その後【7】前編
最高級の布地が使われた紫色の華美なドレスに落ち着いたベージュのショールを合わせ、足元は高いヒール。髪は結い上げ、胸元には煌びやかなネックレス。爪も艶やかに塗ってもらい、しっかりメイクもした。今の私は、携わったスタイリスト、ネイリスト、プロの皆さんに歴代最高傑作と言わしめた完成系だ。それはもう、それはもうものすごく褒められた。これ以上など考えられないくらい完璧な容姿だと言われた。
社交会の会場である貴族の豪邸の入口に横付けしてもらった馬車から、兄さんの手を借りて降り立つ。今日のエスコート役は兄さんだ。ドレス姿の私よりは抑えた色合いの、だが高級な品であることはよく分かる黒いスーツを着ている。なお、体型の問題でスーツは大きく膨らんでいるので、私に言わせると大変に残念な感じだ。
自惚れで申し訳ないが、入口を開けてホールに踏み込んだ瞬間、きっと私は注目を集める。本当に、こんな豚がすみませんとは思うが、経験上きっとそうなる。自分ではドレスも何も悲惨なことになっているとしか感じないし、この体重を受け止めているヒールにごめんなさいと謝りたい気分だし、プロにメイクしてもらっても今更細い目も低い鼻もどうにもならないことを再認識しただけなのだが。
兄さんは私を見て誇らしげだ。私も自分が周りからどう見られるかは知っている。だから私も胸を張り、そして、心の中では敢えてこう叫びながら会場に入ろう。
おめかしした豚、降臨っ!!!
会場の使用人が開けてくれた扉を、先に兄さん、彼に手を引かれた私の順でくぐる。この辺りはエスコートのマナーだ。そして、入った瞬間……、それなりに人がいてざわついていたホール内は、見事に静まり返った。ごめん知ってた。数々の視線が私に向いている。若い人は特に、呆然自失といった様子だ。あまりの天上の美しさ(笑)に。そう、皆さん豚好きなのだ。いつもありがとう。
兄さんもこれは予期していたのだろう。明らかに異質な空気の中で微笑みを絶やさず、私の手を柔らかに握ったまま、真っ直ぐに上座へと突き進む。決して人を押しのけるようなことはしていないのだけれど、全員自然と進路を空けてくれたので、すぐに今日の主催者である伯爵様の目の前にたどり着いた。位置取り的に私たちが入る直前まで伯爵と話していたであろう男性まで場所を空けてくれた。なんか容姿だけで圧倒したみたいですみませんね。単に豚二匹が迫ってくる圧迫感に負けたわけではないと思いたい。
兄さんは私の手を離すと、洗練された動作で礼をした。
「伯爵、ご無沙汰しております。ルドルフ・アリストと、妹のアドリアーナ・アリストでございます。本日はお招きいただきまして、恐悦至極に存じます」
「アドリアーナ・アリストです。お初にお目にかかります」
とりあえず私の発言は挨拶までで、喋るのは基本的に兄さんの仕事。朗らかに続く会話を、穏やかな微笑みを絶やさず聞いているのが私の仕事だ。容姿を褒められたら控えめに恐縮しておくのも忘れない。究極(笑)の美貌で謙遜しすぎても嫌味だから、あくまでも控えめにだ。
今日のこの、華やかな社交の場。商人として招待された兄さんの同伴者として来ている私が求められているのは、完璧な人形であることだ。私が今身につけている全てのものは、うちの商会の商品。ここに招待されるような裕福な方々相手にものすごく分かりやすく宣伝しているところだが、未婚の男性が社交会に出るにあたって身内の女性を連れるのは普通のことなので、責められる謂れはない……という大変強い建前がある。美貌は武器なのだ。ドレスもネックレスも最上級品で大変お高いが、この後飛ぶように売れる目算らしい。豚……綺麗な女性が着ている品は魅力的に見えるとか。見栄や体裁を気にして、流行にも乗る必要がある貴族様ならなおさらだ。
社交会の主催者である伯爵はお忙しい。割込むような形になってしまった(でもそうしないと会場の空気が止まっていたのでどうにもならなかった)兄さんは早めに会話を切り上げて、再び私の手を取った。人好きのする笑顔を浮かべている兄さんは、けれどその表情の下で次に挨拶する人の順番を計算していることを私は知っている。兄さんは頭の回転が早く口も上手く、見た目もとんでもない美男子らしいので、兄さん自身も凄まじい人気がある。常に注目を集める私たちの移動する先は自然と道ができ、大変歩きやすい。少しでも気を抜くとヒールを折りそうなギリギリで生きている私にはありがたい話だ。豚の体重をなめてはいけない。
それは数人目の男性と兄さんが話している時だった。お父さんと同じくらいの年代の貴族の彼は、私をちらりと見て、雑談のような調子で切り出した。
「時に、ルドルフ殿。妹君は、最近懇意にしている男性がいると、街で噂であるようだが。やはり成人を迎えた婚約前の、こんなに美しい娘さんだと、おかしな噂というのは絶えないものなのですなあ」
……きた。
さすがにざわめきを取り戻していたホールが、私たちの付近だけ少し静かになる。
この話題は誰かから振られるだろうことは分かっており、どう答えるかも事前に決めてある。兄さんは笑顔を崩さずに答えた。
「ええ。婚約はしておりませんが、お付き合いさせていただいている男性はいるようで。アドリアーナも幸せそうで、兄として喜ばしい限りです」
