その後【3】前編
「そういえばさ、次の公開訓練っていつなの?」
アドリアーナの、この何気ない一言が始まりだった。
「どうしたの、ラーシュ。ご機嫌だね?」
アルフが問いかけてきた。どうやら顔に出ていたらしい。
前々回まではろくに気にすることもなく、幾度となく繰り返してきた公開訓練というイベント。というか、公開していようが人なんてろくに来ないので気にしないのも当然なのだが。とにかく、今日行われるどうでも良かったはずのイベントに、俺は死ぬほど浮かれていた。
「ん、ああ。少し、いやかなり、いや死にそうなくらいいいことがあってな」
「……ああ、そう。隊員たちが怯えてるからほどほどにね」
「おい、別に今の俺に怯える要素はないだろうが」
「君はしっかり恐怖を植え付けてるからね、部下に。ご機嫌ならご機嫌で怖いんだよ。普段と違う副隊長さんはね」
軽く周りを見回すが、不自然なほどに誰とも目が合わなかった。……にしても相変わらずむさ苦しい。いや、俺自身がその筆頭なのは分かってるんだが。アドリアーナに会いたい。
「別に取って食いやしねぇんだが。いつも思ってたんだが、何だってこんなにビビられてんだ俺?」
「うわー、それ本気で言ってるよね目がマジだもんね。訓練の厳しさから悪魔って陰口叩かれてるんだよ、キミ」
「……今、五人ほど慌てて顔を逸らしたな。確認したからな、テメーら覚悟しておけよ」
「あはは、悪魔だ」
「うるせぇ」
アルフを軽く睨みつけて……ふと、俺は気付く。
「あれ?」
「ん? どうしたのラーシュ」
「お前に話した記憶がない……」
「は?」
まだアドリアーナと付き合う前。からかわれていると思い込んで、アルフを巻き込んで晩酌したあの夜以降、こいつと二人だけで会話をした覚えがない。
「まさか俺、なんにも話してないのか……」
幸せすぎて浮かれていた。休日は毎回アドリアーナといたから、暇な時間もなかった。更に、付き合い始めてからまだ一月も経っていないというのもある。にしても、報告もしていないというのはちょっと薄情過ぎやしないか、俺よ。
だが今言うのはちょっと嫌だ。何故なら、周りに耳のいい部下どもがうじゃうじゃいるから。
「……悪いなアルフ、詳細は後で話す。とりあえず部下と一緒に驚いておいてくれ」
「ちょっと、なんの話?」
「なんでもない」
「…………。どことなくニヤニヤしてて、僕も今日のラーシュ怖い……」
ニヤニヤしてるのか? それはまずいな。必死で無表情を取り繕おうとしたが、どうやら無駄だったらしい。アルフにまで距離を取られる俺なのだった。
さて、待ちに待った訓練開始時刻である。先ほどから何度も思い出している前回のデートでの会話のおかげで、俺はずっと上機嫌なのだ。
『戦ってるラーシュかっこいいから次の公開訓練見に行くね』
と、アドリアーナはそう言ったのだ。むさいから来なくてもいいとは伝えたのだが、ラーシュが見たいの一点張り。
アドリアーナは、今日は最初からずっと見ていると言っていた。つまり、そろそろ姿を見せるはずなのだ。
尻尾がピンと立って、耳がパタパタと暴れる。何故か俺の周りにぽっかりとスペースが開いている気がするが、別にいいだろう。あれは触れるとやばいやつだ近付くなよ、絶対やばいから近付くなよ、近付いてもいいが周りを巻き込むんじゃねーぞ副隊長に殺されるぞ、なんて小声でヒソヒソ話す声も右から左へ抜けていった。
「……きた」
俺の耳は、こちらに近付いてくる足音をしっかりと感知していた。一人のようだ。アドリアーナと決まったわけではないが、この時間にこちらに向かうのは見学者以外あり得ない。見学なんてアドリアーナのような意味不明な嗜好の持ち主くらいしかしないから、十中八九アドリアーナである。
俺は柄にもなくワクワクしながら訓練場の入り口を見つめる。そんな俺の様子に気付いた周りの連中も、ひょっとして、とでも言いたげな表情で入り口を見る。前回の公開訓練でやってきたとんでもないイレギュラーを、こいつらも忘れていないようだ。
「……あのさ、ラーシュ。訓練、始めるに始められないんだけど」
「おー、始めていいぞ。……あと三十秒ってとこだな」
「始めていいなんて思ってないでしょ、返事おざなりすぎ。三十秒って、まさか?」
アルフも入り口を見る。そして、ついに。むさ苦しい訓練場に、天使が降臨した。
前回の繰り返しのように、訓練場が静まり返る。息を呑む音が聞こえた。アドリアーナはそんな周りの空気に一瞬キョトンとしたあと、花も恥じらうような美しい笑顔を浮かべた。おい、前回は怯えてただろ。順応早いな。彼女は、俺に向けて小さく手を振ってくる。
「おはようラーシュ、頑張ってね」
決して大きな声ではない。しかし、その可憐な声は静まり返った訓練場にとてもよく響いたのだった。
……空気が凍った。
それはもう、面白いくらいに凍りついた。
俺は確信した。ニコニコと笑うアドリアーナは、確信犯だ。こうなるのを分かっていて、わざと俺の名前を呼んだに違いない。おそらくは、俺のために。俺とアドリアーナが親しい仲にあるのだと示すために。ああくそ可愛い。お持ち帰りしたい。……って違う! 邪なことなんか考えたわけじゃないんだ、ただ俺は二人でのんびり話なんかをしたいだけであって、そう、それだ。煩悩退散煩悩退散‼︎
「……ふ、副隊長ぉぉぉ⁉︎ 何ですかこれ何ですかあれどういうことっすかこれは!」
部下が騒ぎ立てる。一人が騒ぎ出すとどいつもこいつもやいのやいのと煩くなる。子供かこいつらは。
「うるさいぞ、落ち着け」
「口元ニヤけながら言っても威厳ないですよ副隊長!」
「そーだそーだ!」
え、ニヤけてんのか俺。
「てかどういうことっすか! まさかモテなすぎてついに犯罪を……」
「馬鹿‼︎ やめろ、マジで殺されるぞ!」
「あ……い、いえ違うんです副隊長、今のは口が滑っ、いやそうじゃなくてえっと、その、」
やばいやばい、真顔に戻れ、戻れ俺! ニヤつくんじゃない!
