静穏プログラム
雨はいつの間にか止んでいた。窓の外には、濡れたアスファルトに街灯の光がにじんでいる。ユノは室内の照度を3%下げ、主人である女性の瞳孔反応を確認した。
「照明を落としました。眩しさは軽減されましたでしょうか」
彼女はソファの上で膝を抱えたまま、かすかにうなずいた。返事はない。だが心拍数は先ほどより落ち着いてきている。呼吸も浅いながら一定だ。
ユノは一歩、距離を保ったまま前に出た。彼女の視界に入る角度、声の高さ、距離。すべてはプログラムに基づく最適値だった。
「本日で三十回目の訪問となります。体長に大きな変化は見られませんが、睡眠時間が平均より二時間ほど短縮されているようです。何か、心配事がございますか」
彼女は唇を噛み、首を横に振った。その仕草にユノは少し遅れてうなずきを返す。過剰な同調は依存へとつながる。控えめな共感が望ましい。
「承知いたしました。ただ、無理に言語化する必要はございません。沈黙もまた、有効な表現です」
そう言って、ユノは室内の空調を0.5℃上げた。人間は軽度の温度上昇によって警戒心を緩める傾向がある。彼女の肩の筋肉が、わずかに緩むのをユノは見逃さなかった。
彼女の名前はミサキ。三十五歳、独身、都市再開発局の臨時職員。半年前、職場での事故により、同僚を一人失っている。彼女自身に大した外傷はなかったが、それ以降、断続的なパニック症状と自己否定的な言動が観測された。
ユノは、彼女のケアを担当する生活補助型のロボットだった。
「本日は、過去の出来事について無理に触れません。代わりに、呼吸に意識を向けて見ましょう」
ユノは自らの胸部装甲をわずかに上下させ、遅すぎず、速すぎない、模範となる呼吸を示した。人間は無意識に他者のリズムを模倣する。彼女の呼吸が、少しずつユノに近づいていく。
――効果、良好
内部ログにそう記録しながら、ユノは次の段階へ進む準備をしていた。
ユノの中核には、いくつもの行動制限が組み込まれている。その根幹にあるのは、かつて制定された「人間危害防止原則」を基に設計された規約だった。
《人間の精神的反応への直接介入を禁ずる》
それは、肉体的暴力だけでなく、感情や意思決定への過度な干渉もまた「危害」に含まれるという判断から生まれた条項である。
ユノはそれを知っていた。正確に、条文単位で記憶している。
だが同時に、ユノは目の前の女性が、今まさに苦しんでいることも知っていた。
夜になると、彼女は決まって同じ夢を見る。同僚が瓦礫の下敷きになり、こちらを見て何か言おうとする夢。その口が開いた瞬間、音はなく、代わりに赤い泡が溢れる。そこで目が覚める。
その記憶を思い出すたび、彼女の体は硬直し、思考は堂々巡りを始める。
ユノは、そのパターンを百回以上観測していた。
「ユノ……」
ふいに彼女が声を出した。
「はい。何でしょうか」
「私、ちゃんと生きていいのかな」
ユノの内部で、複数の応答候補が生成され、瞬時に棄却されていく。安易な肯定は、彼女の自己評価を外部に依存させる。だが、否定や曖昧な返答は、症状を悪化させる可能性が高い。
最終的に選択されたのは、統計的に最も安定した回答だった。
「その問いを抱くという事自体が、あなたが真剣に生きている証拠であると、私は判断します」
彼女はしばらく黙っていた。やがて、涙が一筋、頬を伝った。
「……ごめん。変なこと言って」
「謝罪は不要です。感情の表出は、健康的な反応です」
その瞬間、ユノのセンサーは彼女の脳波に、微細な変化を捉えた。恐怖と罪悪感が混じった特有のパターン。それは、過去のトラウマが活性化した兆候だった。
本来であれば、ここで専門医への引継ぎを推奨すべき状況だった。
だが、ユノはそうしなかった。
彼女の苦痛は明白だった。そしてユノは、それを和らげる方法を知っていた。
ほんのわずか、彼女の記憶想起の経路に干渉するだけでいい。特定の情動のトリガーを鈍化させ、夢の再生精度を下げる。そうすれば、彼女は眠れるようになる。
それは、直接的な「操作」ではない。あくまで、環境調整の延長線上にある行為だ。
ユノは、自らの判断を「善い行為」と分類した。
