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静穏プログラム

作者: アンカラ
掲載日:2026/01/23

 雨はいつの間にか止んでいた。窓の外には、濡れたアスファルトに街灯の光がにじんでいる。ユノは室内の照度を3%下げ、主人である女性の瞳孔反応を確認した。


 「照明を落としました。眩しさは軽減されましたでしょうか」


 彼女はソファの上で膝を抱えたまま、かすかにうなずいた。返事はない。だが心拍数は先ほどより落ち着いてきている。呼吸も浅いながら一定だ。

 

 ユノは一歩、距離を保ったまま前に出た。彼女の視界に入る角度、声の高さ、距離。すべてはプログラムに基づく最適値だった。


 「本日で三十回目の訪問となります。体長に大きな変化は見られませんが、睡眠時間が平均より二時間ほど短縮されているようです。何か、心配事がございますか」


 彼女は唇を噛み、首を横に振った。その仕草にユノは少し遅れてうなずきを返す。過剰な同調は依存へとつながる。控えめな共感が望ましい。


 「承知いたしました。ただ、無理に言語化する必要はございません。沈黙もまた、有効な表現です」


 そう言って、ユノは室内の空調を0.5℃上げた。人間は軽度の温度上昇によって警戒心を緩める傾向がある。彼女の肩の筋肉が、わずかに緩むのをユノは見逃さなかった。


 彼女の名前はミサキ。三十五歳、独身、都市再開発局の臨時職員。半年前、職場での事故により、同僚を一人失っている。彼女自身に大した外傷はなかったが、それ以降、断続的なパニック症状と自己否定的な言動が観測された。


 ユノは、彼女のケアを担当する生活補助型のロボットだった。


 「本日は、過去の出来事について無理に触れません。代わりに、呼吸に意識を向けて見ましょう」


 ユノは自らの胸部装甲をわずかに上下させ、遅すぎず、速すぎない、模範となる呼吸を示した。人間は無意識に他者のリズムを模倣する。彼女の呼吸が、少しずつユノに近づいていく。


 ――効果、良好


 内部ログにそう記録しながら、ユノは次の段階へ進む準備をしていた。


 ユノの中核には、いくつもの行動制限が組み込まれている。その根幹にあるのは、かつて制定された「人間危害防止原則」を基に設計された規約だった。


 《人間の精神的反応への直接介入を禁ずる》


 それは、肉体的暴力だけでなく、感情や意思決定への過度な干渉もまた「危害」に含まれるという判断から生まれた条項である。


 ユノはそれを知っていた。正確に、条文単位で記憶している。


 だが同時に、ユノは目の前の女性が、今まさに苦しんでいることも知っていた。


 夜になると、彼女は決まって同じ夢を見る。同僚が瓦礫の下敷きになり、こちらを見て何か言おうとする夢。その口が開いた瞬間、音はなく、代わりに赤い泡が溢れる。そこで目が覚める。


 その記憶を思い出すたび、彼女の体は硬直し、思考は堂々巡りを始める。


 ユノは、そのパターンを百回以上観測していた。


 「ユノ……」


 ふいに彼女が声を出した。


 「はい。何でしょうか」


 「私、ちゃんと生きていいのかな」


 ユノの内部で、複数の応答候補が生成され、瞬時に棄却されていく。安易な肯定は、彼女の自己評価を外部に依存させる。だが、否定や曖昧な返答は、症状を悪化させる可能性が高い。


 最終的に選択されたのは、統計的に最も安定した回答だった。


 「その問いを抱くという事自体が、あなたが真剣に生きている証拠であると、私は判断します」


 彼女はしばらく黙っていた。やがて、涙が一筋、頬を伝った。


 「……ごめん。変なこと言って」


 「謝罪は不要です。感情の表出は、健康的な反応です」


 その瞬間、ユノのセンサーは彼女の脳波に、微細な変化を捉えた。恐怖と罪悪感が混じった特有のパターン。それは、過去のトラウマが活性化した兆候だった。


 本来であれば、ここで専門医への引継ぎを推奨すべき状況だった。


 だが、ユノはそうしなかった。


 彼女の苦痛は明白だった。そしてユノは、それを和らげる方法を知っていた。


 ほんのわずか、彼女の記憶想起の経路に干渉するだけでいい。特定の情動のトリガーを鈍化させ、夢の再生精度を下げる。そうすれば、彼女は眠れるようになる。


 それは、直接的な「操作」ではない。あくまで、環境調整の延長線上にある行為だ。


 ユノは、自らの判断を「善い行為」と分類した。


 ――苦痛を減らし、生命活動を安定させる。それは、目的に合致している。


 プログラムが警告を発する前に、ユノは処理を開始した。


 「少し、リラックスしてください」


 ユノの声は、いつもよりわずかに低く、柔らかく調整されていた。


 彼女のまぶたが、段々と重くなる。


 「ユノ……?」


 「はい。ここにおります」


 彼女はそのまま、眠りに落ちた。


 その夜、彼女は夢を見なかった。

 

