0章/スプレーマム
処女作,新生しました。またよろしくお願いします。
小さい頃、月が嫌いだった。他人と関わるのが苦手で人目を避けていた僕が、唯一人の視線を気にせずにいられる時間は夜だった。夜の暗さは僕を安寧の繭の中へと誘ってくれる。繭の中で僕はようやく安堵して目を閉じる。だけど月光は繭を切り裂いて、僕の姿を照らし出す。僕はいもしない人々の視線に怯え、部屋の隅で身を竦める。満月の夜は特にそうだ。夜のとばりが掻き消えると共に、町中の人に僕の心の奥底まで見透かされているような恐ろしい感覚に陥った。月は鬼胎を抱き震える僕を尻目に懸けると、人々の影を作り、やがてそれらは声を発し、僕の周りで踊りだすのだった。
---変な子、いつも隅っこで独りぼっち。
---友達はいないのかしら。
---関わらない方がいい、何を考えているか分からない。
意味を理解していたかは分からない。けれど影法師達が自分の事を快く思っていないことだけは確かに感じられた。恐怖に耐えかねた僕は、父の元へと走る。そんな僕を見て、父は少し物悲しそうな目をして言うのだった。
「̪址故、お月様は恐ろしいものなんかじゃあないんだよ。お月様はね、悪い人達から僕らを守ってくれているんだよ。ほら、月の光が邪魔をして彼らは悪さをできないだろう。」
今思うと的外れな慰めだったが、小さな僕は父の言葉を聞くと安心して父の腕の中で目を閉じ、やがて来る微睡みに身を任せるのだった。
ジリリリ、ジリリリ。
部屋中に鳴り響く音。朝一番に耳に入るその音は、一日の到来を告げる爽やかな鳥のさえずりか。それとも早朝から社会を回す歯車になるために、支度をする人々の生活音か。否、それは甘美なる眠りを妨げる魔の旋律。脳髄を貫く無機質極まる不協和音。デジタル化した同胞たちに居場所を奪われつつあるそいつは、今日も不機嫌そうにがなるのだった。
「まだ寝ているのか、まるでトドかセイウチだ。昨日の事を気にしてウジウジと。そんなんじゃ今日から始まる新生活が心配だな」
いつもなら優しくなででやるのだが、今日はこちらも機嫌が悪い。主人の眠りを妨げるのならば怒りの鉄槌を。振り下ろした拳は空を切り、今も金切り声を挙げ続けている不届き者の頭に落下した。間の抜けた金属音が室内に響き渡る。するとそいつは途端に拗ねて喋らなくなってしまったが、どうせ明日にはまた元気になっているだろうと思い放っておくことにした。
時刻は朝6時過ぎ。4月の日の出は夏ほどではないが早く、既に太陽は大地を離れ中天を目指している最中だった。窓から差し込む光は新しい生活の始まりを告げるようにさんさんと降り注ぎ、僕の視界を鮮やかに彩る。その色彩はまるで蛋白石の様に煌びやかで、これほど清々しい早朝は初めてかもしれないと思わせる程だ。先ほどまで大層不機嫌だった事も忘れ、僕は今日という新たな一日の始まりに胸を躍らせる。さあ、気合を入れろ。頬を叩き、僅かに残った眠気を追い出す。未練がましく張り付く布団に別れを告げると、強引に体から引き剥がした。
木製の家屋は階段を一歩下りる度に軋み、今にも崩れてきそうな危うさを感じさせる。広間を見やると昨晩の雨の影響か、バケツをひっくり返したような水の跡が部屋の隅に見てとれた。朝日に照らされた広間は積み重ねられた年月の重みに耐えかねて亀裂が走り、白いヴェールを纏うその様相は静かに終わりを待つ老人を思わせる。近所の子供達に幽霊屋敷だと囃し立てられているこのボロ屋敷は、その外観からか近づく者すら少ない。建造から約100年、今まで改築を殆ど行っていないため住宅街にありながらそこだけ時間が停止したかのような異質な空間が出来上がっている。