私は無言で嬉しそうな笑顔を添えておいた。
「妹の幸せを、どうか静かに見守っていただけますと幸いです」
「……えっ。……ああ、えっと、おめでとう?」
兄さんの返しが自然すぎたからだろうか。しれっと投げられた爆弾を処理できず、男性は動揺した顔をしている。その後ろで、紹介されるのを待っていたであろう、私と同い年くらいの青年も動けなくなっている。すみませんね。
実はその噂というのは、有名すぎてこちらの耳にも届いているのだ。奇跡のように可憐な美貌の少女(豚)が、粗野で恐ろしく醜い獣人と街を歩いている。脅されているのではないか。弱みを握られているのではないか。そういう類いだ。
この男性はきっと、『懇意にしている男性』という言葉を使ったのはわざとで、兄さんに噂を否定された流れで自分の息子を勧めようと出してきたのだろう。誰かと婚約してしまえば付きまとわれることもなくなるだろうし、万一続くようなら守ってやれる。そういう意図だ。おじ様ありがとう! でもごめん! その相手、単純に私の好きな人です! むしろ私が付きまとう勢いだ。
はー、ラーシュに会いたい。仕方ないんだけど、ホール内の豚率が比較的高くてちょっと疲れてくる。招待客はもちろん色々な見た目なのだけれど、使用人や警備の騎士がほぼもれなく豚系だ。美男美女を集めたということらしい。
出会いを求めて社交会に顔を出すわけではないというのを分かってもらうため、ラーシュにはこの会のことを事前に話した。その時に聞いた話だが、こういった会は身分の高い人が集まるため、騎士も警備に出向くらしい。ただし、会場内に入るのは厳選した、正装の似合う人間の見目麗しい騎士。獣人部隊はそもそもあまり参加しないし、したとしても会場の外が持ち場になるとか。醜いから。それも、隊長さんとか、まだ見るに耐える人たちを出すらしい。えええ……。壁際に立つ、まるまる太った騎士様をちらりと盗み見る。黒と藍を基調にした軍服だ。彼は職業柄視線に敏感なのか、……私のことを元々見ていたのか、ばっちり目があった。肉に埋もれて細い目で軽くウインクされた。ひゅう、仕草がイケメン! 私はそっと見なかったことにして視線を戻した。
……その時。
「きゃああああ!」
会場の一角から、悲鳴が上がった。私たちのいる位置からの距離は遠い。
「リア!」
兄さんがすぐに私を抱き寄せる。先程の騎士様が慌ててそちらに向かう。入口の扉も開いて、何人か応援の警備も入ってきたようだった。
……逃げるべきなのだろうか? 人垣のせいで、何が起きたのか全く分からないが、揉めているような声がする。ちょうど入口の傍にいるので、ホールから出るのはそんなに難しくなさそうだけれど……。ちらり、と兄さんを見ると、私よりも険しい顔で状況を見定めようとしているのがわかった。そのままどのくらい経ったのか。長く感じたが、せいぜい一分やそこらだと思う。マイク越しの伯爵様の声が響いた。
「えー、失礼いたしました。お客様同士の揉め事がありましたが、問題ありません。引き続きご歓談ください」
「……」
大丈夫、なのだろうか。兄さんに抱き寄せられたまま身を固くしていた私は、その兄さんが私を離し、ポンと軽く背中を叩いてきたことで我に返った。周囲の人達はもう、悲鳴が響く前と変わらない調子に戻っている。兄さんは私の耳元に顔を寄せて、小声で話しかけてきた。
「おそらく大丈夫だ。貴族というのは、色々な理由で確執が多い。若い方の多いこういう場では、稀にこういうこともある。何があったかは調べておくよ」
兄さんは優しく微笑んでいた。だから私も笑顔を返して、あと少し、宣伝人形に徹することにしよう。
「そう、リアはどんな顔でも美人だけど、笑顔が一番だ」
そんな身内の贔屓目……とも言いきれないかもしれない言葉に頷く。
改めて気持ちを引締めつつ、何となく視線を感じた気がして、顔を上げた。
「…………」
そして、目に入ってきた人物に、引締めた気持ちは一瞬でどこかへ消えた。
人間、驚きすぎると咄嗟に声も出ないのだ。
だって、ホールの入口付近、そこにいたのは。
「ラーシュ……?」
小さく小さく呟いただけだったが、彼の虎耳と肩がビクリと跳ねた。どう見ても私の彼氏、ラーシュその人は、私からしたら余りにも唐突に、そこに立っていた。
「……」
私は完全に頭が真っ白だった。
ただラーシュがいただけならここまで驚かなかったかもしれない。ラーシュは仕事で会場の外の警備をしていて、さっきの騒ぎで中の様子を確認に来たのだろうと冷静に気付けたかもしれない。
でも、そこにいたのは普段のラーシュではなく……、軍服を着たラーシュだったのだ。黒と藍を基調にした軍服に、装飾の多い剣を佩いている、破壊力百点満点みたいな精悍なラーシュだったのだ。似合いすぎだ。後光がさして見える。360度、子犬のように彼の周りをまわって観察したい。剣を構えてみてほしい。あとそうだ、少し気だるげな雰囲気で壁によりかかってみてほしい。あとはあとは、……してほしいことがありすぎて逆に分からない。えっ、ちょっと全人類聞いてほしい。私の自慢を聞いてほしい。これが私の彼氏なんですよ! そんなことある!?
