十六話
適当な喫茶店を見つけたので、放心したラーシュさんを連れてそこに入る。あまりにも注目を集めて恥ずかしかったので手は離してしまったのだけれど、もったいないことしたなあ。
私はアイスミルクティー(甘いやつ)、ラーシュさんはブラックのアイスコーヒーを頼んで一息ついたところで、私は切り出した。
「あの、さっきはすみませんでした。相手の方を貶さずに撒くのに一番手っ取り早いのは、あれかなと思いまして」
あの顔だったから拒否反応出まくりだったけど、彼はそこまで悪くもなかったと思う。なれなれしいけど超えちゃいけない一線はちゃんと守ってたし、自分の方がいいとはずっと言ってたけど直接ラーシュさんを貶すようなことは言わなかった。唯一の誤算は、彼の容姿が私にとって魅力的でなかったことだろう。というわけで、彼を傷付けることなくあの場を切り抜けたかったのである。
「ああいえ、全然その、構わないです、はい」
忙しなく動く虎耳がどんなに可愛いか、ラーシュさんは一度自覚するべきだと思う。超触りたい。尻尾もいいなぁ。ちょっと触らせてくれないかなぁ。でもこれ言ったら変態だよね。年頃の女が男性に『ちょっと耳触らせてください』とか痴女か。
それから適当に町を歩いて、服飾系の店に入ったり、食べ歩きしたり。ラーシュさんはすごく気を使ってくれるし、見目麗しいし、もう最高だった。ただ、尻尾の誘惑がずっとついて回るんだけどね。黄色と黒のしましま尻尾が歩くたびに揺れるのだ。明らかに誘われているとしか思えない。猫の前で猫じゃらしを揺らしておいて、別に誘ってませんけどとか言うようなものだ。理不尽である。飛びつきたくなるに決まってるでしょ。
そんな調子で過ごしていたら、あっという間に日が傾き始めてしまった。楽しいことをしていると、一日って本当に早いよね。
私が歩き疲れていることに目ざとく気付いたラーシュさんは、近くの公園に寄ってくれる。大きな公園だが別に遊具があるわけでもないので、人は少ない。
……それが私たちの関係を変えることになるなんて、その時点では二人とも思ってもいなかった。
「大丈夫ですか?」
人気のない公園のベンチに座らせた私に、近くの通りで売っていた飲み物を手渡しながら、ラーシュさんは心配げに聞いてくる。ちなみに、これを買うために通りまで軽く走ってくれた彼はめちゃくちゃ速かった。私の全力疾走とか問題にならないような速度を出しておいて、息を乱す気配も見せない。さすが虎。
「大丈夫です、ありがとうございます」
受け取って飲むと、それはアイスミルクティーだった。さっき喫茶店で頼んだのを覚えていてくれたらしい。彼は立ったまま、自分の分の飲み物を飲んでいる。
「あれ、ラーシュさん座らないんですか?」
ラーシュさんは困ったように視線を泳がせた。
「いや、だって……」
ああ、なるほど。ベンチに座ると、私と隣同士になっちゃうもんね。このベンチは二人がけなので、遠慮してくれているらしい。うん、問題ないですね。
「どうぞ、ラーシュさん」
隣の席をポンポンとたたく。犬猫を呼ぶときってこんな動作するな、と一瞬考えたけどまあいいか。
「ど、どうも……」
少し緊張したように、ラーシュさんは隣に座ってくれた。肩がラーシュさんの二の腕にあたりそうな距離だ。
「ラーシュさん。今日、ありがとうございました。すっごく楽しかったです」
「お、俺の方こそ!」
「あの、もしよければ、また一緒にお出かけしてくれませんか?」
「え……」
え、そこで戸惑うの? やばい、焦りすぎたか? で、でも、嫌われたような気配はなかったんだけど……。嫌われてはないけど、イマイチ楽しくなかったとか? うわわ、あり得そうで怖い。美人(笑)は三日で飽きるっていうし。
不安になって斜め上を見上げた私は、同じく私の顔を見下ろしてきたラーシュさんとばっちり目があった。ってちょ、近い近い近い! けど。私はついラーシュさんに見惚れる。改めてこの人、すっごい綺麗な顔してる。切れ長の茶色い目とか、月並みな表現だけど吸い込まれそうだ。あとお兄さん、顔が赤いのは夕日のせいだけじゃないですね? 多分。
気恥ずかしさに負けたのか、ラーシュさんは顔を逸らした。
「あっ……と、すみません。また誘ってもらえるなんて、嬉しくて。俺でよければ、是非」
「やったぁ!」
ってうわぁぁぁ素が出た! ラーシュさん驚いたみたいにこっち見てるじゃん!
