第6話:通い妻ならぬ、通い皇太子
至福の時間というのは、どうしてこうも早く過ぎ去るのだろうか。
レティシアに拾われてから三日が経過した。
私の傷は、奇跡的な回復を見せていた。
腹部を抉った深い爪痕は薄い傷跡だけを残して塞がり、失われた血液も、彼女が振る舞ってくれる栄養満点の食事のおかげですっかり元通りだ。
本来なら、一日でも早く王都へ戻らねばならない。
私は帝国の皇太子であり、次期皇帝として国政を担う身だ。
数日も行方をくらませば、城は大騒ぎになっているだろう。
父上は持病の発作を起こしているかもしれないし、宰相は胃に穴を開けているかもしれない。
分かっている。
頭では理解しているのだ。
「アレクセイ様、お茶が入りましたよ」
「……ああ、頂こう」
目の前に差し出された湯気の立つカップ。
それを受け取るとき、私の指先は微かに震えていた。
恐怖ではない。
歓喜と、これから訪れる別れへの惜別による震えだ。
カップの中身は、森で採れたハーブを煎じたお茶だという。
一口含むと、爽やかな香りが鼻腔を抜け、温かい液体が内臓を優しく撫でる。
うまい。
王宮の筆頭魔導師が淹れる最高級の紅茶など、泥水に思えるほどだ。
「今日のお茶請けは、木苺のタルトです。リスさんたちがたくさん集めてくれたので、ジャムにしてみたんです」
レティシアが微笑みながら、木製の皿をテーブルに置いた。
サクサクに焼かれた生地の上に、宝石のように輝く真紅のジャムがたっぷりと乗っている。
これもまた、彼女の手作りだ。
小麦粉の代わりに木の実を粉末にしたものを使い、甘味は天然の蜂蜜だけだと言うが、これ以上の菓子を私は知らない。
「おいしいですか?」
「……絶品だ。宮廷料理人が裸足で逃げ出すレベルだよ」
「ふふ、大袈裟ですね。アレクセイ様は褒め上手なんだから」
彼女はコロコロと笑う。
その笑顔を見るたびに、胸の奥が締め付けられるように痛む。
帰りたくない。
ここが私の居場所だ。
王城の豪華な執務室でも、天蓋付きのベッドでもない。
この粗末なログハウスの、硬い木の椅子の上こそが、私の魂が安らげる唯一の場所なのだ。
足元を見る。
銀色の毛玉――フェンリルのルルが、私のブーツに顎を乗せて居眠りをしている。
肩には、ドラゴンのごんぞうが止まり、私の耳たぶを甘噛みして遊んでいる。
信じられない光景だ。
呪われた私にとって、動物とは恐怖の対象であり、私を拒絶する敵だった。
それが今では、こうして体温を分かち合っている。
レティシアという太陽が、私の呪いすらも溶かしてしまったかのようだ。
だが、時間は待ってくれない。
懐に入れていた通信用の魔道具が、先ほどから断続的に振動している。
騎士団長からの緊急呼び出しだ。これ以上無視すれば、森ごと捜索するために軍が動くかもしれない。
そうなれば、レティシアの平穏な生活が乱される。
それだけは避けなければならない。
私は意を決して、カップを置いた。
「レティシア嬢」
「はい?」
「……そろそろ、発つ時が来たようだ。仲間からの連絡が入った」
彼女の瞳が一瞬、揺れたように見えた。
寂しがってくれているのだろうか。
そうであれば嬉しいのだが。
「そうですか……。傷はもう大丈夫なのですか?」
「ああ、君のおかげで完治した。これ以上、君に甘えるわけにはいかない」
嘘だ。
一生甘えていたい。
このままヒモになって、毎日薪割りと水汲みだけをして暮らしたい。
そんな情けない本音を喉元で押し殺し、私は立ち上がった。
ルルが不満げに「わふっ」と鳴き、ごんぞうが肩から飛び立つ。
彼らとの別れも辛い。
だが、一番辛いのは、彼女のそばを離れることだ。
「これを受け取ってくれ」
私は腰に帯びていた短剣を外し、彼女に差し出した。
皇家の紋章が刻まれた、ミスリル銀の短剣だ。
護衛の騎士という設定には不釣り合いな高級品だが、今の私にはこれしか渡せるものがない。
「これは……そんな高価なもの、頂けません」
「持っていてくれ。君を守る魔除け代わりだ。……それに、これを預けておけば、私が必ず取りに戻ってくる理由になる」
私は彼女の手を取り、無理やり短剣を握らせた。
彼女の手は小さく、温かかった。
「必ず、戻ってくる。恩返しもまだしていないからな」
「……はい。お待ちしていますね。森のみんなも、きっとアレクセイ様に会いたがりますわ」
彼女は屈託のない笑顔で頷いた。
その笑顔を網膜に焼き付け、私はログハウスを後にした。
森の出口までは、ルルが案内してくれた。
結界の外に出た瞬間、空気が変わったのが分かった。
重苦しく、澱んだ気配。
私の呪いが、再び鎌首をもたげたのだ。
木々の枝から鳥たちが飛び去り、草陰の虫たちが声を潜める。
世界が私を拒絶している。
たった数分前までの温もりが、遠い夢の出来事のようだ。
私は懐から転移結晶を取り出した。
王城へ直通する緊急用のマジックアイテムだ。
「……行ってきます」
誰にともなく呟き、私は魔力を込めた。
視界が白く染まり、森の景色が消え去った。
***
「殿下! ご無事でしたか!」
転移の間で光が収まるや否や、悲鳴のような声が響いた。
騎士団長、宰相、そして侍医たちが雪崩れ込んでくる。
「捜索隊を出そうとしていたところです! 一体どこにいらしたのですか!」
