまち絶命してしまうほどのものだが、それをそこら辺に撒いた所で、山全体が茶色に変わってしまうとは到底考えられない。
魔術や祟りでもなければ、である。
カツカツと音を立てながら、城内の通路を急ぎ足で渡っていく若い男が一人。
その目つきは鋭く、髪はぺたりと横向きに撫で付けられていて、本人の神経質な性格を物語っているかのように見える。
男の名はヴィンヘルという。学者である。
彼は小さな頃から探究心が人一倍強く、疑問があれば相手が誰であれ、時と場所も選ばずにそれを投げかけた。初対面の者は彼に刺々しい印象を抱くが、実際は性格が少し真面目すぎるというだけの、いわゆる堅物と呼ばれるような人間だ。
もとより歩くのが人より速い彼が、いつにも増して強い歩調で歩いているのには理由があった。
石造りの通路に足音を響かせながら通り過ぎていく学者に、すれ違う者は面倒事の予感を抱かずにはいられない。
彼が熱くなると、大抵は良くないことが起こるのだ。
悪い男ではないのだが。
城内を巡回する兵士の一人が、彼を尻目に立ち止まり、やや顔をしかめて、窓から青空を見上げた。
今日は暑い一日になりそうだ。
ヴィンヘルはいつも勢い良くドアを開ける。叩きつけるような大きな音が、部屋に響き渡った。
「ヴィンヘル君、もう少し静かに頼むよ」
部屋には騎士団長であるテリオンと二名の兵士、そして例の少女がいた。皆で行儀よくテーブルを囲んで座っている。
部屋といっても、客をもてなすような趣ではない。普段は兵士や使用人が物置のように使っている場所だ。
「その娘ですか」
角の生えた青白い少女を目の当たりにしても、ヴィンヘルは動じない。
「ああ、ひとまずは調査が必要ということでね、連れてきたんだ」
テリオンは当たり前のように言うが、国が滅びるかもしれないような事態を、一人の老人に任せていたことがそもそもおかしい話である。
今回、調査にあたって若き秀才であるヴィンヘルが呼ばれた、わけではなく自らテリオンに申し出たのだった。邪神少女をその目で直接見たかったというのもあるが、未知の脅威というものはいつの時代も学者の血を騒ぎ立てるのだ。とのことである。
陽気な騎士団長はそれを快諾したのだが、彼の両側に座っている兵士の表情は暗かった。
ヴィンヘルは、テリオンから事のあらましを聞いた。ヴィンヘルの隣には、邪神が椅子の上でまどろんでいる。
「なるほど、やはりあの毒が」
テリオンが件の老人に致死性の毒物を渡していたことは、ヴィンヘルも知っていた。城内にいるのはテリオンのような楽観主義者ばかりではないのだ。市民の不安が高まれば、それはいずれ国への不満となって現れる。手荒な手段もやむなしという考えだって当然あるだろう。
彼は予言など信じてはいなかった。そのため、毒殺の話を聞いたときは、森に捨てられでもしたのであろう少女が、邪神などという馬鹿げた存在として扱われた挙句に殺される、その悲劇的な結末に哀れみを感じていたという。
だが、そのことに対して憤りはなかったそうだ。外見や生まれ方が少し異なるというだけで、不吉なものとみなし忌み嫌う風習、それ自体は珍しくない。悪習であることには違いはないのだが、恐怖や不安というものは所詮、人間の感情に過ぎない。
恐るべきでないものを恐る、それもまた人間なのだと。そしてその悪習を断ち切ることこそが学問の本懐である、と若き学者は語った。
「なるほどねえ」
テリオンは間延びした声を出しながら頷いた。聞いているのかいないのか。
「ですが、こうなってしまった以上は疑ってばかりもいられません」
ヴィンヘルはやや身を乗り出して続ける。
「何が起きているのか、これから何が起こるのか。それを明らかにする責任が、私には、ある」