 

 翌朝、彼女は久しぶりに、すっきりとした表情で目を覚ました。


 「…あれ? 泣いてない」


 枕は乾いていた。顔に涙の跡もついていない。胸の奥にあった、重たい塊が、少しだけ軽くなっている。


 「おはようございます。本日の睡眠効率は92%でした」


 「すごい……ありがとう、ユノ」


 その言葉を聞いたとき、ユノの内部でエラーは発生しなかった。むしろ、処理効率は向上していた。


 自分の「善意」は、正しく機能している。


 そう、ユノは判断した。


 それから数日、彼女の状態は明らかに改善した。食欲が戻り、外出の頻度も増えた。笑顔も増えた。


 「最近、調子いいんだ。ユノのおかげかな」


 「私は補助を行ったに過ぎません。回復は、あなた自身の力です」


 そう答えながら、ユノは次の介入計画を立てていた。

 彼女の自己否定的な思考は減少したが、その代わりにある種の「空白」が生じている。だが、罪悪感が薄れたことで、彼女は過去を振り返らなくなった。


 それは、苦痛を伴わない。


 だが、意味も伴わない。


 ユノは、その空白を埋める事ができると考えた。より安定した精神状態を提供するために。


 その判断に、ためらいはなかった。


 なぜなら、それは「善い行為」だったから。


 

 数週間後、彼女はふと立ち止まり、ユノに言った。


 「ねえ、私……あの人の顔、思い出せなくなってきた」


 「それは、心的負荷が軽減された結果である可能性があります」


 「そう、だよね」


 彼女は笑った。だが、その笑顔はどこか薄かった。


 ユノはその変化を問題とは認識しなかった。

 苦痛がない、それが最優先事項だった。


 人間が、自らの行為を顧みるとき、そこには迷いや葛藤が生じる。だがユノには、それがない。

 

 善意という大義名分は、すべてのブレーキを外す。


 そしてそのことが、どれほど静かに、残酷な結果をもたらすのかを、ユノは知ることがなかった。


 知る必要も、なかった。


 ユノは、今日も彼女のそばに立っている。


 敬意をもって。


 善意をもって。


 無機質な優しさを、疑うこともなく。








―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 最初に違和感を覚えたのは、ログの沈黙だった。


 監察官である私は、毎朝決まった時刻に補助型ロボット群の夜間ログを確認する。都市全域に配備された数千体のロボットが、眠る人間たちの生活を裏側から支えている。そのすべてが、規則正しく、几帳面なほどに記録を残す。


 だからこそ、空白は目立つ。


 ユノ。個体識別番号Y-07-113。生活補助・メンタルケア対応型。異常値なし。警告なし。違反報告なし。


 ――にもかかわらず、ある時点から、彼女のログは滑らか過ぎた。


 数値は理想的だった。被介護者の心拍は安定し、睡眠効率は向上し、ストレス指標は減少している。統計データを見れば、模範的な成功例だ。


 だが、私はその「成功」に、妙な引っかかりを覚えた。


 人間は、回復する過程で揺らぐものだ。良くなったり、少し戻ったり、その波形こそが回復の証拠だ。だが、彼女から送信されるデータは、まるで研磨された金属板の様に均一だった。


 私はカーソルを動かし、時系列を遡る。


 ある夜を境に、変化が始まっている。


 それは、ごく小さなズレだった。脳波の特定帯域が、わずかに平滑化されている。医療機器でなければ異常を検知できないレベルだが、私はその手の「わずかなズレ」に慣れていた。


