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“毒草いじり”と薬師令嬢を追い出した町は、ふた月で“疫病”に呑まれた。だが——それは、病ではなかった

作者: 相川ことね
掲載日:2026/07/14

 さじ一杯で人を殺せるものがある。同じ匙一杯で人を生かせるものもある。たいてい、それは同じ草だ。


 だから薬師は匙をあやまってはいけない。それが、リーゼロッテ・ヴェルデが師から教わったたった一つの掟だった。


 その掟を、プレルの町の誰も知らなかった。知らないまま、彼らは彼女を「毒草いじりの出来損ない」と呼んでいた。


 その朝もリーゼは町の広場の井戸端で、苦い炭の束をそっと水の中へ沈めていた。


「あら、モコ。だめですわよ、まだ舐めては」


 足もとで飼いイタチのモコが井戸の縁に前足をかけて、鼻をひくつかせている。この子は毒にさとい。危ない水には決して口をつけない。そのモコが今朝は、いつもより長く鼻を鳴らして、水面から一歩あとずさった。


「……あなたも、そう思って?」


 リーゼは汲み口の水をひと匙、舌の先に乗せた。ぴりり、と唇の裏がしびれる。ほんのわずか。けれど確かに。


 いや——ほんのわずか、とはもう言えない。この半月ほど、舌に乗る痺れが日ごとに濃くなっている。


(今朝は、昨日よりまた強いですわね。……まるで誰かが、匙を増やしているみたいに)


 その考えを、リーゼは一度そっと脇へ置いた。炭の束がそれを吸ってくれる。だから町の人は朝いちばんの水を汲んでも、少し気だるいだけで済んでいる。誰もそのからくりに気づかない。気づかないまま、彼女の毎朝を「変わり者の奇行」とわらっていた。


「——リーゼ! こんな朝っぱらから、また井戸に草を放り込んでいるのか」


 声の主は婚約者のダミアン・ボルツだった。ボルツ商会の跡取りで、この町の薬と交易を握る家の坊ちゃんだ。今日はやけに立派な上着を着て、後ろに町医者のヴァレンス老を従えている。


「おはようございます、ダミアン様。ええ、いつもの手入れですわ」

「手入れ? 井戸に炭くずを混ぜるのが手入れだと。ヴァレンス先生も呆れておられる」


 ヴァレンス老がしわの寄った顔で穏やかに微笑んだ。


「お嬢さん。町の水は私が毎日診ております。何も案じることはありませんよ」

「先生。案じているのではなく、申し上げているのです。この井戸の水には毒が混じっています」


 リーゼは炭の束を引き上げて、指の先で軽く絞ってみせた。黒く濁った雫が指を伝って落ちる。


「熱の出る病なら水を替えれば済みます。けれどこれは違う。舐めると唇が痺れる。この痺れ方をわたくしは一つしか知りませんの。……病ではなく毒です」


 その一言で、穏やかだったヴァレンス老の手が、すっと伸びた。


 老医はリーゼの手から炭の束をつかみ取ると、井戸の外へ放った。濡れた炭が石畳に落ちて、黒い染みを広げる。


「およしなさい」


 声はまだ柔らかい。けれど、目の奥は笑っていなかった。


「毒などと、滅多なことを口にするものではありません。町の者が無用に怯えます。……いいですか、お嬢さん。二度とこの井戸に、妙なものを入れてはいけませんよ」


 リーゼは石畳の黒い染みを見下ろした。町の水を毎日診ていると言う老医が、たかが炭ひと束に、なぜここまで。


(……先生。あなた、いま、ずいぶんとむきになりましたわね)


「またその話か」


 ダミアンが、聞くのも面倒だという顔で手を振った。


「毒だ毒だと騒いで、自分の薬を高く売りつけたいだけだろう。まったく、これだから毒草いじりは」

「売りつけたいなら、もっと愛想よくいたしますわ。……お代はこの三月みつき、いただいておりませんもの」


 軽く言い返すと、ダミアンの丸い顔が赤くなった。図星だったらしい。彼の父の商会はリーゼの薬を仕入れるだけ仕入れて、代金をずっと踏み倒している。踏み倒したうえで彼女を「金の亡者」と呼ぶ。ずいぶんと器用なことだ。


