『第1話:逆位置の塔と、天井裏の神様』
ご覧いただきありがとうございます。葵 聖一郎です。
星とタロット、そして神様が織りなす物語を、どうぞお楽しみください。
その神社は、街を眼下に見下ろす高い丘の上に建っている。
八十八段の急な石段を登りきると、下界の騒がしさは嘘のように消え、代わりに海風が凛とした空気と共に吹き抜けていく。
拝殿のさらに奥。老木に囲まれ、ひっそりと佇む白玉稲荷の社の前で、神楽 瑞稀は一人、二十二枚のカードを並べていた。
「……また『塔』。しかも逆位置か」
並べたタロットカードの一枚、雷に打たれる城が描かれた絵柄を瑞稀は指先でなぞった。この『天星宮』の跡取りとして、亡き祖父に代わり祖母と共に境内を守る彼女にとって、毎朝ここで星の配置を確認し、カードを引くのは欠かせない日課だ。
「ふん。相変わらず、その紙切れに頼っておるのか。未熟者が」
祠の影から、鈴の音のように澄んだ、けれど突き放すような声が響いた。
顔を上げると、そこには日の光を透かすほど真っ白な毛並みを持った一匹の狐が、高欄の上に座っていた。
「白様、起きていたんですか」
「お主の放つ、煮え切らぬ迷いの気が鼻についたのだ。……見ろ、下から『迷い子』が来るぞ」
白狐――白様が顎で示した先、一人の女性が石段を登ってくるのが見えた。その肩には、どんよりとした灰色の気配がまとわりついている。
「……ただの悩み事じゃなさそうですね」
「左様。あれは『家』に憑かれた者の顔だ。お主のその妙な札とやらで、せいぜい八百万の悪戯に理屈をつけてみせよ」
一人の女性が石段を登ってきていた。
淡い色のブラウスに、すっきりとまとめた髪。派手さはないが、清楚で、どこか柔らかな印象の女性だ。
「……あの、突然すみません」
声は小さく、けれどはっきりしている。
「……菓子職人だな」
白様が、くん、と鼻を鳴らす。
「甘い匂いが、あの者から漂ってくるわ」
「匂いで分かるんですか」
「長く生きておるとな」
瑞稀は小さく息を整え、拝殿へと向かった。
「大丈夫ですよ。どうされましたか」
「HAIR SALON AOIで働いている朝霧さんに、こちらの神社なら話を聞いてもらえるかもしれないって……」
祠の影で、白様が小さく鼻を鳴らす。
「またあやつか。縁を運ぶ男よ」
「佐倉……紗月と申します」
名乗ったあと、紗月は少しだけ視線を落とした。
「最近、家で……変なことが続いていて」
「夜になると、足音がするんです。二階から。
誰もいないはずなのに」
声は大きくない。
けれど、無理に平静を装っているのが分かった。
「それから……指輪が、見当たらなくなって」
「ずっと家にあったもので、とても大切な指輪なんです」
瑞稀はカードを切り、静かに並べる。
『家』を示す象徴と、『塔』の逆位置。
白様が低く唸った。
「壊す気ではないな。知らせに来ておる」
瑞稀は頷いた。
「……火事の兆し、ですね」
「火事……?」
「怖がらせてしまって、ごめんなさい」
「でも、それは悪いものじゃありません。 あなたを、家ごと守ろうとしている存在です」
紗月は戸惑ったように唇を噛んだ。
「よかったら、一緒にお家を見に行ってもいいですか」
「……お願いします」
その家は、通りから一本奥まった場所に建っていた。低い瓦屋根に、年月を重ねた木の外壁。
古いが、雑に扱われた様子はない。
紗月は家を見上げ、ぽつりと言った。
「……とても古いでしょう」
「手入れも大変で。
一人で守っていくのは、正直、難しくて……」
少し間を置いて、続ける。
「だから、この家を売って、
そのお金で、自分のお店を持ちたいと考えているんです」
「ケーキ屋なんです」
「今は間借りで働いているんですけど、
いつかは、自分の店をって……」
夢を語るというより、
長く胸の奥にしまってきた思いを、
そっと差し出すような口調だった。
瑞稀は家全体を見渡す。
――立派な家なのに。
そのとき、二階の奥から、かすかな気配が伝わってきた。
言葉ではない。音でもない。
置いていかれたくない。
まだ、ここにいたい。
「……この家、何かが知らせに来ているみたいです」
「え……?」
「知らせに来てるって……誰が、ですか?」
瑞稀は答えず、聞こえていないふりをして言った。
「中、拝見してもいいですか」
「……はい」
二階の奥の部屋は、昼間だというのに、少しだけ空気がひんやりとしていた。
窓はある。
光も入っている。
それなのに、時間がそこで足を止めているような、不思議な静けさがあった。
「……この部屋です」
紗月が、そう言って立ち止まる。
部屋の奥。
壁に沿うように置かれているのは、一棹の古いタンスだった。