ラーシュの軍服姿に、見事にテンションが振り切れた。突然のことに声も出なかったのがせめてもの救いだ。
いや落ち着け、落ち着け私、今この場はダメだ。今だけは落ち着いて軍服なラーシュから視線を引き剥がすんだ! そんなご無体な!
一人で突き抜けて一人で悶えていた私は、自覚はないが相当おかしな体重移動をしたらしい。急に右の地面がなくなるような感覚に襲われた。
「えっ」
ガクン、と姿勢が崩れる。あ、これ分かった。私右足のヒール折ったわ。瞬時に理解するも、私の運動神経で姿勢を立て直せるはずもない。転ぶこと自体は諦めたけど、少しでも無様でなくすっ転びたいところだった。兄さんごめん。
「リアっ!」
兄さんの焦ったような声がする。が、数歩分離れていた兄さんには咄嗟に距離を詰めて抱きとめられるような運動神経はない。
それでも、衝撃は訪れない……というか落ちていない感じがする。つまり。
思わず瞑っていた目を開けると、ある意味予想通りの景色が広がっていた。
「……大丈夫か!? ……です、か?」
そう、ラーシュ。ラーシュに抱きとめられた状態で、ラーシュの見目麗しい顔面が至近距離にあった。なんかいい匂いがする。軍服のラーシュに抱き抱えられてる。抱き抱えられてる! どんな筋力。いや知ってたけど、ていうか近い、は、はわ、はわわわわ。
「いや、えっ、あああああのめっちゃいま、はや、えっあれっ」
「……落ち着いてください」
「た、立ってたところから、距離、あの、私まで、結構あった、ですね?」
ラーシュの立っていた場所から私がバランスを崩した場所まではそれなりの距離がありましたが、反射神経と移動速度が凄まじいですね、と言いたい。今の私はもうダメだ。
はわはわしていたら、耳元に唇を寄せられ、囁かれる。
「ほんと、落ち着け、アドリアーナ。降ろすぞ?」
「は、はひ……」
逆にその囁きがダメなんですよ! 何その囁き! 色っぽい! 私を落ち着かせたいんでしょおおお!?
ラーシュにゆっくりと地面に降ろされた……が、上手く立てない。高いヒールが片足だけなのと、あまりの動揺に、早く立たなければと思うほどバランスが取れない。ラーシュの腕を支えにバランスをとる。離れるに離れられないラーシュも困っている様子だ。私もすごく困っている。ごめん。
「ああ、リア、可哀想に。ヒールが折れて足首を痛めてしまったんだね」
少し大きい、芝居がかった兄さんの声が響いたのはその時だった。
「騎士殿、私の妹は足を痛めて歩けないようだ。申し訳ないが、当家の馬車まで妹を運んでいただけませんか。私もすぐに向かいますので、先に」
「……畏まりました」
兄さんの言葉に軽く目を見開いたラーシュは、恭しく答えると、まるで重さなんて感じていないかのように、私をお姫様抱っこした。め、めちゃくちゃ嬉しい、けど、嬉しがっている場合ではない。兄さんもラーシュもごめん、本当にごめん。ラーシュの腕、安定感がすごいんだけどどんな筋力をしていらっしゃるんでしょうか……。心臓がバクバク言いすぎて死にそうだ。私は今おそらく真っ赤だと思うが、ファンデーション塗ってるから多少抑えられていたりしないかな。無理か。
ホールを出て馬車に向かう途中で、私は小声でラーシュに話しかけた。ずっとお姫様抱っこだ。重いよねごめんね。
「ラーシュ」
「ん」
「ごめん、なさい。余裕なくてあんまり周りのこと見てなかったけど、多分さっきの、結構注目集めちゃったよね?」
「あー、まあ、それは……な」
歯切れが悪い。いや分かってる、ものすごく注目を集めていたであろうことは予想が着く。
「気持ち悪いと、思ったか?」
「え?」
今度は逆にラーシュに尋ねられる、が。突拍子もなさすぎて理解が追いつかない。
「ラーシュごめん、今なんて言った?聞き間違えたかも」
「俺のことを気持ち悪いと思ったか?」
ラーシュの顔を見上げるが、ラーシュはこちらを向かなかった。角度的に耳は見えないが、この声音だとペタリとへたれているのではなかろうか。
「聞き間違えてなかったけど質問の意味がちょっと。そんな要素がどこに?」
「……なら、いい」
「いやさすがにラーシュに気持ち悪いという感想を抱く余地がなさすぎて気になるんですけど……。私の認識だと現状は、突然のラーシュに勝手にテンションが上がってヒール折ってすっ転びかけたところを助けられて運んでいただいているという……うう、言ってて情けなくなってきた……。ご迷惑をおかけしております」
現在進行形でね! 改めてこれは照れてる場合でもいい匂いーとか言ってる場合でもないぞ! すみません!