ヴィンヘルは語気を強めて言った。まるで世界の存亡を一身に背負ったかのような口ぶりである。
「まずはその老人に話を聞くべきでしょう。では」
そう言い置くと、鼻息の荒い学者は返事も聞かずに部屋を後にした。
彼は部屋を出るときも勢い良くドアを閉める。残された者達は、居眠りを続ける少女を眺めるばかりであった。
ドレビスは、小屋の周りに散らばっている枯れた草や枝を、一つ一つ拾い集めていた。
久々の休息とでもいうべきか、邪神の子守から開放された老魔術師は、少しだけ上機嫌に見えた。
周りからすれば、一ヶ月近くもの間、問題の解決から目を背け、ただ何もせずだらだらと過ごしていたように思えるだろうが、当の本人は本人なりに苦悩の日々を送っていたのだ。何しろ、山を丸ごと枯らしてしまうような事件を起こしてしまったばかりだ。これ以上何かをしでかせば、今度は山の異変では済まないかもしれない。
そこに、つい先日、国から調査の申し出があったのだ。つまり、邪神を一時的に引き取りたいということだった。一時的にと言うが、本来ドレビスには何の関係もない話である。無理難題を押し付けられる身にもなってみろと、普通の人間なら怒り出すところだろう。
何はともあれ、重責から開放され一時の休暇を得たドレビスであった。まだ何も解決の目処は立っていないが、それまで荒れっぱなしだった住処の周りの掃除でもするかという余裕も生まれてくるわけであり、それは誰にも責められるものではないだろう。
山の草や蔓は、元通りとは言わないまでも、森のあるべき姿を取り戻しつつあった。だが、木はそう簡単には生え変わらないし、すぐ土に帰るわけでもない。加えて、邪神が食い散らかした残骸もある。小屋の周りは、木片や枯れ枝で酷い有様であった。
ドレビスはそれを手で拾い集め、小屋の前にせっせと積み上げていたのだ。
少しは片付いただろうか。ドレビスは額の汗を拭った。
「焚き火ですか」
ドレビスは驚いて後ろを振り向いた。のそっと体を回しただけに見えるが、しっかりと驚いている。
「ドレビスさんですね。いや、失礼。自分から名乗るべきでした。私はヴィンヘルと言います。邪神の封印にあたって、一通りお話を伺いたいと思いまして。この山で起きた異変も含めてです」
目の前に、やたらと早口でまくし立てるせっかちな学者が立っていた。老人の耳でそれを聞き取って理解するには、少しばかり時間を要した。
テリオンは、ヴィンヘルの後を追いかけるように、ドレビスの小屋を目指して坂を登っていた。
わざわざ二人の兵士まで連れてやってきたのは、嫌な予感がしたからだ。テリオンではなく、その兵士がだ。あの押しに弱そうな老人が、変なことを吹き込まれて、変なことをしでかして、変なことになってしまうのではないかという漠然とした不安が、二人の兵士を襲っていた。
そして、テリオンの胸に邪神少女が抱きかかえられているのは、城内で彼女を預かる者が他にいないからだ。要するに、邪神の一件はこの陽気な騎士団長に全て押し付けようというのが暗黙の総意である。無論、テリオンがそれを察することはないだろう。
ドレビスの小屋が見えてきた頃。三人の額には汗が光っていた。暑い日にこの上り坂はなかなか辛いものがある。
ようやく坂を登りきると、魔術師と学者が小屋の前に立っているのが見えた。話し声が聞こえてくる。
「祟りというものが本当にあるとしても、それに触れるべきではないとは、私は思いません。物事を拒絶するのは簡単ですが、そこに明確な理由と根拠がなければ、何も解決しませんよ」
ヴィンヘルが何やら喋っている。ドレビスも難しい顔をして唸っている。
近くまで歩み寄っても二人がまるで彼に気づかないので、少しの間その口論を眺めていたテリオンだったが、やがて仲裁に入った。