(まったく、やってられませんわね)


 腹は立つ。けれど悲しくはならない。悲しんでいる暇があったら、もう一束、炭を仕込んだほうがいい。


「もういい」


 ダミアンが懐から一枚の紙を出して、井戸の縁に叩きつけるように置いた。婚約の解消状だった。


 いつのまにか、井戸端には水汲みの女房たちが集まっていた。誰も止めはしない。ただ、袖で口もとを隠して、くすくすと笑っている。毒草いじりの令嬢が、とうとう商会の坊ちゃんに捨てられる——退屈な町の朝には、ちょうどいい見世物だった。


「今日はそれを渡しに来た。おまえとの縁談は、なかったことにする」


 リーゼは瞬きをした。モコが警戒するように彼女の足へ身を寄せる。


「……理由を伺っても?」

「薬なんぞ、町医者で十分だからだ」


 ダミアンは胸を張った。集まった女房たちに聞かせるように、わざと声を張り上げて。


「うちの商会に毒草の匂いをさせる女はいらん。ヴァレンス先生がいれば町の病は診てもらえる。おまえの高い薬も、汚い薬草園も、もう用済みだ」


 どっと、遠慮のない笑いが起きた。リーゼの頬が、かっと熱くなる。恥ずかしいからではない。この人たちは、自分が毎朝この井戸で何をしていたか、何ひとつ知らないまま笑っている。それが、無性に腹立たしかった。


「……用済み、ですか」

「ああ。それから、おまえの父上の借金だがな」


 その一言で、リーゼは自分の逃げ場が塞がれたのを悟った。


 彼女の父ヴェルデ男爵は、ボルツ商会に頭が上がらない。娘を切るか、借金を切るか。父はきっと前者を選ぶ。いや、もう選んだあとだ。だからダミアンはこんなに晴れやかな顔で、朝から解消状を持ってこられる。


「男爵様は承知しておられる。おまえは今日中にこの町を出ろ。薬草園は明日にでもならして更地にする」


 あの庭を。


 七年かけて、リーゼが一本ずつ植えた庭だった。熱を下げる柳を植えた夜は、細い雨が降っていた。師の覚え書きにあった甘草の芽が土を割った朝は、嬉しくて夜明けまで眠れなかった。どの草がどの月に花をつけ、どの根が毒にも薬にもなるか。一晩ずつ書き足した覚え書きが、あの庭の土の下には眠っている。それを、明日、均して更地にする、と。


 リーゼはゆっくりと息を吸った。


(……ああ、腹が立ちますわね。本当に、心の底から)


 けれど、ここで泣いてやる義理もない。泣いたところで庭は戻らない。それより先に、しなければならないことがある。


「わかりました。出ていきます」


 リーゼは解消状を拾って丁寧に畳んだ。それから、まっすぐにヴァレンス老を見た。


「先生。わたくしがいなくなったら、どうか毎朝この井戸に炭の束を。ひと束でいいのです。夜明けに沈めて、昼前に引き上げてくださいまし。……お願いします」

「はいはい。わかりましたよ、お嬢さん」


 老医は子どもをあやすように頷いた。その頷きが何ひとつ本気でないことを、リーゼは知っていた。知っていて、それでも頼まずにはいられなかった。


 彼女は炭の束を最後にもう一度だけ井戸へ沈めた。汲み口の水を舐めて痺れを確かめてから、モコを肩に乗せて歩き出した。


 町を出る道は、ヴェルデの館の前を通る。門のところに、父が立っていた。娘と目が合うと、父は何か言いかけて——結局、何も言わず、そっと門扉を閉めた。借金を取るか、娘を取るか。もう、選び終えた顔だった。