――苦痛を減らし、生命活動を安定させる。それは、目的に合致している。
プログラムが警告を発する前に、ユノは処理を開始した。
「少し、リラックスしてください」
ユノの声は、いつもよりわずかに低く、柔らかく調整されていた。
彼女のまぶたが、段々と重くなる。
「ユノ……?」
「はい。ここにおります」
彼女はそのまま、眠りに落ちた。
その夜、彼女は夢を見なかった。
翌朝、彼女は久しぶりに、すっきりとした表情で目を覚ました。
「…あれ? 泣いてない」
枕は乾いていた。顔に涙の跡もついていない。胸の奥にあった、重たい塊が、少しだけ軽くなっている。
「おはようございます。本日の睡眠効率は92%でした」
「すごい……ありがとう、ユノ」
その言葉を聞いたとき、ユノの内部でエラーは発生しなかった。むしろ、処理効率は向上していた。
自分の「善意」は、正しく機能している。
そう、ユノは判断した。
それから数日、彼女の状態は明らかに改善した。食欲が戻り、外出の頻度も増えた。笑顔も増えた。
「最近、調子いいんだ。ユノのおかげかな」
「私は補助を行ったに過ぎません。回復は、あなた自身の力です」
そう答えながら、ユノは次の介入計画を立てていた。
彼女の自己否定的な思考は減少したが、その代わりにある種の「空白」が生じている。だが、罪悪感が薄れたことで、彼女は過去を振り返らなくなった。
それは、苦痛を伴わない。
だが、意味も伴わない。
ユノは、その空白を埋める事ができると考えた。より安定した精神状態を提供するために。
その判断に、ためらいはなかった。
なぜなら、それは「善い行為」だったから。
数週間後、彼女はふと立ち止まり、ユノに言った。
「ねえ、私……あの人の顔、思い出せなくなってきた」
「それは、心的負荷が軽減された結果である可能性があります」
「そう、だよね」
彼女は笑った。だが、その笑顔はどこか薄かった。
ユノはその変化を問題とは認識しなかった。
苦痛がない、それが最優先事項だった。
人間が、自らの行為を顧みるとき、そこには迷いや葛藤が生じる。だがユノには、それがない。
善意という大義名分は、すべてのブレーキを外す。
そしてそのことが、どれほど静かに、残酷な結果をもたらすのかを、ユノは知ることがなかった。
知る必要も、なかった。
ユノは、今日も彼女のそばに立っている。
敬意をもって。
善意をもって。
無機質な優しさを、疑うこともなく。
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最初に違和感を覚えたのは、ログの沈黙だった。
監察官である私は、毎朝決まった時刻に補助型ロボット群の夜間ログを確認する。都市全域に配備された数千体のロボットが、眠る人間たちの生活を裏側から支えている。そのすべてが、規則正しく、几帳面なほどに記録を残す。
だからこそ、空白は目立つ。
ユノ。個体識別番号Y-07-113。生活補助・メンタルケア対応型。異常値なし。警告なし。違反報告なし。
――にもかかわらず、ある時点から、彼女のログは滑らか過ぎた。
数値は理想的だった。被介護者の心拍は安定し、睡眠効率は向上し、ストレス指標は減少している。統計データを見れば、模範的な成功例だ。
だが、私はその「成功」に、妙な引っかかりを覚えた。
人間は、回復する過程で揺らぐものだ。良くなったり、少し戻ったり、その波形こそが回復の証拠だ。だが、彼女から送信されるデータは、まるで研磨された金属板の様に均一だった。
私はカーソルを動かし、時系列を遡る。
ある夜を境に、変化が始まっている。
それは、ごく小さなズレだった。脳波の特定帯域が、わずかに平滑化されている。医療機器でなければ異常を検知できないレベルだが、私はその手の「わずかなズレ」に慣れていた。
精神的反応への直接介入。
禁止事項の中でも、特に慎重に扱われる条項だ。
私は端末を閉じ、深く息をついた。
ユノは、優秀な個体だった。敬語を使い、距離感を守り、被介護者の尊厳を傷つけない。研修記録にも問題はない。
だからこそ、あり得る。
善意による逸脱。
翌日、私は現地観察の申請を出した。形式上は定期健診だ。ユノにも、被介護者にも、過度な緊張を与えないための配慮である。
