初めてのナンパと初めての松
体育館の開放は六時まで。ラケット片手にぞろぞろと人が外へ出て行く。俺は自前のラケットを持っていないので、借りたそれを小太郎に返しながら外へ出た。冬の痛い風が俺に体育館の熱気を気づかせた。
「小太郎、あの、まゆこってやつ。あいつの家どの辺だか知ってる?」
「巣鴨じゃなかったかな。あなる。」
巣鴨か。俺は西巣鴨だから近いな。
「あなるあなるぅ」
小太郎がいきなり叫び出した。俺が止めようと手を振り上げると、今度は密着してきた。
「極端に近付くと、攻撃できないんだよ。」
あ、なるほど。確かにそうだ。少なからず感心してしまった自分に失望した。
こんなやつと話しているより、俺はまゆこは。
くだらない話をする小太郎をなんとか振り切り、俺はまゆこを追いかけた。でも。俺は女の子となんか滅多に話さないし、ましてやナンパなんかしたことあるわけがない。まゆこを取り巻いていた女子どもが消えたのは幸いだが、どうしたら良いのか。俺はバッグから数学の教科書を取り出し、公式を端からあさったが、声をかけるすべは見つからなかった。街灯がまゆこを照らす。
「ひ、久地さん……。」
振り向いた彼女の瞳は俺の心臓を爆破した。
「ひ、家、巣鴨、なんだよね?」
まゆこはわずかに首を傾げながら、
「そうよ。」
まゆこの声は、少しハスキー気味だが、はっきりしていた。
「俺、西巣鴨。その、あれだ。あの、一緒に帰らない、かい?」
俺は手汗をかき過ぎて、手のひらから東北の方まで水が噴射した。
「いいわよ。」
緊張と興奮と、大きな大きな安堵で、俺の手汗はついに福島第一原発のメルトダウンを食い止めた。
一歩、二歩、……。
「あの、久地さん。」
「まゆこでいいわ。」
俺は緊張しすぎて心臓が口から飛び出した。
「じゃあ、あの、まゆこさん。」
前から走ってくる自転車のライトは壊れてカチカチしていた。
「なぁに?」
まゆこのその一言には、「よくできました」が隠れているように思えた。
「まゆこさん、歩きで帰るの?」
「ううん。荷物が大きいから、電車で。」
まゆこは左手に持っているワニを指差した。
「そうだよね。ワニ重いもんね。」
さっきも随分ワニっぽいラケットを使っているな、と思ったが。本当にワニだったのか。
「ワニ、持とうか?」
「ううん。噛むかもしれないから。」
駅までの道のり。あれ以降「寒いね」を連呼しただけだった。ここらでいいところを見せねば。この時間の新板橋駅は混んでいる。俺とまゆこは人のプールを泳ぐように前へ進んだ。途中、手を繋ぐチャンスではと思ったが、理想の対義語は現実だった。
「ワニ、だめですよ。ワニ。」
駆け寄ってきた駅員に俺は大外刈りをかけた。うまく決まらなかったが、通りかかったサラリーマンが「技あり」と旗をあげたので、駅員も観念して乗車させてくれた。
「俺、実はユーキャンの通信教育で柔道四級の資格をとったんだ。」
「すごい。岳くん素敵!」
しかし、それ以降は話題に困り、沈黙が続いた。混んでいるものの、三田線は静かで、たまにワニが乗客に噛みついて悲鳴が聞こえるくらいだ。困った末に、この話をすることにした。
「極端に密着されると攻撃できないんだよ。」
まゆこは一度きょとんとしたが、「そうでしょうね。」と元気に言った。
新板橋から巣鴨までは二駅。短い乗車時間に助けられたものの、駅からまゆこ宅まで間がもつか。俺の頭の中はぐるんぐるんした。
「家、駅から。」
「駅から近いよ。」
俺は胸をなでおろした。一度間違えてまゆこの胸をなでおろしそうになったが、あと一歩のところで我にかえった。
まゆこの家は本当に駅から近かった。信号を渡ってすぐだった。しかし、まゆこ宅の問題は駅からの距離なんて、そんな甘っちょろいものではなかった。
[久地組]
和造りの大きな家の屋根が木造の門越しに見えた。家と同じくらいの高さの松の木も見えた。
「松の木ある家とか、俺はじめて見たわ。」
まゆこは。