自分の所業に打ちのめされていると、ラーシュが驚いた顔で見下ろしてきた。
「……突然の俺に、テンションが上がった?」
「うっ」
「……」
じっ、と見つめられる。どことなく期待に満ちた目で、無言で説明を求められている。ぐぅ。今の私の立場は弱いのだ。求められたら説明するしかない。
「……ラーシュ、が、突然、似合いすぎな軍服着て現れるから、かっこよすぎてちょっと見蕩れてテンションが突き抜けちゃって、気付くとバランスを崩していたと言いますか……」
「………………そうか」
それだけ呟いてそっぽを向いたラーシュの口元は少し歪んでいる。これはあれだ、にやけそうになるのを必死で抑えてるやつだ。可愛い。
口元を指摘しようかと思ったけれどやめて、代わりに抱きつく腕にぎゅっと力を込めた。こちらでしがみつかなくても落とされないだろうと安心できるくらいラーシュの腕は力強いけれど、なんとなく。馬車に着いて降ろされるまで、私はずっとラーシュにしがみついていた。馬車に着いてからも、兄さんが戻ってくるまでラーシュは一緒にいてくれて、確実に私を引渡してから戻って行った。
はああああかっこいい。意味がわからないくらいかっこいい。でも今はホワホワしている場合ではない。
馬車が走り出したのを見計らって、切り出す。
「兄さん、せっかくの機会だったのに、本当にごめんね」
「ん? いや、問題ない。重要どころにはご挨拶できたし、退場の仕方を思うとちょっと靴だけは厳しいかもしれないが……、それ以外のドレスや装飾品はよく売れるだろう。兄さんもそろそろ疲れてきて、お暇する口実を探し始めたところだったから、むしろちょうど良かった」
最後のだけは、明らかに嘘だ。
「……ありがとう」
「ああ」
会話が途切れる。そうなるとどうしたって、思い出すのはラーシュのことだ。もう、もう、最高の体験だった。申し訳ない気持ちは拭えないが、でもだって、軍服ラーシュにお姫様抱っこだよ!?
「……リア」
「はっ! はい!」
「これはただの興味で聞くんだが。さっきの……ラーシュ君。リアとしてはどうだった?」
えっ。……ほんと? それ聞いてくれるの!?
「聞いてくれるの!?」
「えっ?」
「軍服が。軍服がもう異常なくらいに似合いすぎていてね。あんな姿で急に現れるの反則でしょ。そりゃ深く動揺もしますよ」
「あ、ああ」
「しかも、転びかけたところを助けてくれるし。お姫様抱っこしてもらったとき、ものすごく安定してて安心感すごいし、かっこいいし可愛いしもう私をどうしたいのかな!? 」
「……」
兄さんが黙ってしまった。
「兄さん? どうしたの?」
「いや……あまりに悲惨な絵面だったから念のために聞いてみたんだが、そんな調子でなんというか。……深く安心しているところだ。ラーシュ君にも後日お礼を伝えておくといい」
「そうする! あの服って貸与なのかな支給なのかな購入なのかなー。頼んだらごく個人的に着てくれたりするかな……」
「……頼んでみるといい。おそらく喜ぶだろうさ」
ラーシュがどんなにかっこいいかという話は普段する相手がいないのだけれど、兄さんは穏やかに聞いてくれる。少し胸焼けしているというか呆れている雰囲気はあるけれど。それが嬉しくて、私はなかなか止まらなかった。家に帰りつく頃には兄さんはどこか疲れた顔をしていた。ごめんね兄さん。