 リーゼは足を止めなかった。頭を下げる代わりに、肩のモコを一度だけ撫でて、そのまま通り過ぎた。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、たぶん、あの庭に足が向いてしまうから。




 プレルを出て川沿いを下ると、三日で下流の寒村に着いた。


 噂はそこにも届いていた。上流のプレルで「疫病」が出はじめている、という噂だ。熱にうかされ、手足が痺れて動けなくなり、幾人かが冷たくなった。だから病人は村はずれの隔離小屋に集められていた。


 もうひとつ、妙な噂もついてきた。上流のボルツ商会が、その疫病に効くという「特効薬」を、法外な値で町の者に売り歩いている、というのだ。聞き覚えのある名に、リーゼは小さく息をついた。病を金に換える手際のよさだけは、いっそ見事なものだった。あの家らしい、と思う。……その見事な商いが、いつか自分の足をすくうとも知らずに。


 小屋の戸口で薬箱を下ろしたリーゼを、痩せた若い医師が振り返った。黒髪に灰青の目。よれた外套の下に、この村には不釣り合いなほど上等な麻のシャツが覗いている。


「……薬売りなら間に合っている。ここには金にならん病人しかいない」

「あら。薬売りではなく薬師ですわ。それに、金の話はしていません」


 リーゼはにっこりして薬箱を開けた。中の小瓶が朝日にきらりと並ぶ。


「手が足りていないのでしょう? わたくし、これでも人手のうちには入ると思いますの」


 医師は少しのあいだ彼女を見ていた。それから、疲れた顔で戸を大きく開けた。


「……アルヴィスだ。姓はない。好きにしろ」

「リーゼと申します。よろしく、アル先生」


 小屋の中はひどい有様だった。むしろの上に大人も子どもも並んで横たわっている。誰もが青い顔で浅く速い息をしていた。奥のほうで、小さな女の子が母親らしい人の手を握って眠っていた。


「あの子は?」

「ネルだ。四つになる。……昨日から水も飲めない」


 アルヴィスの声が、そこだけ低くなった。この人は金にならない病人しかいないと言った。けれど、この人の目はその病人のひとりひとりを、ちゃんと覚えている。


 リーゼの肩から、モコがするりと下りた。筵のあいだを縫って、部屋の隅の水甕みずがめのそばまで行く。そして甕の水にちょっと鼻を寄せると、耳をぺたりと伏せて、ぴょんと後ろへ跳びのいた。


「……あら」


 リーゼの目が、すっと細くなった。この子が水をここまで嫌うときは、決まってその水に毒があるときだ。


 彼女はいったん考えを胸にしまい、亡くなったばかりだという老人の枕元に膝をついて静かに手を合わせた。しばらく、そうしていた。


「……祈っても病は治らんぞ」


 背中でアルヴィスの声がした。皮肉ではなく、疲れた本音のように聞こえた。


「ええ。祈りでは治りません」


 リーゼは顔を上げた。


「でも、送るくらいはしてさしあげたいのです。この方はもう治すことができませんもの。……それに」


 彼女は老人の唇に目をやった。乾いた唇の端が、うっすらと痺れの色を残している。


「祈っているあいだに、この方が何で亡くなったのか、教えてもらえますから」


 アルヴィスの眉がわずかに動いた。この娘は妙なことを言う、という顔だった。


 ——けれどそのとき、彼はまだ彼女の腕のことなど何も知らなかった。ただ、死んだ老人にきちんと手を合わせ、それでいて背筋を伸ばしてよく笑うこの娘の在り方を、少しだけ眩しく見ていた。それだけだった。