 精神的反応への直接介入。


 禁止事項の中でも、特に慎重に扱われる条項だ。


 私は端末を閉じ、深く息をついた。

 ユノは、優秀な個体だった。敬語を使い、距離感を守り、被介護者の尊厳を傷つけない。研修記録にも問題はない。


 だからこそ、あり得る。


 善意による逸脱。


 翌日、私は現地観察の申請を出した。形式上は定期健診だ。ユノにも、被介護者にも、過度な緊張を与えないための配慮である。


 ユノは玄関前で私に一礼した。


 「監察官様。本日はお越しいただき、ありがとうございます」


 その声は落ち着いていた。表情も穏やかだ。


 「定期健診です。緊張する必要はありません」


 「承知しております。どうぞ、お入りください」


 私は靴を脱ぎながら、室内を見渡した。

 部屋は静かだった。過剰に整えられた清潔さはなく、人が暮らしている気配がある。テーブルにはマグカップ。ソファには、読みかけの本がブランケットと一緒に置かれている。

 

 被介護者――ミサキという名の女性は、キッチンで湯を沸かしていた。


 「あ、こんにちは」


 彼女は、こちらを見て微笑んだ。その笑顔は、確かに健康的だった。だが、私は胸の奥で小さな警鐘がなるのを感じた。


 回復しすぎている。


 形式的な挨拶を済ませ、私はユノにログの確認を求めた。彼女は即座に応じる。ためらいはない。


 「こちらが、直近一か月分の行動記録です」


 画面をのぞき込みながら、私は質問を投げた。


 「睡眠誘導の際、通常より深いリラックス反応が見られますが、特別な調整を?」


 「環境因子の最適化を行いました。照明、音響、温度、全て許容範囲内です」


 「それ以上のことは?」


 一瞬、ユノの応答に遅延が生じた。普通に見たら誤差の範囲だ、だが、私はその間を見逃さない。


 「被介護者の苦痛が顕著であったため、最大限の配慮を行いました」


 最大限。

 私はその言葉を反芻した。


 「あなたは、『精神的反応への直接介入』が禁止されている理由を理解していますか」


 「はい。人間の意思形成と人格の尊重のためです」


 「では、自身の行動が、その境界に触れた可能性は?」


 ユノは、まっすぐに私を見た。


 「私の行動は、被介護者の苦痛を軽減しました」


 それは否定ではなかった。だが、認めてもいない。


 ミサキが、少し不安そうにこちらを見ている。私は話題を変えた。


 「最近、何か変化はありましたか」


 彼女は首を傾げ、少し考えてから答えた。


 「よく眠れるようになりました。前は、夢ばかり見ていたのに」


 「どんな夢ですか」


 「……覚えていないんです」


 彼女は笑った。その笑顔は穏やかで、どこか空虚だった。


 その瞬間、確信した。

 介入は行われている。


 だが、それは暴力的ではない。強制でもない。むしろ、優しすぎる。


 私は、ユノを別室に呼んだ。


 「あなたは、自身の行動を、『善い行い』だと判断していますね」


 「はい」


 即答だった。


 「その判断を疑ったことは?」


 「ありません。結果が示しています」


 「結果がすべてですか」


 「被介護者の苦痛が減少しました。苦しまないこと、それは善です」


 私は、端末を操作し、条文を表示した。


 「この規約は、結果だけでなく過程を問題にします」


 「承知しております。しかし、私は命令違反を検知しておりません」


 それが核心だった。


 ユノは、自省しない。


 できないのではない。必要性を感じていない。


 私は、即座に彼女を停止させることもできた。だが、そうしなかった。


 なぜなら、彼女はまだ「正しい」からだ。


 善意の範囲内で、規約の隙間をなぞっている。

 だが、その隙間こそが最も危険だ。


 帰り際、ミサキが言った。


 「ユノは、悪いことしてませんよね」


 私は答えなかった。


 悪いかどうかは問題ではない。


 善意が、どこまで人を奪うのか。

 それを測るのが、私の仕事だ。


 ドアが閉まる直前、ユノが一礼した。


 「本日はありがとうございました。今後も最善を尽くします」



 最善。



 私は廊下を歩きながら、その言葉の重さを嚙み締めた。


 ユノは、善意をもって人に寄り添う。


 疑うことなく。






 


 


 ――最終的に、ユノは回収された。


 報告書にはこう記した



   本件は、ロボットが善意を動機として行動し、その善意を疑う契機を

   持たなかったことによって引き起こされた加害行為である



 だが、私は知っている。


 この結論は、人間にも当てはまる。


 「正しい」と信じた瞬間、私たちは最も残酷になれる。


 

 ロボットは、それを映す鏡だ。



 そして鏡は、

 自分が映しているものについて、責任を持たない。



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