七話
ラーシュさんが帰った後。私はお母さんに、ものすごく心配された。精神操作系の魔法を受けていないかとか、そっち方面に。精神操作って。ほとんどおとぎ話の世界じゃないですかお母さん。
この世界には、魔法は存在するけどあまり発達していない。魔法の発動には魔法陣と長い詠唱が必要であり、地球での漫画の世界みたいにポンポン放つのは無理だ。そもそも生き物に魔力は宿らないから、高級品である魔石をいちいち消費しなきゃいけない。しばらく置いておけば魔石はまた魔力を蓄えてくれるけど、数日で元通りとかそんな気軽な話ではない。そこまでして使った魔法も、威力はそんなに強くないみたいだし。だから、戦闘で使われることはほとんどない。現在で重宝されているほぼ唯一の使い道は、治癒である。魔石を大量に消費して、魔法陣の上で長い詠唱をすると、失われた四肢とかも生えてくるし、見えなくなった目も光を取り戻すらしい。ただし、魔石の代金が豪邸を買えるようなレベルにかかるけど。
他の魔法はほぼ発達しておらず、使われない。精神操作の魔法は、遠い遠い昔はあったらしいとおとぎ話にはあるが失伝しているし、たとえ失伝していなかったとしても、魔法陣と長い詠唱が必要だ。ラーシュさん、そんなことしてなかったでしょうが。なのにそれを心配されるとか。
その後のお母さんとの問答で気付いたんだけど、ラーシュさんの容姿は、どうやら下の下に分類されるようだ。肌や髪が綺麗とかそんなプラス要素は一応あるけど、あの顔と種族と浅黒い肌に筋肉質な体の前には、焼け石にちょこっと熱湯をかけた程度のプラスでしかないとか。水をかける程度のプラスにもならないのか。種族が人間であれば、下の中まで浮上したかも、と。そ、そっかあ。たとえ人間でもそこ止まりなのね。でも私はあれがいいんだなあ、これが。というか私の理想を体現した存在は、この世界では下の下なのか。なんか切ない。代わりにこんな豚が上の上とか笑うしかない。
とりあえず、明後日の公開訓練を見に行くのはOKをもらった。というか、私ももう一応成人してるんだからいちいち許可を取らなきゃいけない道理はないんだけどね。形式上は。
一人だと危ないから、護衛にゴルダさんがついてきてくれるらしい。よろしくお願いします。
◇◇◇
アリスト家を辞した俺は、気付くと自分の家の前にいた。ここまでの記憶が飛んでいるんだが、獣の帰巣本能か何かで帰ってきたのだろうか。……虎に帰巣本能ってあるのか? きっと幽鬼のようにフラフラと歩いてきたんだろう、知り合いに目撃されていないことを祈る。
俺は家に入ると、ベッドに倒れこんだ。体はピンピンしているはずだが、脳の負担が許容量を超えており、働くことを拒否する。
とりあえず仮眠を取ろう。もう、無理だ。わけがわからない。疲れた。俺は目を閉じた。
目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。深夜だろうか、腹が減ったな。俺は立ち上がり、買ってきてあったパンを引っつかんで齧る。面倒なので明かりはつけない。夜目が効く俺は、僅かな月明かりでもあれば十分に活動可能だ。人間のアドリアーナ嬢なんかは無理なんだろうな。
……。
…………。
アドリアーナ嬢?
ちょ、ちょっと待て。俺の中に、謎の記憶があるぞ。あれ? 俺、昼間、アリスト家に行ったんだったか? 行ったんだよな。アドリアーナ嬢の対応、おかしくなかったか。異常なまでに好意的だった。この俺に。アドリアーナと呼んでねとか言われたような言われなかったような。はぁ? 言われるわけねぇだろそんなこと。ラーシュさんとか呼ばれたような。んなわけねぇだろ、年ごろの異性が。
……まさか全部夢とか言わないよな。
その想像はあまりにもしっくりくるもので、俺の背中を冷や汗が伝った。も、もしそうだとしたら俺、痛すぎる……! なんつー夢を見てるんだ。
この記憶は現実だったのか、夢だったのか。確認しようにもその術がない。夫人からの手紙は招待状がわりに持って行って、置いてきてしまったし。周りの連中には、アリスト家に行くことを一切告げていない。心ない連中には笑われるのが、心ある連中には心配して止められるのがオチなのは分かっていたからだ。
くっ。いや、さすがにこんな盛大な夢オチはないだろうとは思うんだが。というか、かなり鮮明な記憶がある。間近で見たアドリアーナ・アリストは、本当に可愛らしく、美しかった。夢であれを作り出したのなら、自分の妄想力はとんでもないレベルに達してしまったということだろう。
なら現実? いやでも、ファーストネームは本気であり得ない。だってそれはつまり、アドリアーナ・アリストが俺のことを、恋愛対象として見ているということなのだ。ファーストネームで呼び、呼ばれるというのはそういうことだ。初対面の超不細工相手に、神に愛されたような美しさの少女が? 我ながら自分の頭が狂ったとしか思えないぞ。百人にこんな話をしたら、九十人が笑うだろう。あとの十人は本気で心配して、病院を勧めてくれるかもしれない。
……明後日まで待つしかない。公開訓練に彼女がやってきたら現実で、来なかったら夢だ。それしかない。くそ、明日一日もやもやしたまま過ごすのか。俺は髪の毛を掻き乱した。うざい自分の尻尾が俺の感情を代弁するかのように、ユラユラと不満げに揺れていた。
「や、おはよラーシュ!」
「……ちっ、アルフかよ」
翌日。親友からの朝の挨拶に、俺は盛大な舌打ちで返した。
「いやいやいや、どうしたのラーシュ」
「別に。ほんっとに理不尽だなと思っただけだ」
「僕の方が理不尽な目にあったよね⁉︎ たった今!」
「ちっ……」
アルフは、獣人部隊の隊長であり、その戦闘能力は俺とタメを張る。俺と違うのは社交的な性格、よく回る頭と舌、そして、見た目だ。アルフは犬の獣人だが、細い目と低い鼻を持つ。獣人としてはかなりまともな顔をしているのだ。理不尽である。
「ご機嫌斜めだなぁ、ラーシュ」
アルフは眉尻を下げる。何だかんだ人格者なこいつは、今みたいに理不尽に不機嫌をぶつけられてもそう簡単には怒らない。……逆に、顔も悪くて性格も悪い俺っていいところないんじゃないか。
「……よし。今日は久々に、全力で部下どもをしごいてやるとするか」
何だかそんな気分になった。完全に八つ当たりである。俺たちの周りにいて話を聞いていた部下たちが何人か、ものすごくビクッとした。
「急にどうしたの。やる気出すのはいいけど、ほどほどにね?」
「分かってる、使い物にならなくしたら元も子もないからな」
軽く周りを見回すと、全員が俺から目を逸らした。
覚悟しておけよ、と小さく呟いた。どいつもこいつも耳がいいので、しっかり聞こえたようだ。ああ、俺は本当に性格が悪いらしい。だが、思い切り体を動かしたい気分なんだよ。付き合え、お前ら。にたりと笑った。
後にアルフから聞いた話によると。この時の俺の顔は、悪魔もこうは笑わないだろう、といったレベルに恐ろしいものだったらしい。