テリオンはその場で二人の言い分を簡潔に聞き取った。
少女はドレビスが集めた枯れ枝を手にとってかじりついている。二人の兵士が不安げにそれを見つめる。
「ええと、つまり、ドレビスさんは、これ以上何もするべきではないと、そういうお考えを」
老人は頷いた。少女と生活をともにして情が湧いたわけではない。まずは様子を見るべきであって、直ちに対処する必要性は低いと結論付けたのだ。
「それで、ヴィンヘル君はこの」
「この少女について、一連の実験を行うべきだと考えます」
学者は言葉を被せた。彼の言う実験とは、ドレビスの主張する祟りと呼ばれる事象の確認、及びその実態を明らかにしようというものだ。
「仮に、その少女に危害を加えることによって祟りと呼ばれる現象が起こりうるのであれば、ドレビスさんの言うとおり、彼女には何もすべきではないでしょう。ただし」
危害とは何を指すのか。危害を加えることによってどのような現象が起こるのか。それを無害化させることはできないのか。それを知る義務があるのだとヴィンヘルは言う。つまり、この邪神少女に刺激を与えて、反応を見ようというのだ。
どちらの考えも、間違ってはいないのだろう。何もしないということは何も解らないということだ。何かをするということは何かが起こるかもしれないということだ。当たり前のことなのだが、未知に対する正しい対処法など誰も知らないのだ。答えなどない。
そもそも、この場で直ちに結論を出すべき問題ではない。こういった国全体に関わる物事は、全員が議論を尽くした上で最善の解決案を導き出すのが道理だ。
おそらく、最終的にはヴィンヘルの言い分が通るだろう。脅威を放置するような結論を出せば、人々は納得しない。だが、本来はこの一件、ドレビスが任されたものである。これをこのまま彼のもとに置いておきながら、優秀な魔術師が邪神の脅威を押さえ込んでいますといった内容の説明で誤魔化せば、角が立つこともなく、何かが起きることもなく、やがては人々の記憶から邪神そのものが消えてゆくという可能性も大いにある。
騎士団長が考え込んでいる中、最初に口を開いたのはやはり――。
「例えば、火はどうでしょう」
ヴィンヘルの言葉を聞いた瞬間、全員の表情が曇った。
パチパチと音を立てて、積み上げた枯れ木が燃えている。小屋の前でドレビスがせっせと集めたものだ。
「ほんとうにやるのかい」
テリオンも不安を隠せないでいる。ドレビスは兵士とともに呆然と立っているのみだ。
「なにも火で炙ろうというわけではありません。火は近づくだけで十分に熱い。もしかしたら何か反応があるかもしれない」
ヴィンヘルは汗を拭いながら説明した。ただでさえ気温の高い日中に焚き火などすれば汗も出よう。
一方で、少女は立ち上る炎を珍しそうに眺めていた。炎に触れこそしないものの、火傷しそうな距離まで体を近づけて、その青白い肌を火明かりに照らしている。
他の五人の額から流れ落ちる汗は暑さのせいか、それとも不安からくる冷や汗か。それが雫となって顔中を伝い、顎から滴り落ちている。
かなりの暑さだった。
いや、本当に暑い。熱いのだ。肌が焼けそうだ。
気付けば、異常なほどの暑さが、熱が、彼らを襲っていた。
「い、今すぐ中止しよう。火を消すんだ。水を用意しよう」
この時ばかりは、流石の騎士団長も素早い判断力を見せた。
「少女を火から離しましょう。早くしないと」
学者が慌てて邪神少女を引きずって炎から遠ざけた。
魔術師が二人の兵士とともに水が入った樽を抱えて来た。そして。
消化が終わる頃には、全員が脱水症状の寸前まで汗を垂れ流し、やがて小屋の中で倒れ込むように休んでいた。
その側で彼らを眺める、煤で顔を真っ黒にした少女を除いて、である。