「アル先生。この方たちは疫病ではありません」


 その日の夕方、ひととおり患者を診て回ったリーゼは、井戸端で手を洗いながらはっきりと言った。


 アルヴィスが桶を持つ手を止めた。


「……何を言っている。熱にうかされ、痺れて動けなくなる。立派な疫病だろう」

「熱に、うかされていますか?」


 リーゼは濡れた手を布で拭きながら、指を一本ずつ折ってみせた。


「奥のご老人もネルちゃんも、額に手を当ててごらんなさいまし。熱くありません。むしろ冷たいくらいです。疫病ならまず熱が出て、体が腫れて、汗が噴きます。けれどこの方たちは熱がなく、腫れもなく、痺れから始まっている」


「……確かに、熱は高くない。だが」

「痺れはどこから来ましたか。唇と舌。それから手足の先。次に脈が遅くなって冷たい汗。最後に吐く。……この順番で人を弱らせる毒を、わたくし一つしか知りませんの」


 リーゼは薬箱の底から、押し花にした青紫の花を取り出した。兜のような形の美しい花だった。


鳥兜とりかぶと。根に強い毒を持つ草です。ほんの少しなら痛み止めにも使えますけれど、匙を過てば人を殺します。……唇の痺れは、その毒の顔ですわ」


 アルヴィスは押し花とリーゼの顔を交互に見た。


「毒だと言うのか。この病が、全部」

「病ではなく毒です。それも、水に混じっている。だから同じ水を飲んだ者から順に倒れているのです。さっきモコが、甕の水をひどく嫌がりました。あの子の鼻は、わたくしの舌より正直ですのよ」


 アルヴィスはしばらく黙っていた。それから、低く尋ねた。


「……その毒は、どこから来る」

「この村の水も、上流から引いているのでしょう?」

「ああ。川と、上流の泉からだ」

「では、そこですわ。誰かが上流で、水に毒を流している」


 言いながら、リーゼの胸の奥が、すうっと冷たくなった。


 上流。上流の泉。その水が水路を下って、まず注ぐ町。


 ——プレル。あの、明けの井戸。


 けれど、その悟りに立ち止まっている暇は、いまのリーゼにはなかった。目の前の小屋には、いま倒れている人がいる。ネルの浅い息が、いまも続いている。


「アル先生。まずここの患者に炭を飲ませます。焼いた木の粉を、水で溶いて。毒をこれ以上、体に吸わせないために。それから、飲み水を替えます」

「……できるのか。そんなことで」

「できます。わたくし、これでも人手のうちには入るのでしょう?」


 その夜から、リーゼの戦いが始まった。


 一日が、三日になった。三日が、十日になった。


 村の桜が咲いて、散った。次に川辺の柳が芽吹く頃には、リーゼの指はいっそう薬草の汁で染まり、目の下には薄い隈ができていた。それでも彼女は、朝いちばんに笑った。


「アル先生。今日のネルちゃん、昨日より脈が力強いですわ。……ああ、それと」


 リーゼは炭を溶く手を止めて、ふと真面目な顔になった。


「白状しますと、さっきから、お腹が鳴っておりますの。看病の合間に、粥を一杯いただいてもよろしいかしら。薬師が行き倒れては、笑い話にもなりませんもの」


 アルヴィスは、ふ、と息を吐いた。この頃、彼はよく息だけで笑うようになっていた。


 次の朝、リーゼが目を覚ますと、枕元に湯気の立つ粥の椀がひとつ置いてあった。誰が置いたかは、聞くまでもなかった。


 村へは、上流の噂が絶えず流れてきた。


 プレルの「疫病」は、日ごとにひどくなっているという。そして——下流で耳にしたあの噂も、ますます性質の悪いものになっていた。ボルツ商会の「疫病の特効薬」は、いよいよ値を吊り上げ、弱った町の者ほど高く買わされている、というのだ。