「お怪我は!? 顔色がよろしいようですが!」
「直ちに陛下へ報告を!」
怒号にも似た喧騒。
消毒液と香水の入り混じった、鼻をつく人工的な匂い。
私は無意識に眉をひそめた。
「騒ぐな。……少し、遠出をしていただけだ」
私は努めて冷静に答え、彼らを制した。
侍医が私の体に触れようと手を伸ばしたが、私はそれを手で払った。
「触るな。体の調子はすこぶる良い。診察は不要だ」
「し、しかし……」
「下がれと言っている」
私の低い声に、彼らは凍りついたように動きを止めた。
以前の私なら、ここで苛立ちを爆発させていただろう。
だが、今の私には「森」での記憶がある。
あの温かさを思い出せば、これくらいの不快感は耐えられる。
私は群がる側近たちを無視して、自室へと向かった。
長い廊下を歩く。
すれ違うメイドたちが、私を見て青ざめ、壁際にへばりついて道を空ける。
窓の外では、庭園の孔雀が私に気づいてけたたましい威嚇音を上げている。
ああ、これだ。
これが私の日常だった。
冷たく、孤独で、殺伐とした世界。
自室に入り、重厚な扉を閉める。
ようやく一人になれた。
私はソファに深々と沈み込んだ。
「……はぁ」
ため息が漏れる。
まだ帰還してから一時間も経っていない。
それなのに、もう限界だった。
部屋が広すぎる。
静かすぎる。
豪華な調度品も、最高級の絨毯も、すべてが冷たい無機物にしか見えない。
腹が減った。
まだ夕食の時間ではないが、何か食べたい。
メイドを呼ぼうとして、手が止まる。
王城の食事は、どれも味がしない。
最高級の食材を使っているはずなのに、レティシアの作った木の実入りのパンの足元にも及ばない。
喉が渇いた。
だが、ここの茶は渋いだけで、何の癒やしもない。
眠りたい。
だが、この天蓋付きのベッドは広すぎて、ルルの毛皮のような安心感がない。
「……ダメだ」
私は天井を仰いだ。
たった三日。
たった三日で、私は完全に「餌付け」されてしまったらしい。
心も、体も、胃袋も、すべてあの森に置いてきてしまった。
このままでは、私は干からびて死ぬだろう。
呪いで死ぬのではなく、レティシア不足で死ぬ。
それはあまりにも情けない死に様だ。
私はガバっと起き上がった。
時計を見る。
時刻は午後四時。
今から執務を片付ければ、夜には自由時間が作れる。
「……忘れ物をした」
そうだ、忘れ物だ。
私は自分自身に言い訳をした。
彼女に短剣を渡したままだった。
あれは皇太子の身分証代わりにもなる重要な品だ。
あんな不用心な場所に置いておくわけにはいかない。
すぐに回収しに行かねばならない。
あくまで公務の一環として、だ。
私は机に向かい、山積みになった書類を鬼の形相で処理し始めた。
決裁のサインを高速で書き殴り、案件を次々と片付けていく。
普段なら三日かかる量を、二時間で終わらせてやる。
***
「……あれ? アレクセイ様?」
森のログハウス。
夕食の準備をしていたレティシアが、目を丸くして立ち尽くしている。
その手には、お玉が握られている。
無理もない。
涙の別れから、まだ六時間しか経っていないのだから。
私は転移魔法で、ログハウスの目の前に降り立った。
今回は行商人の護衛という設定など知ったことか。
とにかく、一刻も早くこの空気を吸いたかった。
「やあ、レティシア嬢。……その、すまない」
私は気まずさに視線を逸らしながら、咳払いをした。
「大事な……そう、君に預けた短剣の手入れ方法を伝え忘れていてね。それが気になって、居ても立ってもいられず……」
苦しすぎる言い訳だ。
子供でももう少しマシな嘘をつくだろう。
ルルが呆れたように「わおん」と鳴き、ごんぞうが鼻で笑って火を吹いた。
しかし、レティシアは――私の女神は、そんな些細なことは気にしなかった。
「まあ! わざわざそのために戻ってきてくださったんですか? ふふ、アレクセイ様は本当に律儀な方ですね」
彼女は花が咲くような笑顔で私を迎え入れてくれた。
そして、鍋の中身を指差して言った。
「ちょうどよかった。今日はキノコのシチューなんです。アレクセイ様の分も、まだありますよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の体から全ての緊張が抜け落ちた。
王城での冷たい数時間が、嘘のように溶けていく。
「……ああ、頂くよ。腹が減って死にそうだったんだ」
私は靴を脱ぎ捨て、我が家のようにログハウスへ上がり込んだ。
ルルが慣れた様子で私の足元に擦り寄ってくる。
ごんぞうが肩に乗る。
レティシアが温かいシチューをよそってくれる。
ここだ。
ここが私の帰る場所だ。
私はスプーンを口に運びながら、密かに決意した。
もう、我慢するのはやめよう。
公務が終わったら、毎日ここへ帰ってこよう。
城には寝に帰るのではなく、出勤すればいい。
私の自宅は、今日からこの森だ。
「あの、アレクセイ様? 泣いていらっしゃいますか?」
「……いや、シチューの湯気が目に沁みただけだ。……本当においしい」
こうして、帝国史上初となる「森から通勤する皇太子」が誕生した。
王城の側近たちが、毎晩のように行方不明になる私を探して胃薬を飲むことになるのは、また別の話である。




