第12話:新しい幸せ
嵐が去った後の森は、嘘のように静まり返っていた。
空を覆っていた灰色の雲は消え、西の空には燃えるような夕焼けが広がっている。
私はログハウスの前の階段に座り込み、呆然と空を見上げていた。
隣には、元のサイズ――愛らしいポメラニアンのような姿――に戻ったルルが座り、私の膝に顎を乗せている。
肩には、これまた手のひらサイズに戻ったごんぞうが止まり、欠伸をしている。
数時間前の出来事が、まるで夢か幻のようだ。
カイル殿下の悲鳴。
ミリアの逃走。
そして、圧倒的な力で彼らを一掃した銀髪の騎士様。
「……はぁ」
ため息が出た。
安堵のため息ではない。
心臓がまだ早鐘を打っている。
恐怖からではない。
別の種類の緊張からだ。
私の視線の先。
広場の真ん中で、アレクセイ様が――いいえ、アレクセイ皇太子殿下が、騎士たちが脱ぎ捨てていった剣や鎧を魔法で片付けている。
指先一つ動かすだけで、鉄くずが空中に舞い上がり、森の外へと転送されていく。
その所作一つ一つが、恐ろしいほど洗練されており、高貴なオーラを纏っている。
今まで私は、彼を「親切な護衛さん」だと思っていた。
だから気安く「アレクセイ様」と呼び、手作りのクッキーを食べさせ、あろうことか「シロちゃんの手入れを手伝う」なんて約束までしてしまった。
帝国の次期皇帝に対して、なんて不敬な振る舞いをしてしまったのだろう。
「……終わったよ、レティシア」
作業を終えた彼が、こちらへ歩いてくる。
いつもの爽やかな笑顔。
でも、その笑顔の主が皇太子だと知ってしまった今、私はどう反応すればいいのか分からない。
私は慌てて立ち上がり、ドレスの裾を摘んで最敬礼をした。
「お、お疲れ様でございます、皇太子殿下! その、あのような雑用を殿下の手でなさるなど、もったいなき……」
言葉が上滑りする。
舌が回らない。
アレクセイ様はきょとんとした後、困ったように眉を下げた。
「レティシア。やめてくれ」
「は、はい?」
「その『殿下』という呼び方と、他人行儀な敬語は禁止だ。背中がむず痒くなる」
彼は私の手を取り、強引に自分の顔の高さまで持ち上げた。
至近距離で見つめ合う。
青い瞳が、切なげに揺れている。
「私は君の『アレクセイ』だ。それとも、身分が分かった途端に、私は君の護衛失格か?」
「そ、そんなことはありません! でも……」
「なら、今まで通りでいてくれ。お願いだ」
彼の声は真剣だった。
命令ではなく、懇願。
その目を見ていると、彼がただの「アレクセイ様」であることに変わりはないのだと思えてくる。
「……分かりました。努力します、アレクセイ様」
「うん、いい子だ」
彼は満足そうに微笑み、いつものように私の頭を撫でた。
その手の温かさに、強張っていた肩の力が抜けていく。
「それにしても、驚きました。ルルたちが、あんなに強かったなんて」
私は足元のルルを見た。
ルルは「えへへ」と照れるように尻尾を振り、私の足にスリスリと体を擦り付ける。
数時間前に巨大化して氷のブレスを吐いていた魔獣と同一人物(?)とはとても思えない。
「彼らは伝説の聖獣フェンリルと、古竜エンシェントドラゴンだ。本来なら、人が触れることすら許されない高位の存在だよ」
アレクセイ様が説明してくれる。
「でも、彼らは君を選んだ。君の魔力が心地よく、君の魂が清らかだからだ。君は無自覚かもしれないが、君はこの森の『女王』として彼らに認められているんだよ」
「私が、女王……?」
「ああ。カイルたちは君を『無能』と呼んだが、とんでもない節穴だ。君一人の魔力が、この国全体の豊穣を支えていたのだから」
アレクセイ様の話によると、私が王都を去った瞬間から、国中の精霊たちが私を追ってこの森へ移動してしまったらしい。
だから王都は枯れ、この森だけが異常に豊かになったのだと。
「ごめんなさい。私がそんな影響を与えていたなんて、知りませんでした」
