02.過ぎた力
「痛っ」
土岐泡照は頭頂部に走った小さな痛みに顔をしかめた。
何か当たったのかと思い、頭をさすってみるが自分の頭髪以外に何の感触もない。こぶも傷もできてはいないことに安堵する。
繁華街の一角。あたりは二次会三次会に繰り出そうとしている酔っぱらいたちや風俗店の客引きによる猥雑な喧噪で満ちている。まだ中学三年生でしかない彼のような少年が歩くには、場所も時間もあまりに異質だった。
「けど、どうせ帰ったって塾の学力テストの結果を聞かれるだけだし」
あてもなく歩きながら、呟く。両親は自分ではなく自分の内申点とテストの点数と進学先にしか興味がないのだ。泡照はそう思っている。
中学三年生。高校受験を控えた受験生様。学歴社会は過去の話とはいえ、いい所を出ていて損はない。そう言う両親により市内でも指折りの進学塾に通わせられていたが、泡照の成績は今一つ伸び悩んでいた。そのせいで今のところ志望校にはわずかに届かない。彼の住む地域は高校のレベルが大きく二極化しており、"下"の方は絵に描いたような不良校の見本市である。一つ落とせば不良たちの楽園逝きへの切符を手にすることになるのは確実。そうなれば、恐らくは家にも学校にも居場所はないだろう。
本来ならこんな所であぶらを売っている場合ではなく、家に帰ってまた勉強なり何なりするべきかもしれない。そんな焦りと、それに反する目の前の現実から逃避したい気持ちとが、彼の家路につく足を鈍らせていた。
街の外れまで来てしまった。時間ももう大分遅い。今から帰れば、家に着く頃には親たちももう寝静まっているだろうか。そんなことを考え始めたその時、すぐ近くから悲鳴が聞こえた。
(誰か! 助けて!)
自分とそう歳が変わらないと思われる女子の声。彼の脳内に警告が響きわたる。絶対に関わってはいけない。目を伏せて何も気づいていないようにして通り過ぎろ。しかしこの声、どこかで聞いたような。
そう思い、つい顔をあげてしまった瞬間、泡照はそのことを激しく後悔する。
目が、あってしまった。同じクラスの女子。和灸利亜。何でこんな時間に?
そんなことを考えている間に、数人の男たちに口を塞がれ、羽交い締めにされたまま奥に停めてあるワゴン車へと連れ込まれようとしている彼女は、懇願する目で強く強く泡照を見つめる。
男は三人。いずれも大学生くらい。茶髪。ピアス。チェーン。無駄にゴツい指輪や時計。テンプレ過ぎる。考えなくてもわかる。自分一人でどうにかなるわけがない。
助けを呼ぶ? こんな時に限って周囲から人が消えている。その前に歯がガチガチ鳴るばかりで声がでない。なら何とか彼女を助ける? 腰がひけるばかりで前に進めない。それならいっそ逃げ出す? 足が震えるばかりでこの場を離れることすらできない。
どうしようもなく、泡照は震え上がっていた。失禁していないのが奇跡と言えるほどに。
和灸利亜は為す術もなく車の中へと押し込まれていく。男の中の一人が泡照に気づき、下卑た笑みを浮かべた。
「何だお前? こいつの彼氏か何かか? ……って、ギャハハハっ! おいおい見ろよ! 泣いてるぜコイツ!」
「へへへ、……おいお前ら、先に行っててくれや。俺はこいつで楽しんでから行くわ」
「なんだそりゃ。女よりも暴力か。野蛮だね~。物好きだね~」
「知ってんだろ? 俺、女にブチ込むのも好きだけどこういうガキにねじ込むのはもっと好きなんだわ」
「ま・じ・で。おいおい性に自由過ぎんだろ。ひくわ~……。ま、程々に楽しんできてくれや」
とりわけ体格のいい男が一人、卑猥な手つきをしながら泡照へと近づいていく。身長は190近くあるだろうか。横幅も広いせいか、それ以上に大きく見える。
「へへへ……いい声で愉しませてくれよな」
男は泡照をうつ伏せに押さえつけようと右手を伸ばす。
……やられる?
「うわあああああああっ!」
泡照は夢中で男の手を振り払った。
これから起きるであろう恐怖に縮みあがりながら固く目をつぶる。
「……」
しかし何も起こらない。
恐る恐る目を開けると、ポカンとした顔で自らの右腕を眺める男の顔が見えた。
その男の視線を追うと、本来の可動域から真逆に90度折れ曲がった男の右腕が目に入った。
泡照の脳が現在の状況を理解しようと再起動を始めた瞬間、男の絶叫が響きわたった。
「う……! があああっ! ……て、てんめぇ、何しやがった!? それに何だよ、そのイカれた格好はよぉっ!?」
「……え!?」
言われて気づく。いつの間にか泡照の全身は黒と朱の斑模様で彩られた、全身スーツのようなもので覆われていた。自分の身体のあちこちを触ってみると、顔は硬い鋭角的なマスクに包まれ、額のあたりからは一角獣のような角がせり出していた。
自分の身体に何が起こったのか? 泡照がそれを考える間もなく男は再び動き出す。
「ハアッハアッ……! 痛え! 痛えよ!! な、ナめやがって。もう一発で済むと思うなよ……」
男は残った左腕を乱暴に突き出し、ダンプカーを彷彿とさせられる勢いで突進を始めた。
「ガっバガバにしてやるぜぁあああああっ!」
いや、その前に病院に行けよ。そうツッこめる人間はこの場にはいない。そしてこの言葉が、男がこの世で発した最期の言葉となった。
猛然と襲いかかってきているはずの男の動きが妙に緩慢に見える。泡照は戸惑いながら右手で男の左腕も振り払った。
ゆっくりと体勢を崩す男を見て、ふと「これはチャンスなんじゃないか?」という考えが頭をよぎる。その時既に、身体は次の動きを始めていた。
振り払った勢いをそのままに、弧を描いて自らの左拳を相手の腹めがけて叩き込む。泡照の利き手は右なのだが、それでも風船を破裂させ損なったようなくぐもった音が鳴り、100kgは軽く超えるであろう男の身体が一瞬宙に浮き上がった。
男は着地する。しかし彼の両足は一分の力も入らない。膝、次に鼻と口からこぼれ落ちた涎と血が地面に到達する。前のめりに倒れようとする体を無意識に両手で支えようとするが、既にその両腕は破壊されている。
血走った眼をこぼれ落ちそうなほどに見開きながら、めり込むように顔面から地べたに突っ込み、二、三度痙攣した後、男は動かなくなった。
「あ……」
泡照が我に返ったとき、既に残りの男たちや和灸利亜の姿はなく、その場に動くものは、最早誰もいなかった。
(続く)