第5話:初めての「ぬくもり」
闇の中にいた。
いつもの夢だ。
幼い頃の記憶が、泥沼のように足元から這い上がってくる。
五歳の誕生日。
父上がプレゼントしてくれた白い仔犬。
私は嬉しくて、震える手でその小さな体を抱きしめようとした。
けれど、仔犬は私を見た瞬間、牙を剥き出しにして唸り声を上げた。
そして、私の指を噛みちぎらんばかりに食らいつき、逃げ去ったのだ。
『呪われた子』
『穢れた血』
背後から囁く声が聞こえる。
宮廷魔導師たちの冷ややかな目。
母上の悲痛な表情。
馬に乗ろうとすれば振り落とされ、鳥に餌をやろうとすれば突き返され、精霊の加護すら得られない。
世界そのものが、私という存在を異物として拒絶していた。
私は孤独だった。
誰からも愛されず、どんな生き物とも心を通わせられない。
それが私の運命だと、諦めていたはずだった。
「帰らずの森」での最期も、相応しいものだった。
伝説の聖獣フェンリルの群れ。
彼らは私を見るなり、親の仇を見るような憎悪の目で襲いかかってきた。
剣で応戦したが、多勢に無勢だ。
鋭い爪が腹を裂き、私は冷たい土の上に倒れた。
薄れゆく意識の中で、彼らの赤い瞳が嘲笑っているように見えた。
ああ、やっと終わる。
この孤独な生に、ようやく幕が下りるのだ。
そう思っていた。
***
ふわり、と。
鼻先を甘い香りがくすぐった。
血と泥の臭いではない。
陽だまりのような、草花のような、優しい香りだ。
私はゆっくりと意識を浮上させた。
ひどく体が重い。
けれど、痛みはなかった。
腹を裂かれたはずの焼けるような激痛が、嘘のように消えている。
(……ここは、どこだ?)
重いまぶたを持ち上げる。
視界に映ったのは、荒削りだが温かみのある木の天井だった。
隙間から柔らかな陽光が差し込んでいる。
私は死んだのだろうか。
天国という場所があるのなら、こういう静かな場所なのかもしれない。
体を起こそうとして、胸の上に重みを感じた。
何かが乗っている。
漬物石のようにずっしりと重く、そして温かい何か。
視線を下ろす。
呼吸が止まりそうになった。
そこには、巨大な白い毛玉があった。
銀色の毛並みを持つ、犬――いや、狼だ。
それも、ただの狼ではない。
私を襲ったあのフェンリルと同じ、魔力を帯びた銀色の体毛。
それが、私のみぞおちの上で丸まり、すやすやと寝息を立てているのだ。
「……な、ぜ……?」
声が掠れた。
ありえない。
私の呪いは、絶対的なものだ。
どんな動物も、私に近づけば本能的な恐怖と嫌悪を感じ、逃げ出すか襲いかかってくるはずだ。
ましてや、高位の魔獣であるフェンリルならば、私の穢れを敏感に感じ取るはず。
それなのに、こいつは私の腹を枕にして、無防備に腹をさらけ出して寝ている。
幻覚だろうか。
私は恐る恐る、動かない右手を伸ばした。
指先が震える。
もしこれが夢なら、触れた瞬間に消えてしまうかもしれない。
あるいは、目が覚めて喉笛を噛み切られるかもしれない。
指先が、銀色の毛に触れた。
滑らかで、極上の絹のような手触り。
そして、生き物の体温。
「んぅ……」
狼が寝言を漏らし、私の手に鼻先を擦り付けてきた。
攻撃ではない。
甘えているのだ。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
生まれて初めての感触。
生き物が、私を受け入れている。
拒絶も、敵意もなく、ただ温もりだけを伝えてくる。
熱いものが込み上げてきて、視界が滲んだ。
これは夢でも幻でもない。
確かな「命」の重みが、私の体の上にある。
その時、部屋の扉が静かに開いた。
「あら、目が覚めましたか?」
鈴が転がるような声。
入ってきたのは、一人の少女だった。
蜂蜜色のふわふわとした髪に、森の緑を映したような瞳。
粗末なドレスを着ているが、その立ち居振る舞いには隠しきれない気品がある。
彼女の手には、湯気を立てる木製の椀が乗せられていた。
少女は私と目が合うと、花が咲くように微笑んだ。
「よかった。三日三晩眠り続けていたので、心配したんですよ」
「……三日、も?」
喉が渇いていて、うまく声が出ない。
少女は慌てて枕元に駆け寄り、サイドテーブルに椀を置いた。
そして、私の腹の上で惰眠を貪っている狼を、呆れたようにペチリと叩いた。
「こら、ルル。いつまで寝ているの。怪我人の方の上に乗ったら重いでしょう?」
ルル、と呼ばれた狼は、不満げに「むぅ」と唸りながら、のっそりと私の体から降りた。
信じられない。
あの凶暴なフェンリルが、この華奢な少女の言うことに従順に従っている。
まるで飼い犬だ。
「申し訳ありません。この子、貴方の体温が気に入ったみたいで、何度下ろしてもまた乗ってしまうんです」
少女は困ったように眉を下げた。
私は首を横に振った。
「いや……構わない。むしろ、その……嬉しかった」
本心だった。