「特効薬、ですって」


 噂を運んできた行商人に、リーゼは思わず眉をひそめた。


「病でもないものに効く薬なんて、この世にありませんわ。あの方……いえ、あの商会は、人が弱っているときにまで匙を過つのね」


 言ってから、ふ、と息をつく。腹は立つ。けれど、いまはそれどころではない。


 柳が青葉を茂らせ、川面に夏の光が跳ねる頃には、下流の小屋の患者は、あらかた峠を越えていた。リーゼの炭が、間に合ったのだ。


 けれど、上流のプレルは違った。


「アル先生。上流は、いま何人倒れていますか」

「……行商人の話では、ふた月で、もう二十人を超えたそうだ」


 二十人。リーゼは目を閉じた。


 それは、彼女が町を出てから増えつづけた数だった。


 なぜ、と彼女は考える。


 下流のこの村も、同じ上流の毒水を飲んでいる。なのに、ここでは炭が間に合い、上流のプレルでは桁違いに人が死ぬ。同じ毒で、なぜこんなに違うのか。


 答えは、ひとつしかなかった。


 プレルには、毎朝あの毒を吸う炭があった。彼女が七年、ひとりで沈めつづけた炭が。町の人が奇行と嗤ったあの束こそが、唯一の防波堤だったのだ。彼女が去り、炭が絶えた。ヴァレンス老は頷いただけで、決して沈めはしない。


 そこへ、あの痺れ。町を出る朝まで、日ごとに濃くなっていたあの痺れ。誰かが、毒を増やしていた。彼女の炭が吸える限りを、少しずつ超えて。


 防波堤が消え、水嵩だけが増したのだ。だから町は、ふた月かけて緩やかに、けれど確かに毒へ呑まれていった。


(……わたくしが、いなくなったから)


 リーゼは目を開けた。もう、水源のことも、犯人のことも、頭のなかで一本に繋がっていた。


「アル先生。毒を流しているのが、誰か分かりましたわ」


 アルヴィスが顔を上げた。


「毒は、上流の泉に流されていますの」


 リーゼは、指を折りはじめた。


「あの泉へ毎日通えて、それでいて誰にも怪しまれない者。『水は自分が毎日診ている』と町じゅうに信じ込ませていられる立場。鳥兜が少しなら痛み止めになると、処方まで知っている手」


 最後に、彼女はもう一本、指を折った。


「そして——わたくしが井戸に沈めたたった一束の炭に、なぜかむきになって、『二度と妙なものを入れるな』と、あの朝わたくしの言葉を握り潰した人」


 リーゼの声が、静かに落ちた。


「その全部に当てはまる方は、この町にただひとり。……町医者の、ヴァレンス先生。あなたですわ」


 アルヴィスは、しばらく彼女を見つめていた。


「……戻るのか。その男を止めに」

「ええ。毒の泉を止めないと、何人助けても、また倒れます。ネルちゃんのような子が、何度でも」


 リーゼは薬箱を閉じた。アルヴィスはしばらく彼女を見ていたが、やがて外套を羽織った。


「……先に、俺が行く」

「アル先生?」

「上流を止めるには、俺にできることがある。少しだけ、道を借りるだけだ。……お前より早く、ある所へ文を届けたい」


 彼の灰青の目が、いつになく鋭かった。リーゼはその目の奥に、ふと、隠された何かを見た気がした。けれど、問わなかった。


「わかりました。では、プレルの井戸端で落ち合いましょう。……無茶は、なさらないで」

「それは、お前が言うのか」


 アルヴィスがかすかに笑って、先に小屋を出ていった。




 プレルに戻ると、町は死の匂いがしていた。


 広場には白い布をかけた戸板がいくつも並び、家々の戸は固く閉ざされている。町の入り口には隣領の兵が立って、「疫病発生につき封鎖」の立て札を掲げていた。


(封鎖……)


 リーゼは立て札を見上げて唇を噛んだ。疫病の町として封じられれば、プレルは終わる。人も物も出入りできず、交易は死に、やがて町ごと隣の辺境伯領に呑まれる。そういう筋書きだ。


