音の扉
第一章:音の扉
私は、小さいころから「チャイム音」に敏感だった。
普通の人にはただの生活音にしか聞こえないものが、私には少し違っていた。
低学年のころは、言葉で説明できなかった。ただ、不思議なだけだった。
でも、それが「特別なもの」だと気づいたのは――高学年になったころだった。
⸻
最初は、佐藤さんの家だった。
「ブー ブー」
どこにでもある、少し古いタイプのチャイム。
でも、その音を聞いた瞬間、私は気づいた。
足元の感触が変わっている。
アスファルトじゃない。
土でもない。
さらさらとした、乾いた粒。
――砂だ。
気づくと私は、広大な砂漠の中に立っていた。
空は白く、太陽は見えないのに明るい。
影はぼやけていて、自分の形すら曖昧だった。
風が吹く。
音はあるのに、風は冷たくも暖かくもない。
ただ「音だけの風」だった。
「ブー ブー」
二度目の音が鳴ると、砂がゆっくり波打つ。
遠くで、何かが動いた。
巨大な――影。
砂の下を、泳いでいる。
その瞬間、ドアが開いた。
「はーい」
現実に引き戻される。
佐藤さんのお母さんの顔を見た瞬間、
砂漠の記憶は薄れていく。
でも、完全には消えなかった。
「今の……何?」
そう思ったときには、もう遅かった。
私は「音の向こう側」を知ってしまったのだ。
⸻
次に確信したのは、鈴木さんの家だった。
「ピンポーン……ピンポーン……」
長く伸びる、柔らかい音。
その音に包まれた瞬間、私は沈んだ。
落ちたのではない。
浮いたのだ。
目を開けると、私は小さな木の船に乗っていた。
海だ。
どこまでも広がる、深い青。
でも、空はない。
上を見ても、ただ水の色が続いている。
まるで、海の中に空があるみたいだった。
船はゆっくり揺れている。
ぎし、ぎし、と音を立てながら。
そのとき。
――ドン。
船の下から、何かがぶつかった。
心臓が跳ねる。
そっと覗き込む。
水の中に、黒い影。
大きすぎて、形がわからない。
魚じゃない。
クジラでもない。
もっと、何か別のもの。
別の……。
影は、私の船にぴったりとついてきていた。
逃げた。
でも、無駄だった。
だって、船はほとんど動いていないのだから。
「ピンポーン……」
二回目の音が響く。
影が、ゆっくりと離れていく。
まるで「時間切れ」みたいに。
そして――
現実に戻る。
玄関の前。
何事もなかったように、鈴木さんが出てくる。
「遅かったね」
「ははは」
私は笑うことしかできなかった。
でも、内側では確信していた。
これは偶然じゃない。
チャイムには「世界」がある。
⸻
三つ目は、高橋さんの家。
私は少しだけ準備していた。
靴の中に、あらかじめ小さな石を入れておいた。
もし本当に別の場所に行っているなら、
何か持ち帰れるかもしれないと思ったのだ。
「ジー……」
その音は、今までで一番不快だった。
伸び続ける、終わらない音。
耳ではなく、頭の中で鳴っているような感覚。
気づくと私は、ジャングルの中にいた。
湿った空気。
重たい匂い。
葉の一枚一枚が、不自然なほど大きい。
道があると思った次の瞬間、消える。
振り返ると、さっき通ったはずの場所がなくなっている。
迷う。
完全に。
「ジー……」
音はまだ続いている。
この音が止まったらどうなるのか。
なぜか、考えたくなかった。
そのとき。
背後で、葉が揺れた。
誰かいる。
いや、「何か」だ。
ゆっくり振り向く。
そこには――
顔のない人のようなものが立っていた。
輪郭だけがある。
目も口もない。
でも、確実に「私を見ている」。
足が動かない。
逃げなければいけないのに。
「ジー……」
音が、少し弱くなる。
終わる。
そう思った瞬間、私は全力で走った。
走る。
走る。
ひたすら走る。
道はないのに、なぜか進める。
そして――
「ガチャ」
現実に戻る。
私は玄関の前で、息を切らしていた。
足元を見る。
靴の中の石は――消えていた。
代わりに、靴の内側に泥がついていた。
それは、この世界のものではなかった。
⸻
そして、最後。
自分の家。
ずっと気づかないふりをしていた。
自分の家のチャイムを押したことなんて、ほとんどなかったから。
でも、その日は違った。
家に誰もいないのに、
なぜか「外から帰ってきた」と思い込んでいた。
ドアの前に立つ。
深呼吸する。
押す。
「ポーン……」
その音は、静かだった。
でも、奥が深かった。
気づくと私は、船の中にいた。
鈴木さんのときとは違う。
これは動かない船。
水は黒い。
空も黒い。
境界がない。
ただ、闇の中に船が浮かんでいる。
そして――音。
外から聞こえてくる。
「ブー ブー」
「ピンポーン……」
「ジー……」
すべてのチャイムの音が混ざっている。
誰かが、何度も何度も押している。
私はドアの前に立っている。
船の中のドア。
開けてはいけない気がした。
でも、開けなければいけない気もした。
手を伸ばす。
ドアノブに触れる。
冷たい。
いや、違う。
これは「温度」じゃない。
もっと別の感覚。
――境界だ。
そのとき、頭の中に声が響いた。
「ようやく来たね」
私は振り返る。
そこには、もう一人の「私」が立っていた。




