その後【5】中編
その日、俺ーーラーシュ・ヴィルムは、暇な休日を過ごすはずだった。アドリアーナと付き合ってからというもの、休日はほとんどを彼女と会って過ごしていた俺だが、今日はあいにく予定があるらしい。兄と観劇に行く予定と俺の休みがちょうどブッキングしてしまったようだ。普通にあることだと自分を納得させるが、やはりがっかり感は否めない。救いは、俺と同じようにアドリアーナも残念そうにしていたことだろう。
久々に本でも買ってきて読もうかとのんびり考えていた俺は、ポストに届いていた差出人不明の手紙に首を傾げた。真っ白い封筒ってどういうことだよ、何か書けよ。面倒に思いながらも、ビリビリと封を開ける。そして文面を読み、目を見開いた。尻尾の毛が一本残らず逆立ち、眉間に深くシワを寄せて瞳孔も少し開いている今の俺は、はたから見たら悪魔も裸足で逃げ出すような様子であることだろう。
「……んだよ、コレは」
絞り出した声は地の底を這うようだった。
その手紙には、アドリアーナを誘拐したこと、指定の場所に誰にも知らせずに俺一人で行かなければアドリアーナの安全は保障しないことが簡潔に書かれていたのだ。指定されているのは人気の少ない通りにある倉庫だった。
「……」
呑気な休日モードは一瞬で吹き飛んだ。
どうするのが最善だ。俺は頭を巡らせる。可能性は三つ。アドリアーナが実は誘拐などされていない場合、誘拐されていて指定場所にいる場合、誘拐されていて指定場所以外の場所にいる場合だ。
確かアドリアーナは、防護系の魔道具を幾つか身につけていた。ならば力づくの誘拐なんてそうそうされないだろう。あれは、たとえ身につけた者が気付いていなくても悪意ある者の接触をある程度弾いてくれるはずだ。アドリアーナが持っているのは、最高級に近い品質のものだったし。ならば、そもそも誘拐などされていない可能性が一番高いとは思う。
だが、最優先すべきはアドリアーナの安全だ。誘拐されたということが真実だとしたら。犯人が間抜けで、指定場所にアドリアーナを置いておいてくれるなら犯人を殺……じゃなくて無力化して終わりだが、指定場所以外の場所に監禁されていたらどうする?
考えろ。アドリアーナは今日、兄と観劇に行くと言っていた。つまり、二人に何かあれば、アリスト商会が確実に気付くはず。人海戦術的な捜索が行われるだろう。脅されておおっぴらに動けなくなると仮定しても、何らかの手は打つはずだ。
情けないがこれを前提に考えるに、俺は指定場所には行くべきだろう。俺にこの手紙が来たということは、犯人の狙いはアリスト商会ではなく、俺個人もしくは騎士団。もし行かなければ、アドリアーナほどの器量なら簡単に殺されないまでも、乱暴を働かれる可能性は十分すぎるほどにある。
俺が失敗したときのために保険はかけるけどな、当然。俺は手紙を殴り書くと、クローゼットの奥にしまってあった旅装のローブのフードを目深に被った。その上からもう一枚ボロを羽織る。派手に帯剣するわけにはいかないので、小さなナイフを服に仕込んだ。
よし、行くか。
家を出た瞬間から、張り詰めた神経が誰かの視線を感じとった。監視付きか。まあ予想はしてたが、撒かないとな。
俺は何気ない風を装って、路地裏に入る。それと同時に、周りの家の窓枠などに手をかけて一気に屋根の上へと登った。猫科なめんな。あまり激しく動いて屋根が抜けても申し訳ないのでできるだけ一点に体重をかけないように移動し、屋根の反対側から別の路地裏へ降りる。不規則に動きつつそれを二回ほど繰り返すと、もう視線は感じなかったので、一番上に羽織っていたボロを脱ぎ捨てて服の色を変えた。
