第2話:ここが私のパラダイス?
蹄の音が遠ざかっていく。
私をここまで運んできた護送馬車は、土煙を上げて逃げるように去っていった。
残されたのは、私と小さな鞄が一つだけ。
目の前には、空を覆い尽くすほどの巨木が立ち並ぶ「帰らずの森」が広がっている。
「……さて、行きますか」
私はスカートの埃を払い、森への一歩を踏み出した。
恐怖はない。
むしろ、ようやく一人になれた解放感で胸がいっぱいだ。
王都での生活は、常に誰かの顔色を窺い、息を潜める日々だった。
それに比べれば、いつ魔獣に襲われるかわからないこの森の方が、よほど気が楽だ。
森の中は薄暗い。
だが、木漏れ日が苔むした地面を照らし、幻想的な光景を作っている。
空気が美味しい。
深呼吸をすると、濃密な樹木の香りが肺を満たした。
「ふふ、ピクニックみたい」
独り言が木々に吸い込まれる。
私は適当な倒木に腰を下ろし、鞄から水筒を取り出した。
その時だ。
背後の茂みがガサリと揺れた。
ピクリと背筋が凍る。
風の音ではない。
明らかに、質量を持った何かがそこにいる。
私は水筒を握りしめたまま、ゆっくりと振り返った。
闇の奥から、二つの青い光が浮かび上がった。
眼光だ。
人の頭ほどの大きさがある鋭い瞳が、じっと私を見据えている。
(……大きい)
茂みが割れ、その主が姿を現した。
息を呑む。
現れたのは、小屋ほどもある巨大な狼だった。
月光を織り込んだような銀色の毛並み。
太い手足には、剣のように鋭い爪が生えている。
間違いない。
文献で読んだことがある。
氷雪を支配し、国一つを一夜で滅ぼすとされる伝説の魔獣、フェンリルだ。
終わった、と思った。
抵抗など無意味だ。
私は目を閉じ、最期の時を待った。
「グルルル……」
低い唸り声が近づいてくる。
荒い鼻息が顔にかかる。
鋭い牙が喉元に突き立てられるのを覚悟して、私は身を固くした。
しかし。
いつまで経っても痛みは来ない。
代わりに、湿った温かい感触が頬を撫でた。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
目の前には、巨大なフェンリルの顔があった。
だが、その表情は凶悪な魔獣のそれではない。
舌を出し、尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「くぅ〜ん」
甘ったるい鳴き声。
フェンリルは私の足元にゴロンと転がると、無防備に腹をさらけ出した。
「もしかして……撫でてほしいの?」
私は震える手で、その柔らかな腹毛に触れた。
極上の手触りだ。
絹よりも滑らかで、陽だまりのように温かい。
「わふっ! わふふっ!」
私が撫でると、フェンリルは嬉しそうに身をよじった。
まるで大きな犬だ。
恐怖心は一瞬で霧散し、私の奥底にある動物愛が鎌首をもたげた。
「かわいい……! なんてふわふわなの!」
私は遠慮なく、その銀色の毛並みに顔を埋めた。
至福のモフモフ感。
王都の高級絨毯など比較にならない。
「きゅい!」
「みゃあ!」
ふと気づけば、周囲の茂みから次々と動物たちが顔を出していた。
額に角の生えた兎。
羽の生えた猫。
虹色に輝く小鳥たち。
彼らは警戒心ゼロで私に駆け寄り、膝の上や肩に乗ってきた。
「ちょっと、くすぐったいわ!」
私の周りはあっという間に動物たちの山となった。
フェンリルが他の動物を威嚇しようとするが、私が「仲良くね」と言うと、シュンとして大人しくなる。
信じられない光景だ。
ここは「帰らずの森」ではなかったのか。
魔獣が人を食らう地獄ではなかったのか。
私の肩に、手のひらサイズのトカゲがポトリと落ちてきた。
翡翠のような鱗を持つそのトカゲは、私の耳元に頭を擦り付けてくる。
「貴方も甘えん坊さんね」
私はトカゲの顎の下を指先で撫でた。
トカゲは気持ちよさそうに目を細め、口からプスッと小さな火を吹いた。
……火?
よく見ると、このトカゲ、背中に小さな翼がある。
これ、もしかしてドラゴンの幼体だろうか。
いや、まさか。
そんな伝説の生物がいるはずがない。
きっと珍しい種類のトカゲだ。
私は考えるのをやめた。
目の前には、私を傷つけようとする者は一人もいない。
ただ、私を求めてくれる温かい存在だけがある。
「決めたわ」
私はフェンリルの背中に抱きつきながら、高らかに宣言した。
「私、ここで暮らす。もう王都には戻らない」
フェンリルが賛同するように「ワオーン!」と遠吠えを上げた。
森の木々がざわめき、祝福するように葉を揺らす。
こうして、私の新しい生活が始まった。
ここが私のパラダイスだ。