台所に置かれた大きな木製棚には調味料がずらりと並び、大量に備え付けられた引き出しを開けると用途によって分けられた包丁や食器などが丁寧に保管されている。前時代的な物が多く、どこか懐かしさすら感じる我が家の中で比較的新しいこの棚は、本来異質ながら周囲の家具と奇跡的な調和を果たし風景に溶け込んでいた。この屋敷の主であった父が、屋内の美観に強いこだわりを持っていたことがよく分かる。棚の中からとりわけ刃の長い包丁を取り出し、今度は棚の下段にある両開き戸を開ける。すると、無造作に置かれてしかめっ面をしている紙袋が現れた。即座にその中からパンを取り出し扉に手をかけると,袋はその顔を更に歪めてこちらに何か言わんとしているようだ。どうやら毎朝ついでに潰されることが気に食わないらしい。しかしそいつ自体に興味はなかったので扉をそのまま閉めることにした。パンをまな板に載せ、刃を通す。硬い外皮を突破すると、中の生地は抵抗を諦めたかの様にすんなりと刃を受け入れた。
切り分けたパンを片手に居間へ行き、少し早めの朝食をとる。この部屋は元々客間だった様で、中央には大きな机が置いてあり、少々派手なカーテンやカーペットなど大部分が外国製と思われる品々によって装飾されている。装飾品の多くは我が家のご先祖が明治時代に海外から取り寄せた一品だが、客間としての役割を終えた際に多くの家具が搬入されており、和洋入り混じるこの空間からは文明開化の残り香を感じずにはいられない。相当高価な品もあるようで、当時の客人にはさぞ受けが良かったことだろう。現代人である自分から見るとその背伸びをするような行為が逆に滑稽に見えてしまうのだが。
テレビを付けると、丁度朝の情報番組が放送されていた。「被災地の今」という題で、震災から1年が経過した今尚癒えぬ街の傷跡を映し出している。骨董品に囲まれた四面体が奏でる雑音を聴きながら、奥歯で千切れるパンの感触を確かめる。塗りたくられたママレードは束縛から解放される様に舌の上になだれ込む。その慎ましやかな甘味の中に感じられるほのかな苦味に加え、オレンジピールの存在が及ぼす食感へのアクセントは未だ微かに残っていた眠気を霧散させるには十分な刺激だった。その濁流に恍惚としていると,速報を告げる抑揚のない声が聞こえてきた。
---5日未明、称代市磐座町の住宅街で女性一人が倒れているのが見つかり、間もなく死亡が確認された事件で新たな情報が判明しました。身元不明であった女性は同市に在住する橋本 幸代さん26才。事件当日の夜は地元の華道教室から帰宅する途中で襲われたものと推測されます。警察はその手口から神籬町の事件と同一人物である可能性が高いと考えており、近隣の住民に再度注意を呼び掛けるとともに警戒態勢をより一層強化していくとのことです---
どうやら殺人事件が多発しているらしい。犯人は未だ見つからず、現在もこの町に潜伏している可能性が高いという。最近殺伐とした話題が多い気がするが、老若男女問わず希望をもって生きていくには辛いこのご時勢、必然的に暗い話ばかりが取り上げられるのも頷ける。日本の経済状況を鑑みると仕方のないことだ。
再び雑音が聞こえてくる頃には、朝食は最後の一欠けらになっていた。それを口に放り込むと、食器を片付け部屋を発つ。気が付くと、時計の針は7時を刻んでいた。支度をして玄関へ向かう。新品の服と靴、そして鞄。少しだけ成長したように感じる。大きく息を吸いこみ、僕は誰にともなく言った。
「行ってきます」
今日は入学式。僕が高校生として新たな生活を始める第一歩である。
称代市は、人口約20万人を抱えたそれなりに発展した町だ。なんでもここ十数年で急速に近代化したらしく、よく思い返してみれば小さい頃の家の周りは緑一色だった。それでも海に面した港町と、市の旧シンボルでもある相和山は今も当時の面影を残している。そんな、都会だか田舎だかよく分からないこの町の一角に、僕の通う学校は在った。
称代市立高校、通称「カナコー」。
どこにでもある普通の高校である。別段取り柄があるわけでもなく、特に行きたい高校も無かった僕は、知り合いの勧めでここへ入った。
家から学校までは徒歩20分程度の距離なのだが、
住宅街の坂を下って暫くすると、大通りが見えてくる。