あの重みこそが、私が生きていて、かつてない奇跡の中にいる証だったからだ。
「そうですか? 貴方は動物がお好きなんですね」
少女は嬉しそうに言い、私の背中に手を回して上半身を起こしてくれた。
彼女の手もまた、温かかった。
不思議なことに、彼女が触れると、私の体内に澱んでいた呪いの瘴気が、清らかな水に流されるように浄化されていく感覚がある。
彼女は何者なのだろう。
この「帰らずの森」の深奥で、魔獣たちを手懐けて暮らす少女。
森の精霊か、あるいは女神の化身か。
「お腹、空きましたよね。スープを作ったんです。少しでも召し上がれますか?」
彼女が差し出した椀からは、食欲をそそる香りが漂っていた。
根菜と干し肉だろうか。
素朴だが、宮廷料理よりも遥かに美味しそうだ。
私は震える手で匙を受け取ろうとしたが、力が入らずに取り落としてしまった。
「あ……すまない」
「いいえ、無理なさらないで。私が食べさせますね」
彼女は嫌な顔ひとつせず、匙でスープを掬い、ふうふうと息を吹きかけて冷ました。
そして、私の口元へ運んでくる。
「はい、あーん」
まるで子供扱いだ。
帝国の皇太子である私が、こんな風に世話を焼かれるなどあってはならないことだ。
だが、拒む気にはなれなかった。
私は素直に口を開いた。
温かい液体が喉を通る。
野菜の甘みと、肉の旨み。
そして何より、作った人の真心が溶け込んでいるような、優しい味がした。
「……うまい」
「ふふ、よかったです。森の動物たちが集めてくれた食材なんですよ」
彼女は次々とスープを口に運んでくれた。
一口食べるごとに、凍りついていた心身が解凍されていくようだ。
五臓六腑に染み渡るとは、こういうことを言うのだろう。
ふと、足元に視線を感じた。
ベッドの端から、小さなトカゲが顔を出している。
翡翠色の鱗に、背中には翼。
ドラゴンだ。
それも、伝説上の存在である古竜の幼体に見える。
トカゲは私の顔をじっと見つめ、それから私の足の指にそっと前足を乗せた。
「きゅう」
小さな鳴き声。
彼もまた、私を恐れていない。
呪いはどうなったのだ。
なぜ、この場所だけ、世界が反転しているのだ。
「……君は、魔法使いなのか?」
私はたまらず問いかけた。
少女は小首を傾げる。
「いいえ? ただの……いえ、今はただの森の住人です」
彼女は何かを言いかけたが、すぐに言葉を濁した。
何か事情があるのだろう。
だが、私にとってそんなことは些末な問題だった。
「そうか。……私は、アレクセイという。行商人の護衛をしていたのだが、仲間とはぐれてしまってな」
皇太子という身分は隠した。
もし私が「呪われた皇太子」だと知れば、彼女もまた恐怖して離れていくかもしれない。
それだけは避けたかった。
この温かな楽園に、もう少しだけ浸っていたい。
そんな卑怯な嘘を、許してほしい。
「アレクセイ様ですね。私はレティシアと申します。……訳あって、ここで一人暮らしをしているんです」
レティシア。
美しい名前だ。
「一人暮らし? この魔境でか?」
「ええ。でも、寂しくはありませんわ。ルルやごんぞう――あ、この子たちのことですけど、みんながいてくれますから」
彼女は足元のドラゴンと、横で座っている狼を愛おしそうに見つめた。
その眼差しには、一点の曇りもない慈愛が満ちている。
彼女が彼らを愛しているから、彼らも彼女を愛しているのだ。
そして、その愛の輪の中に、異物であるはずの私をも招き入れてくれている。
「……レティシア嬢」
「はい?」
「ありがとう。……私を、助けてくれて」
言葉にすると、涙が溢れそうになった。
命を救われた礼ではない。
もっと根源的な、魂を救われたことへの感謝だった。
彼女はきょとんとした後、柔らかく微笑んだ。
「お礼なら、ルルたちに言ってあげてください。彼らが貴方をここまで運んでくれたんですから」
私は横にいる銀狼を見た。
彼は「ふん、仕方なくだぞ」と言わんばかりにそっぽを向いたが、その尻尾は微かに揺れていた。
私は悟った。
ここは、私の呪いが届かない聖域なのだ。
そして、その中心にいるこの少女こそが、私が生涯をかけて探し求めていた「光」なのだと。
スープを飲み干すと、急激な眠気が襲ってきた。
満腹感と安心感。
これほど安らかな気持ちになるのはいつ以来だろう。
「少し、眠るといいですよ。傷は私が診ておきますから」
レティシアが私の額に手を当てる。
その心地よさに、私は抗うことなく目を閉じた。
(もう少しだけ……この夢を見ていたい)
意識が遠のく中、私は心に誓った。
もし体が動くようになったら、この恩は必ず返す。
私の持つすべてを投げ打ってでも、この優しい少女と、彼女の大切な仲間たちを守り抜こうと。
それが、冷徹と呼ばれた皇太子の初恋の瞬間だった。
レティシアが皇太子妃として迎えられる未来など、まだ誰も想像していない、森の小さな小屋での出来事である。