アリスト商会への連絡はできない。手紙の条件に、『誰にも知らせず』俺一人で来いとあったからだ。念のため、アドリアーナの実家に連絡したらバレると思って行動した方がいい。騎士団の方も見張られていると思っておこう。そこで俺は、俺と同じく今日休暇を取っているはずの犬獣人の部下の家にやってきた。今日が休日の団員は複数いるし、さすがにこんな細かいところまで見張ることはできないだろう。俺自身についていた監視はしっかり撒いたのを確認したことであるし。
ドアをノックすると、運のいいことに部下が顔を出した。深くローブを被った俺に、警戒心を露わにする。
「……どちらさんで?」
「俺だ。余計なことは言うな」
副隊長、と明らかに言いかけた部下を睨みつけて黙らせる。
「悪いが、緊急事態でな。休日なのは分かってるんだが、この手紙をアルフのところまで、できるだけ自然に届けてくれないか。一応これが報酬だ」
手紙と、先ほど適当に現金を詰めた封筒を押し付ける。
「え?」
「頼めるか?」
「あ、ええ、まあ……」
「そうか、悪いな」
これは保険だ。手紙には、全ての事情を書いてある。俺がドジを踏んだとしても、アルフならばある程度は上手くやってくれるだろうという信頼がある。用は終えたので部下に背を向けると、慌てて話しかけてきた。
「あっ、副……じゃなくてえっと、あの、緊急事態って大丈夫なんですか?」
「さあな。とにかく何とかしてくるから、お前はそれをアルフに渡せ」
「あの」
「なんだ」
苛立ちながら振り返ると、部下の尻尾がくるんと足の間に丸まった。
「さ、殺気が結構抑えられてないっぽいので気を付けてください……」
「……。……忠告感謝する。悪い」
殺気撒き散らしながら歩いてどうする俺よ。
さて、保険もかけたことだし、あとは乗り込むだけだ。指定の倉庫に近付いていくと、人気の少ない方向に向かっているにも関わらず、どこかから視線を向けられている感覚が復活した。どうやら一度見失った俺を見つけ直したらしい。撒く必要もないので監視させておくことにする。
指定されているのは、大きめの倉庫だ。二階建てほどの高さがあるが、単に天井が高いだけで二階があるわけではないだろう。監視は付いているが接触してくる気配はないので、すぐには入らずに周りをぐるっと回って中の気配を確認する。中にはおそらく十から二十人くらいいるな。その中にアドリアーナが入っているかまでは分からないが……、感じ取れた限りでは女の声もにおいもしない。聴覚はともかく嗅覚はそこまで鋭くないので、あまり当てにはできないが。
出入り口は表と裏に、大きいのと小さいのが一つずつ。どちらも、近くに人が待機しているようだ。倉庫内で普通に働いているにしては明らかに不自然な人の配置をしているし、動く気配もない。犯人と関係のない、ただの倉庫に来させられた可能性は低そうだ。扉に鍵までかかっているかは確認していないが、閉まっているということは開けて入って来いということなのだろう。
「……ふん」
アドリアーナはおそらくいない。……やるか。
幸い、倉庫の壁はツルッとした素材ではなく、また、人一人も通れない程度の大きさの曇りガラスとはいえ窓もあるので、それを手掛かりに屋根に上がることは可能だ。俺が一気に登ると、監視者たちが慌てたのが何となくわかる……が、今更遅い。俺は建物の中心まで走ると、屋根を思い切り破壊した。
「なっ、なんだ! 何が起こった!」
慌てる賊どもを尻目に素早く屋根から飛び降りながら、視線を巡らせる。目視範囲にアドリアーナはいない。倉庫内の割に物は案外少ないので、隠れる場所もほとんどなさそうだ。もちろん、声もしない。
「上からだと⁉︎ と、取り押さえろ!」
一人の男の言葉に従うように、ドアの側にいた連中が慌ててこちらへ駆けてくる。その男の他に咄嗟に指示を出そうとする奴がいないということは、こいつはこの集団の中でそれなりの地位にあるんだろう。
ちょうど近くにいた連中を適当に殴り飛ばして、指示を出した男に肉薄する。賊のくせに、中年くらいのくせに、ムカつくくらいに整った顔をしたその男は必死で後ろに下がろうとするが、遅い。どうやら荒事慣れしていないようだ。