「謝る必要はない。彼らが君を虐げた報いを受けただけだ。それに、君のおかげで私は救われた」
彼は私の手を両手で包み込み、熱っぽく語り始めた。
「私は生まれつき、動物に嫌われる呪いを持っていた。孤独だった。誰にも理解されず、心を閉ざしていた。……君に出会うまでは」
彼の指が、私の指に絡まる。
「君が私を助けてくれた時、初めて温もりを知った。君のそばにいる時だけ、世界が私を受け入れてくれる。君は私の光だ、レティシア」
直球すぎる告白。
顔が熱い。
心臓が爆発しそうだ。
でも、同時に胸の奥がチクリと痛んだ。
「でも……アレクセイ様は皇太子でしょう? 王都に戻らなければならない身です。私は追放された令嬢ですし、これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
身分の差。
そして、彼が背負う責任。
この森での楽しい日々は、今日で終わりなのかもしれない。
彼がカイル殿下を断罪した以上、事後処理で忙殺されるだろう。
もう、行商人の護衛のフリをして通ってくることはできないはずだ。
私が悲観的な未来を想像して俯いていると、アレクセイ様はふっと笑った。
「何を心配しているんだ? まさか、私が君を置いて帰ると思っているのか?」
「え?」
「言っただろう。私は君の護衛だと。主人がここにいるのに、護衛がどこへ行くと言うんだ」
「で、でも、公務は? 皇帝陛下や臣下の方々が困るのでは……」
「ああ、それなら問題ない」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、王家の紋章が入った正式な印が押されている。
「ここに来る前に、父上(皇帝)の許可を取ってきた。『王都の執務室と、私の個人的な離宮を繋ぐ転移ゲートを設置する』とな」
「転移ゲート……?」
「そうだ。これを使えば、王城とこのログハウスは徒歩0秒の距離になる。朝、ここで君の作った朝食を食べ、ゲートを通って出勤し、公務を片付けて夕方には帰ってくる。完璧な計画だろう?」
私は開いた口が塞がらなかった。
国宝級の魔道具である転移ゲートを、通勤用(?)に使うなんて。
しかも、この森を「離宮」として公認させた?
「それに、カイルの件で王家には貸しがある。私がこの森を『聖域』として管理し、レティシア嬢を『聖女』として保護するという名目で、予算も引っ張ってきた。君はここで好きなように暮らせばいい。誰も文句は言わせない」
彼は悪戯っ子のようないたずらっぽい笑顔を見せた。
この人、本当に行動力が規格外だ。
私の不安なんて、彼の策略の前では塵のようなものだった。
「……呆れました。アレクセイ様には敵いませんね」
「褒め言葉として受け取っておくよ。……それで、レティシア」
彼は表情を引き締め、改めて私の前に跪いた。
まるで、物語の中の王子様のように。
いいえ、彼は本物の王子様だけれど。
「私は、君が好きだ。君の優しさも、強さも、作るお菓子の味も、すべてを愛している」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。
パカッ、と開かれた箱の中には、森の緑を映したような、美しいエメラルドの指輪が輝いていた。
「どうか、私と結婚してほしい。王太子妃としてではなく、私アレクセイの唯一の妻として。……もちろん、君が望まないなら王都へ連れて行ったりはしない。この森で、ルルたちと一緒に、ずっと暮らそう」
彼の青い瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。
そこには一点の曇りもない、誠実な愛があった。
断る理由なんて、どこにもない。
私も、彼がいなければもう生きていけないくらい、彼に惹かれているのだから。
「……はい。喜んで、お受けします」