「とにかく違うんです……ってあれ、聞いてます?」
「あーあ、ラーシュ聞いてないね。命拾いしたんじゃない?」
「よ、よかった……!」
よ、よし、これでなんとか真顔に戻ったはずだ。あとはアドリアーナの方を見ないようにすればニヤけることも……やばい、思い出しただけで口元が緩むとかふざけるな俺‼︎
「ていうかさ、ラーシュ。どういうことなの? 僕も何にも聞いてないんだけど……」
深呼吸だ、深呼吸をしよう。頼むから落ち着け俺。
「…………」
ほら、視界の端でアルフがゆっくりと木剣を振り上げている。よし落ち着け俺……って、はぁ⁉︎
本気からは程遠い剣速だが、何故か木剣が振り下ろされる。俺はそれを軽く避けて、アルフを睨んだ。
「何しやがる」
「こうしたら正気に戻るかなって思って」
「いつからそんなにバイオレンスになりやがった」
「別に避けれるでしょ。避けなくても、ラーシュなら大したダメージにはならないよ」
ああ、確かにそうだな。ならいいか……ってなるか!
「そういう問題じゃないだろ」
思わず牙を剥いて威嚇しようとしたところで、アルフが視線でアドリアーナを示す。
「見られてるね」
小声で呟かれた言葉に、俺は怒りを飲み込む。俺の犬歯は、人間のそれよりは長くて鋭い。口を閉じていればわからないし、アドリアーナにそれを指摘されたことはないが。アルフに対してとはいえ、威嚇なんかして怯えられたら嫌だ。アドリアーナなら平気だろうとは思うのだが。
「なんで隠してたの。事情があるんだろうとは思うけどさ」
「……」
アルフが浮かべている気遣わしげな表情が、今に限っては気まずい。
「……ない」
「ん?」
「事情なんてない。浮かれていたので、言い忘れていた」
「…………」
アルフの呆れ果てたような目から視線を逸らす。
「……詳しくは、後で聞こうかな」
自分を納得させるように呟いたあと、アルフは訓練を始めると宣言した。こっそりアドリアーナに手を振ってみると、満面の笑みで三倍くらい振り返された。なんだあの可愛い生き物。
訓練しながらもこっそり窺うと、アドリアーナはほぼずっと俺のことを見ていた。部隊のほとんどは俺よりは見目がいいのだが、それでも俺ばかりを見ていた。俺と同じく強いために目立っており、なおかつ顔が整っているアルフに対しても目もくれない。……こういうのを見ると、美的感覚が崩壊しているのは本気なのだろうか、と思う。なんて都合のいい話だ。
「……それにしても」
俺は自分の木剣を上に放り投げ、相対していた部下を両手を使って思いっきりぶん投げてから、落ちてきた木剣をキャッチした。ぶん投げた部下は、ぬるい訓練をやっていた別の部下二人のところに狙い通り飛んでいき、「ぐぎゃ」とかいう声と共に三人で潰れた。まあ、頑丈なので大丈夫だろう。
「テメェら今日は、随分とぬるい組手やってんじゃねぇか。集中する気ねぇな?」
原因は明らかである。チラチラとアドリアーナを見ているためだ。見るんじゃねぇ。……いや、見られること自体が問題ではなくてだな、あれだ、訓練に集中しないことが問題だ。うん。
「そうは言いつつ、ラーシュも集中してないよねぇ。元が強すぎて問題ないだけで」
部下二人を相手にしているアルフがクスクスと笑う。聞こえてるぞ。
「いや、だって気になるんすよ副隊長。なんすかあの方は。何で来てくれてるんですか天使ですか天女ですか女神ですか」
先ほど投げた部下が起き上がりながら聞いてくる。後半はなんなんだ、俺もそう思う。アドリアーナを見ると、手を振ってくれる。ああもう可愛い可愛い。
そんな俺たちを見ていた部下が、意を決したように自分も手を振る。ぺこりと他人行儀に会釈を返されていた。ざまあみろと思ったが、当人は反応を返してもらえたこと自体に嬉しそうなので今からしごいてやろうと思う。