「あぅ……。す、すみません。その、嬉しくて、つい……」
こ、こっちを見ないでください。
恥ずかしさに悶えていると、足に柔らかいなにかが絡みつくような感触が。幸せな気分から一転、サァっと血の気が引く。ま、まさか虫⁉︎ いや、だとしたらすごい大きいよね違うよね。
おそるおそる足に視線を向けると、黄色と黒色が見えた。
「……え」
思わずラーシュさんを見つめると、キョトンとした顔で見つめ返された。あれ? もう一度足を見ると、ラーシュさんの視線もつられて下にさがる。
「……は?」
ラーシュさんの、呆気にとられたような声。数瞬の間。
「すすすすいません! 俺……⁉︎」
私の足に絡みついていたラーシュさんの尻尾が、逃げようとする。それよりも少しだけ早く、私は尻尾を優しく捕まえていた。
「えええっ⁉︎ ちょ、アドリアーナさん?」
掴まれた尻尾が逃げたがるように、先がピシピシと動く。やばい超可愛い。思ったよりは芯があって固かったそれは、毛並みがいいので抜群の触り心地だった。ネコ科の尻尾だから、少し細いのだけが残念だ。
半ば無意識に、私は毛並みにそって尻尾を撫でていた。だって今日一日ずっと触りたかったんだもん。撫でると尻尾が小さく震えて、逃げようとする。それすらも楽しいと感じた。作り物ではない、暖かい手触り。
「くそっ……あんたが悪い」
小さな小さな、低く震えるような声。それが耳に入って、その意味を考える前に顔を上げた。
まず、熱い、と思った。優しく肩が掴まれている。唇に熱を感じる。えっと、柔らかい? それで、目の焦点が合わないほど近くに、肌色の……え?
混乱した脳が、ようやく答えを弾き出す。これ……キスされてない? 大きく目を見開いた私とは対照的に目を細めたラーシュさんは、ゆっくりと離れていった。
唇に指を当てて呆然とする私に顔を歪めて、彼は俯いた。
「男をからかうにしたって、やりすぎなんだよ。だから、こういうことになるんだ……」
小さな掠れ声で、彼は呟く。
◇◇◇◇◇
やってしまった。やってしまった! 心の中で、俺は思いつく限りの言葉で自分に罵声を浴びせる。最低だ。
尻尾を絡ませた時点では、まだなんとでもなった。彼女は獣人の習性に明るくないようだから。ネコ科の獣人が相手に尻尾を絡ませるのは、愛情表現である。相手がまだ自分のものでないのなら、求愛行動にもなる。それを無意識にやらかした俺の本能、死ね。
だがそれで終わるなら、知らぬ存ぜぬで通せば良かったのだ。
なのに彼女はあろうことか、尻尾を捕まえて撫でてきた。毛並みにそって撫でられるたびに、尻尾から背骨にゾクゾクとしたものが伝う。尻尾がピクピクと震えて刺激から逃げようとするが、彼女は離してくれない。
そんなことをされて、ずっと張り詰めていた俺の中の切れてはいけない糸が、切れてしまったのだ。超えてはいけない一線を、簡単に踏み越えてしまった。
その結果が、現状である。しかも往生際の悪い俺は、あんたのせいだなどと口走っている。
アドリアーナさん……いや、アリストさんは、よほどショックだったのか呆然としたまま動かない。年若い彼女は、これがファーストキスだったかもしれない。いや、俺もだが、明らかに俺の方はどうでもいい。彼女の意識が再起動を果たした時が、最後だろう。
……なら、もう少しくらいいいんじゃないか。どうせこれで最後なら、追加でちょっと抱きしめるくらいなら、変わらないんじゃないか。ほら、彼女から甘い匂いがする。からかわれた意趣返しをしてやれ。少しくらい、少しくらいなら……。
本能が囁いてくる。俺は甘美なそれを、必死で封じ込めた。彼女との関係はもう終わりだろう。だが、わざわざ追加で嫌われたくはない。彼女の出方によっては性犯罪者として捕まることになるかもしれないが、キスくらいなら実刑はおそらく食らわない。それよりも風評被害が問題である。俺みたいなのが嫌がる彼女に手を出した話が広まれば、この町では暮らせない。かなり遠くの町まで行かなければならないだろう。……いや、俺は何故このタイミングで、自分の心配をしている。
ぐ、と思い切り強く手の平を握りこむと、鋭い痛みと共に自分の血のにおいがした。