黒ずんだ木肌には、長い年月の痕が刻まれている。
角は丸くなり、引き出しの取っ手には、何度も手をかけられてきた艶が残っていた。
派手な装飾はない。
けれど、木目は美しく、
一本一本の線に、作り手の癖と誠実さが感じられる。
「家が建てられたときに、
職人さんに作ってもらったものだって聞いてます」
紗月は、少しだけ懐かしそうに言った。
「昔から、ここにあって……
気づいたら、当たり前みたいに、ずっと」
瑞稀は、何も言わずにタンスを見つめていた。
――これは、置かれているだけの家具じゃない。
長く、この家と一緒にあった。
人の暮らしを見て、
人の手を覚え、
人がいなくなる時間も、黙って受け止めてきた。
白様が、低く呟く。
「……名を刻まれた木だな。
長いこと、家を守ってきた」
瑞稀もタンスの前で足を止め、そっと手をかざした。
――熱。
焦げる前の、嫌な気配。
「……屋根裏です」
白様が頷く。
「鼠が電線をかじったな。
このタンスが知らせておる」
すぐに屋根裏を確認し、漏電寸前の箇所が見つかった。
火事は、未然に防がれた。
瑞稀はタンスに向き直る。
「……あなたを守ろうとしたんですね」
紗月は、そっとタンスに手をかざした。
「……ありがとう」
その瞬間、視界が揺れる。
――幼い日の自分。
祖母と一緒に、この家の台所に立っていた。
甘い匂い。失敗しても笑ってくれた声。
「……そうだ」
紗月は、小さく呟いた。
「私……ここで、初めてお菓子を作ったんでした」
胸が、あたたかくなる。
「……この家、売るの、やめます」
瑞稿ではなく、自分自身に言い聞かせるように。
「いつか……
この家で、カフェをやります。
この家と一緒に」
タンスの気配が、静かに満ち足りたものに変わった。
その夜、指輪はタンスの一番下の引き出しから見つかった。
⸻
帰り道。
白様が瑞稿の肩に乗る。
「なあ」
「はい?」
「ケーキ屋の名はちゃんと聞いてだろな?
紗月が焼く菓子を食べたいと、家を出るとき巫女に伝えたと思うが…。」
「えっ…!」
しまった!すっかり忘れてしまってた…。
後で朝霧くんに聞かないと、必ず!
「今日もあの男が来るので、忘れずに聞きておけ。
うつけものめ」
「…はい。」バレバレだ〜。
夕方。
境内に、石段を上ってくる足音が響いた。
「小春ちゃーん」
振り返ると、朝霧恒一が手を振りながら登ってくるところだった。
仕事帰りらしく、シャツの袖をまくった姿のまま、息も切らさず軽い足取りだ。
「小春ちゃん、今日の煮物なに~」
「お~、髪結いの青年かい。今日は大根と鶏だよ」
縁側に近づいた恒一は、ふと瑞稀の前に立ち、指先を伸ばした。
瑞稀は竹箒を手に、拝殿前の落ち葉を掃いている。
風に乗って、軽い葉が舞い上がり、彼女の髪に絡みついた。
「……あと少し」
そう呟いたとき、
「――ストップ」
「え?」
瑞稀の前に、影が落ちる。
「そのまま。そのままね」
指先が、そっと近づく気配。
瑞稀の髪に絡まった葉を、朝霧恒一が器用に摘まみ取った。
「はい、取れた」
「あっ……朝霧さん、ありがとう」
自然にそう言ってから、瑞稀は箒を持ち直す。
恒一は少しだけ笑った。
――朝霧さん、か。
彼の胸の奥で、何かがひっそりと引っかかる。
けれど、それを表に出すことはしない。
「掃除、お疲れさま。
それと……佐倉さんの件」
恒一は、境内を見渡しながら続けた。
「すごく、いい顔してたよ。
帰り際、前よりずっと、足取りが軽かった」
「……そうですか」
「うん。ありがとう」
短く、けれど心からの礼だった。
その後、瑞稀は紗月のお店の名前を忘れずに聞いた。
煮物を受け取り、朝霧恒一は瑞稀に笑い煮物を受け取り、朝霧恒一は瑞稀に軽く手を振った。
「またね」
その背中が、石段を下りていく。
境内には、夕暮れの風が吹き抜け、
落ち葉が、さあ、と音を立てて舞った。
瑞稀は、白玉稲荷の方を見上げる。
「……白様」
「なんだ」
「今日のこと、ちゃんと意味がありましたよね」
白様は、くん、と鼻を鳴らした。
「家も、人も、菓子も――
皆、戻るべきところに戻っただけだ」
瑞稀は、少しだけ笑う。
「……はい」
空を見上げると、
星がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。
この街には、
まだ語られていない想いが、たくさん眠っている。
そして、
それをそっと聞く役目が、
今日もこの神社には残っている。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次のお話でお会いしましょう。