私が涙声で答えると、彼は世界一幸せそうな顔をして立ち上がり、私を強く抱きしめた。
「ありがとう、レティシア! 一生大切にする。絶対に君を泣かせたりしない!」
「ふふ、もう泣いていますよ」
「これは嬉し泣きだ。……愛している」
私たちの唇が重なる。
森の風が、祝福するように木の葉を舞い上げた。
足元ではルルが「わおーん!」と遠吠えし、ごんぞうが小さく火を吹いて花火を演出してくれた。
***
それから、数ヶ月が経った。
「いらっしゃいませ! 『森のカフェ・テラス』へようこそ!」
明るい声が森に響く。
私たちのログハウスは、少しだけ増築され、素敵なカフェに生まれ変わっていた。
ウッドデッキにはテーブルが並び、木漏れ日の中で優雅にお茶を楽しめるようになっている。
あの日以来、王都の混乱は急速に収束した。
カイル殿下とミリアは、アレクセイ様の予言通り、北の鉱山へ送られたそうだ。
アレクセイ様が王都と森を繋ぐ水路を整備し、私が森の精霊にお願いして水を分け与えたことで、王都の水不足も解消された。
その結果、王都の人々は私を「森の聖女」と呼び、感謝を捧げるようになった。
そして、アレクセイ様が設置した転移ゲート(一般用)を通じて、限られた人々がこの森へ遊びに来られるようになったのだ。
「あら、レティシア様。今日のケーキはなぁに?」
常連客の貴婦人が尋ねてくる。
彼女の足元には、ルルが寝そべって撫でられるのを待っている。
このカフェの売りは、私の手作りお菓子と、そして何より「もふもふたちとの触れ合い」だ。
「今日は新作の『ハニー・ナッツ・タルト』ですわ。ルルもお気に入りなんです」
「まあ、おいしそう! ルルちゃん、あなたも食べる?」
「わふっ!」
店内は笑顔と、動物たちの鳴き声で満ちている。
かつて「帰らずの森」と恐れられた場所は、今や国一番の癒やしスポットとなっていた。
カランカラン、とドアベルが鳴る。
入ってきたのは、銀髪に騎士服姿の男性。
仕事帰りのアレクセイ様だ。
「ただいま、レティシア。……ああ、今日も大盛況だな」
彼は少し疲れた顔をしていたが、私とルルたちの顔を見た瞬間、表情がふわりと緩んだ。
「おかえりなさい、あなた。お仕事お疲れ様です」
私はカウンターから出て、彼に駆け寄った。
結婚してから、私たちはこの森で新婚生活を送っている。
彼は宣言通り、毎朝ここから出勤し、夕方には必ず帰ってくる。
たまに宰相様が「殿下、残業を!」と泣きついてくるそうだが、アレクセイ様は「妻が待っているので」と颯爽と帰ってくるらしい。
「レティシア、エネルギー補給を頼む」
彼は甘えるように両手を広げた。
私は苦笑しながら、その胸に飛び込む。
「はいはい。……チュッ」
軽く頬にキスをすると、彼は満足そうに目を細めた。
周りのお客さんたちが「あらあら」「ご馳走様」と冷やかす声が聞こえる。
「さあ、着替えてきますね。夕食はあなたの好きなシチューですよ」
「最高だ。……ああ、本当に幸せだ」
アレクセイ様は私を抱きしめたまま、ルルの背中に顔を埋めた。
もふもふと、愛する人。
彼にとっての楽園は、今日も健在だ。
私は窓の外を見た。
夕日が森を金色に染めている。
かつて婚約破棄され、全てを失ったと思った私。
でも、その先には想像もしなかった素晴らしい日々が待っていた。
意地悪な人たちはもういない。
ここにあるのは、温かい紅茶と、甘いお菓子。
頼もしい聖獣たち。
そして、私を世界一愛してくれる旦那様。
「私も……幸せです」
私は彼の腕の中で、小さく呟いた。
森の精霊たちが、キラキラと光の粉を降らせて祝福してくれる。
私たちの「もふもふスローライフ」は、まだ始まったばかりだ。
これからもきっと、たくさんの笑顔と驚きが、この森で生まれることだろう。
第1章完です!!
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