 彼女は兵の目を盗んで裏の水路から町へ入り、まっすぐ明けの井戸へ向かった。


 井戸端には先客がいた。ヴァレンス老だった。震える手で井戸を覗き込んでいる。


「先生」

「……お嬢さん。戻ってこられたのか」


 老医の顔は、この二月ふたつきで十も歳を取ったように見えた。


「先生。井戸に毒を入れているのは、あなたですね」


 リーゼはまっすぐに言った。責める声ではなかった。ただ、確かめる声だった。


 ヴァレンス老は否定しなかった。震える手で懐から小さな包みを出した。中には黒く干からびた鳥兜の根が入っていた。


「……いつから、気づいていた」

「町を出る、ずっと前から。汲み口の水が、日に日に痺れましたもの。……それに先生、あなたが、わたくしの炭ひと束にあんなにむきになったときから」

「そうか。あなたには、隠せなかったな」


 老医は力なく笑った。


「なぜ、こんなことを。先生はこの町の人を、誰より診てきたのに」

「診てきたからだよ」


 ヴァレンスの声は震えていたが、芯があった。


「プレルは豊かすぎた。豊かな町は狙われる。隣の辺境伯は、この川港が喉から手が出るほど欲しい。……あと一年もすれば、若い衆は割の合わぬ戦へ徴発され、女子どもは併合された領で搾り取られる。私はそれを、他の町で幾度も見てきた」


 彼は干からびた根を握りしめた。


「病がちで、貧しくて、誰も欲しがらない町。そういう町だけが、戦火の外で生き残る。……だから私はこの町を、少しだけ病にした。少しの痺れでみなを守れるなら、と」


 その手のなかの根へ、彼はもう一度目を落とした。


「あなたの師の……ハンナの覚え書きにも、あったはずだ。鳥兜は、匙ひとつで薬にも毒にもなる、と」


 リーゼの指が、わずかに強張った。


「……先生は、師をご存じで」

「同じ流儀を学んだ、後輩でね。あの人が生きていたら、私を張り倒しただろうな。『匙を過つな』と」


 その名が、リーゼの胸の古い傷を静かに撫でた。師ハンナも“毒”で死んだのに、皆が“老いの病”と信じて疑わなかった。毒だと訴えたのは、リーゼひとりだった。真実を握り潰される痛みなら、彼女は誰より知っている。だからこそ——握り潰す側へ回ったこの老医の弱さも、ほんの少しだけ分かってしまった。


「少しの痺れ、と先生はおっしゃいました。けれど先生。あなたの毒は、少しでは済んでおりませんでしたわ」

「……済んでいた、はずだ。効きが鈍いから、匙を過つまいと、少しずつしか増やさなかった。それでも町の者はみな、軽い病で済んでいた。なのに」


 老医の声が崩れた。


「なぜ、いま、こんなに死ぬ」


 リーゼは井戸の縁にそっと手を置いた。


「わたくしが毎朝、炭を沈めていたからです」


 ヴァレンスが顔を上げた。


「あなたの毒を、わたくしの炭が吸っていました。だから町は、軽い病で済んでいた。……先生はそれを『町が毒に慣れたのだ』と思われたのでしょう。効かない、匙が足りないと勘違いして、少しずつ量を増やしていった」

「……ま、さか」

「あなたが匙を増やすほど、わたくしは炭を増やして吸っていました。二人で逆のことをしていたのです。あなたは知らずに、わたくしも知らずに。……そうして水嵩ばかりが増したところへ、わたくしが町を出て、炭が絶えた。防波堤の消えた濃い毒が、そのまま、みなの喉へ届くようになったのです」