その綺麗な男のそばには護衛らしい男が二人ほどついているが、敵にもならない。勢いを殺さずに殴り、蹴ると簡単に沈黙した。ちなみに二人のうち一人は不自然に覆面で顔を隠していたから、人相書きの出回る極悪犯かもしれない。後で要チェックだ。
一連の俺の動きをろくに認識も出来ていないリーダー格らしい男がその美麗な顔で呆けているので、足払いをかけて膝をつかせつつふくらはぎを踏みつけ、その首にナイフを突きつけた。
「動くな!」
怒鳴ると、面食らったようにその場の全員の動きが止まる。当たりを引いたな。少なくともこの集団の中では、こいつがボスで正しかったらしい。
頸動脈から少しずれた所を、ちくりとナイフで刺す。喉を掻き切らないように細心の注意を払いながら横に動かすと、男の首には一本の赤い線が入って血が垂れた。
「よォ、随分と楽しい手紙をくれたもんだなぁ? 書かれた通りに一人で来てやったんだ、もちろん歓迎してくれるんだろ、アァ?」
踏みつけているふくらはぎに体重をかけてギリ、と踏みにじると、男から呻き声が漏れる。平常時でも残忍な悪魔のようだと陰口を言われる俺の顔がこの時どのように歪んでいたのか俺自身には知りようもないが、周りの賊が何人か腰を抜かした。
「答えろよ、アドリアーナ・アリストはどこだ。お前たちの目的は俺か?」
ナイフを突きつけられて震える男が口を開こうとしたのを遮るように、覆面をつけている方の護衛が声を上げた。
「お、お待ちくださいヴィルム殿。違うのです、その方はっ!」
覆面男がわたわたと自分の覆面を毟り取る。妙な動きをしないか睨みつけていた俺は、その下から現れた顔に虚をつかれた。見覚えがある。というかこいつ……この男、前にアドリアーナの護衛をしてなかったか?
その意味を考える前に、倉庫の出入り口が大きな音を立てて開かれる。鍵はかかっていなかったらしい。リーダー格の男と護衛男の動向に気を配りながら横目で入り口を確認した俺の目に、信じられない人物が飛び込んできた。
「ラーシュっ! 無事⁉︎」
「……⁉︎」
その人物を見た瞬間、俺はナイフを引き、男の背中を蹴りつけて顔面から床にダイブさせ、彼女の元へ向かった。
そう、俺の恋人、誘拐されていたはずの、アドリアーナの元へ。
「アドリアーナ!」
「わっ!」
俺が突然目の前まで移動してきたように見えたのだろう、驚いているアドリアーナを背に庇って倉庫内を警戒する。
「ラーシュ……」
アドリアーナが、俺の服の裾を掴んでくる。可愛い、可愛いがこの状況で動きが制限されるのは危ないのでやんわりと離させようとしたところで、アドリアーナは聞き捨てならない一言を発した。
「ごめんラーシュ、私の身内がとんでもないご迷惑を。怪我とかさせられてない?」
「……は?」
みうち?
「って、お父さん⁉︎ 大丈夫⁉︎」
倉庫内を覗き込んだアドリアーナが、焦ったような声を出す。それに、賊(?)のリーダー格らしい男は、地面にダイブした際に怪我をしてなお美しい顔を上げ、目を逸らしつつ呟いた。
「あー、えっと、その、あー、大丈夫だ」
「……オトウサン?」
「あ、うん、ラーシュ……本当にごめんね?その、なんていうか、今回のはお父さんによる狂言誘拐みたいなもので……」
「……」
俺は纏まらない頭で、改めて倉庫内を見回す。賊だと思っていた男たちからは、もはや敵意は感じられない。
「……」
次にリーダー格の、アドリアーナがお父さんと呼んだその男に目を向ける。足払いをかけて膝をつかせ、ふくらはぎを踏みにじりつつナイフで首を引っ掻いて怒鳴りつけて町のチンピラなんて問題にならないくらいの威嚇を披露して、挙げ句の果てには背中を蹴りつけて顔面から床に飛び込ませた記憶はとてもとても新しいものだ。
「……アドリアーナ」
「はい」
「説明してくれないか……」
脱力しそうになるのを堪えつつ、軽い頭痛を覚えながら俺は説明を要求した。