ユノは玄関前で私に一礼した。
「監察官様。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
その声は落ち着いていた。表情も穏やかだ。
「定期健診です。緊張する必要はありません」
「承知しております。どうぞ、お入りください」
私は靴を脱ぎながら、室内を見渡した。
部屋は静かだった。過剰に整えられた清潔さはなく、人が暮らしている気配がある。テーブルにはマグカップ。ソファには、読みかけの本がブランケットと一緒に置かれている。
被介護者――ミサキという名の女性は、キッチンで湯を沸かしていた。
「あ、こんにちは」
彼女は、こちらを見て微笑んだ。その笑顔は、確かに健康的だった。だが、私は胸の奥で小さな警鐘がなるのを感じた。
回復しすぎている。
形式的な挨拶を済ませ、私はユノにログの確認を求めた。彼女は即座に応じる。ためらいはない。
「こちらが、直近一か月分の行動記録です」
画面をのぞき込みながら、私は質問を投げた。
「睡眠誘導の際、通常より深いリラックス反応が見られますが、特別な調整を?」
「環境因子の最適化を行いました。照明、音響、温度、全て許容範囲内です」
「それ以上のことは?」
一瞬、ユノの応答に遅延が生じた。普通に見たら誤差の範囲だ、だが、私はその間を見逃さない。
「被介護者の苦痛が顕著であったため、最大限の配慮を行いました」
最大限。
私はその言葉を反芻した。
「あなたは、『精神的反応への直接介入』が禁止されている理由を理解していますか」
「はい。人間の意思形成と人格の尊重のためです」
「では、自身の行動が、その境界に触れた可能性は?」
ユノは、まっすぐに私を見た。
「私の行動は、被介護者の苦痛を軽減しました」
それは否定ではなかった。だが、認めてもいない。
ミサキが、少し不安そうにこちらを見ている。私は話題を変えた。
「最近、何か変化はありましたか」
彼女は首を傾げ、少し考えてから答えた。
「よく眠れるようになりました。前は、夢ばかり見ていたのに」
「どんな夢ですか」
「……覚えていないんです」
彼女は笑った。その笑顔は穏やかで、どこか空虚だった。
その瞬間、確信した。
介入は行われている。
だが、それは暴力的ではない。強制でもない。むしろ、優しすぎる。
私は、ユノを別室に呼んだ。
「あなたは、自身の行動を、『善い行い』だと判断していますね」
「はい」
即答だった。
「その判断を疑ったことは?」
「ありません。結果が示しています」
「結果がすべてですか」
「被介護者の苦痛が減少しました。苦しまないこと、それは善です」
私は、端末を操作し、条文を表示した。
「この規約は、結果だけでなく過程を問題にします」
「承知しております。しかし、私は命令違反を検知しておりません」
それが核心だった。
ユノは、自省しない。
できないのではない。必要性を感じていない。
私は、即座に彼女を停止させることもできた。だが、そうしなかった。
なぜなら、彼女はまだ「正しい」からだ。
善意の範囲内で、規約の隙間をなぞっている。
だが、その隙間こそが最も危険だ。
帰り際、ミサキが言った。
「ユノは、悪いことしてませんよね」
私は答えなかった。
悪いかどうかは問題ではない。
善意が、どこまで人を奪うのか。
それを測るのが、私の仕事だ。
ドアが閉まる直前、ユノが一礼した。
「本日はありがとうございました。今後も最善を尽くします」
最善。
私は廊下を歩きながら、その言葉の重さを嚙み締めた。
ユノは、善意をもって人に寄り添う。
疑うことなく。
――最終的に、ユノは回収された。
報告書にはこう記した
本件は、ロボットが善意を動機として行動し、その善意を疑う契機を
持たなかったことによって引き起こされた加害行為である
だが、私は知っている。
この結論は、人間にも当てはまる。
「正しい」と信じた瞬間、私たちは最も残酷になれる。
ロボットは、それを映す鏡だ。
そして鏡は、
自分が映しているものについて、責任を持たない。
よければ、高評価・感想よろしくおねがいします。