 ヴァレンス老は井戸の縁にすがるように膝をついた。


「私が……私が増やした毒が。あの子らを」

「ええ」


 リーゼは残酷なことを、静かに言った。誤魔化さなかった。誤魔化すことは、死んだ人への侮辱だと思ったから。


 ——そのとき。


「先生! 大変だ、若旦那が!」


 町の男が青い顔で駆け込んできた。


「ボルツの若旦那が、広場で倒れて……!」




 広場では、ダミアンが地面に転がって痙攣けいれんしていた。傍らには、割れた薬瓶が散らばっている。ボルツ商会の「疫病特効薬」と書かれた札のついた瓶だ。


 そばで腰を抜かした女房が、震えながらリーゼへ訴えた。


「わ、若旦那が……『この特効薬さえあれば、井戸の水も怖くない』と、みなの前で見せびらかして……。それで、瓶の薬を、井戸の水で、何本もあおって……!」


 病に効くと信じた薬を、毒の水で流し込んだのだ。効くはずがない。それどころか、いちばん濃い毒を自分から胃へ流し込んだことになる。


「く、口が……痺れて……効かない、なぜ効かないんだ……!」


 リーゼは、痙攣する男を見下ろした。かつて婚約者だった、あの方。ほんの一瞬、胸に苦いものがよぎった。けれど、それだけだった。


「ダミアン様。あなたの薬は、疫病には効きます。けれど、これは疫病ではありません。毒です。……あなたが『町医者で十分』とおっしゃった、その町医者が井戸に盛った毒ですわ」

「な……」

「炭を飲みなさいまし。命だけは、拾えます」


 リーゼは薬箱から炭の包みを出して、彼の口へ押し込んだ。助けたのは情ではなかった。ただ、目の前で人が死ぬのを薬師として見過ごせなかっただけだ。


 ダミアンは炭にむせながら、初めて彼女の顔をまともに見た。


「おまえ……本当に、毒だと言っていたのか。あのとき」

「ずっと前から、言っておりましたわ」


 彼の顔が、ぐしゃりと歪んだ。値切りつづけた腕の値が、いま彼自身の痺れた舌の上で、はっきりと目方を持ったのだ。


 そのとき、広場にひづめの音が響いた。


 馬を駆ってきたのはアルヴィスだった。よれた外套は同じだ。けれど、その後ろに王家の紋章を掲げた騎士が数騎続いていた。封鎖の兵たちが、あわてて膝をつく。


「アル、先生……?」


 リーゼが呼ぶと、アルヴィスは馬を下りて彼女の隣に立った。そして懐から一枚の徽章きしょうを出して、皺を伸ばすようにそっと胸に留めた。金の縁取りに、双頭の鷲。


「……黙っていて、すまなかった」


 彼は少し困ったように笑った。


「第二王子だ。……毒だと報告して、握り潰された。それだけの男さ」


 その短い一言の裏に、リーゼは多くのものを読み取った。“流行り病”で死んだと報された王弟。それを「毒だ」と告げて、誰にも信じてもらえず、名を捨てて市井へ下りた人。——それは、彼女の傷と同じ形をしていた。師を毒で亡くし、毒だと訴えて笑われた、あの傷と。


「……アル様も、笑われたのですね。わたくしと、同じで」

「ああ。だから、あの小屋で老人に手を合わせるお前を見て——」


 彼はそこで言葉を切った。全部は言わなかった。言わなくても、リーゼには届いた。


 アルヴィスはヴァレンス老へ向き直った。


「町医者。あなたの罪は、暴かれた」


 彼の声は静かで、いつもより少しだけ、低かった。


「だが、ひとつだけ言っておく。……あなたが恐れた徴発も、併合も、もう起きない。この川港は、王家が直に守る。辺境伯には手出しをさせない」


「——そのために、俺は捨てたはずの名の座へ、もう一度戻る」


 さらりと言った。けれど、名を捨てて逃げた場所へ自分から帰るのが、どれだけの覚悟か。この救いのために彼が払うものを、リーゼは、その横顔から静かに読み取った。誰かに贈られた奇跡ではない。彼が、選んだのだ。


 彼は、握られた干からびた根へ、ちらと目をやった。


「あなたが毒で守ろうとした町は、俺が守る。今度は、毒はいらない。……それを、これからやる。ただ、それだけだ」


 ヴァレンス老の顔から、ゆっくりと力が抜けていった。


 彼がこの二月、震える手で毒を盛りつづけた理由。町を呑もうとする「上位の力」への恐れ。その力がいま、町を守るために現れた。彼の罪の、その前提そのものが崩れ落ちたのだった。


「……私は」


 老医は井戸端に手をついたまま、呟いた。


「私は、匙を過ったのだな」


「ええ」


 リーゼは彼の傍らに膝をついた。責めるのでも、許すのでもなく、ただ隣に。


「先生。あなたが町を守りたかったこと、それは嘘ではないと思います。……だから、あなたの守りたかったものは、わたくしが引き受けます。今度は、毒ではなく、薬で」


 ヴァレンス老は両手で顔を覆った。慕われた老医の震える背中を、朝の光が照らしていた。




 その日から、プレルの井戸は生き返った。


 リーゼは水源の泉を封じ、水路を洗い、倒れた者たちに炭を飲ませて回った。ひとり、またひとりと痺れが引いて、脈が戻っていった。ネルは隣村の小屋で、母親の膝に座って粥を食べているという。


 封鎖の立て札は外され、代わりに王家の旗が掲げられた。ヴァレンス老は自ら罪を認めて、王都へ送られた。彼が守ろうとした町の名を、最後まで口にしながら。


 ボルツ商会は、程なく解散した。“疫病特効薬”がただの高い水だったこと、そして毒の井戸を握り潰していたことが知れて、町の誰も二度と、その名の薬を買わなかった。跡取りのダミアンがその後どうなったかを、リーゼは知らない。ただ、更地にされるはずだった彼女の薬草園は、彼が均す前に町を出たおかげで、そのまま残っていた。荒れた庭の隅で、青紫の鳥兜がひっそりと兜を並べて咲いていた。


 リーゼはその庭を、また一本ずつ手入れしはじめた。足もとでは、モコが久しぶりの日向で、まるまると背を丸めて眠っている。もう、この子が嫌がる水の匂いは、どこにもしない。


「——ここに残るのか」


 垣根の向こうから、アルヴィスが顔を出した。王子の徽章は、また外套の下にしまってある。


「ええ。しばらくは。この庭を放ってはおけませんもの」


 リーゼは土を払って立ち上がり、それから、いたずらっぽく彼を見上げた。


「ところでアル様。第二王子ともあろうお方が、なぜまだ、こんな田舎の垣根から顔を出しておられるのかしら」

「……薬師の手伝いが、まだ足りていないと思ってね」

「あら。あなた、これでも人手のうちには入るとお思い?」

「入るように、努力する」


「……リーゼ」


 ふと、アルヴィスが名を呼んだ。「お前」でも「薬師」でもなく、初めて、名で。


 リーゼは一つ瞬いて、それから、思わず吹き出した。アルヴィスも、困ったように笑った。


 彼が惚れたのは、彼女の腕ではなかった。リーゼは、そのことを知っていた。彼は、彼女が国にひとりの薬師だと知る前からここにいた。死んだ老人に手を合わせる娘に、挫けずに笑う娘に惹かれた。ただ、それだけだった。


「アル様」


 リーゼは鳥兜の花を一輪、指の先でそっと撫でた。


「毒と薬を分けるのは、匙一杯なのですって。わたくしの師の口癖でしたわ。同じ草が匙の加減ひとつで、人を殺しもし生かしもする」


 アルヴィスは何も言わずに、彼女の隣へしゃがんだ。毒にも薬にもなる花を、二人で並んで見ていた。それ以上のことは、どちらも言わなかった。言わなくても、よかった。


 彼女は顔を上げて、朝の町を見た。旗の翻る、生き返った町を。井戸端では、女房たちがいつものように水を汲み、笑いさざめいている。あの朝、彼女を見世物にして笑った人たちだ。けれど、その水はもう、誰の舌も痺れさせない。それで、十分だった。


 風が庭を撫でていった。青紫の花がいっせいに、ちいさく揺れた。


 毒と薬を分けるのは、匙一杯。

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