第11話:聖獣激怒と皇太子の正体
「兄……上?」
私の口から漏れた言葉は、風に乗って虚しく消えた。
地面に這いつくばったまま、私は目の前の男を見上げていた。
銀色の髪。
氷のように冷たい青い瞳。
そして、見る者全てをひれ伏させる圧倒的な覇気。
間違いない。
この男は、帝国の至宝にして最強の皇太子、アレクセイ・ヴァン・ユークリッドだ。
だが、私の脳はその事実を拒絶した。
あり得ない。
あの冷徹で、人間嫌いで、動物にすら近づかない兄上が、なぜこんな辺境の森にいる。
しかも、あろうことかレティシア如きを背に庇い、私に剣を向けているだと?
「馬鹿な……偽物だ」
私は震える足で立ち上がり、叫んだ。
「騙されるな! こいつは兄上ではない! 兄上に化けた魔物か何かだ!」
そうだ、そうに違いない。
レティシアは魔女だ。
幻影魔法を使って私を惑わそうとしているのだ。
本物のアレクセイ兄上なら、公務を放り出してこんな場所に来るはずがない。
ましてや、私のような王族を投げ飛ばすなど、秩序を重んじる兄上には考えられない蛮行だ。
「総員、構えろ! こいつは不敬罪の犯罪者だ! レティシア諸共、切り捨てろ!」
私の命令が響く。
しかし、騎士たちは動かない。
いや、動けないのだ。
折られた剣を握りしめ、ガタガタと震えながら後ずさりしている。
「で、殿下……無理です……あの強さは、本物の……」
「視線だけで殺される……」
「ええい、臆病者め!」
私は近くにいた騎士の剣を奪い取った。
誰もやらないなら、私がやる。
この偽物を倒し、ミリアに雨を降らせ、私が英雄になるのだ。
それが正義だ。
私のシナリオに、こんなイレギュラーは存在してはならない。
「死ねぇぇぇ!」
私は叫び声を上げ、アレクセイ(偽物)に向かって突進した。
剣術には自信がある。
王宮の稽古でも、騎士団長に褒められた腕前だ。
私の剣が、男の首筋を捉える。
――はずだった。
ガキンッ!
乾いた金属音が響き、私の手から衝撃が走った。
剣が弾かれたのではない。
止められたのだ。
男の剣によってではない。
「……は?」
私の目の前に、白い壁があった。
いや、壁ではない。
巨大な、銀色の毛並みを持つ獣の前足だ。
見上げると、そこには家屋ほどもある巨大な狼がいた。
さっきまでレティシアの足元にいた、あの中型犬くらいの狼ではない。
見上げるほどの巨躯。
口からは冷気を吐き出し、その眼光は地獄の番犬のように鋭い。
「グルルルルォォォォォ……!」
狼が吠えた。
それだけで突風が巻き起こり、私は枯れ葉のように吹き飛ばされた。
「ぐわぁっ!」
背中を地面に強打する。
息が詰まる。
何だ、あれは。
あんな魔獣、図鑑でも見たことがない。
「ルル、汚い男に触れるな。毛並みが汚れるぞ」
アレクセイ(偽物)が、平然とした声で言った。
すると、あの巨大な怪物が「クゥン」と甘えた声を出し、男の足元に擦り寄ったのだ。
あの怪物を、手懐けている?
動物に嫌われる呪いを持つ兄上が?
「……ごんぞう、君もだ。あまり派手に燃やすなよ。レティシアの庭が傷つく」
男が肩に乗っていたトカゲに話しかける。
トカゲ?
いや、あれも違う。
小さなトカゲが光に包まれたかと思うと、次の瞬間には翼を広げた巨大な竜へと変貌していた。
翡翠色の鱗が陽光を反射して輝く。
古竜。
神話の中にしか出てこない、最強の種族だ。
「嘘だ……」
私は腰を抜かしたまま、後ずさりした。
フェンリルに、エンシェントドラゴン。
国一つを滅ぼせる伝説の聖獣が、二体もここにいる。
そして、それらがレティシアとあの男を守るように陣取っている。
「ひぃっ! いやぁぁぁ!」
悲鳴が聞こえた。
ミリアだ。
彼女はドレスの裾を乱し、顔面蒼白で逃げ出そうとしていた。
「ミリア! 待て、私を置いていくな!」
「知らない! あんたがやれって言ったんじゃない! 私は関係ないわ! 魔女なんてどうでもいい、帰らせてよぉぉ!」
彼女は森の出口へと走る。
だが、その進路を塞ぐように、森の木々が動き出した。
木の根が蛇のようにうねり、ミリアの足を絡め取る。
「きゃあぁぁぁ!」
ミリアが転倒する。
周囲の茂みから、無数の動物たちが現れた。
熊、大鷹、巨大な猪。
普段なら狩猟の獲物になるはずの動物たちが、知性のある目で私たちを包囲している。
逃げ場はない。
完全に詰んでいる。
「さて、カイル」
銀髪の男が、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
聖獣を従え、その手には漆黒の剣。
魔王がいるとすれば、まさにこの姿だろう。
「兄上……なのか?」
私は認めざるを得なかった。
この圧倒的な力。
そして、私を見る冷酷な目。
これは幻ではない。
本物のアレクセイ兄上だ。
「ようやく理解したか、愚弟よ」
兄上は私の目前で足を止めた。
見下ろされる屈辱。
だが、反論する気力すら起きない。
生物としての格が違いすぎる。
「な、なぜ……ここに……。国が大変な時に、こんな場所で何を……」
「国が大変?」
兄上は鼻で笑った。
「誰のせいだと思っている。お前たちがレティシアを追放したから、国は枯れたのだぞ」
「だ、だから! あいつを連れ戻しに来たのです! あいつに呪いを解かせれば……」
「まだ呪いなどと言っているのか。お前の目は節穴か?」
兄上は呆れたようにため息をついた。
そして、背後にいるレティシアを振り返った。
彼女は巨大化したルルの影で震えている。
「レティシアは呪ってなどいない。彼女はただ、愛されていたのだ。精霊にも、聖獣にも、この土地そのものにも」
兄上の声には、レティシアへの深い慈愛が滲んでいた。
私には一度たりとも向けられたことのない、温かい声色。
「彼女がいたから、王都には精霊が集まり、水が湧き、花が咲いていた。お前はその『幸運の女神』を、自らの手でドブに捨てたのだ。女神がいなくなれば、恩恵が消えるのは道理だろう?」
「そ、そんな……」
信じたくなかった。
あの地味で無能なレティシアが?
私が蔑み、ミリアと比較して嘲笑っていたあの女が、国を支えていたというのか?
「嘘だ! ミリアの方が魔力は高かった! 成績表にもそう書いてあった!」
私は最後の拠り所に縋った。
「改竄だ」
兄上は冷たく言い放った。
「ミリアとその実家が、学園長に賄賂を贈ってデータを書き換えさせていた。調査済みだ。ついでに言えば、ミリアの『聖なる祈り』とやらも、ただの演出だ。彼女には聖女の適性など欠片もない」
「あ……」
ミリアの方を見る。
彼女は木の根に拘束されたまま、顔を伏せて震えている。
否定しない。
それが答えだった。
私の足元が崩れ落ちるような感覚。
私は偽物を掴まされ、本物を捨てたのか。
それも、国を滅ぼすほどの代償を払って。
「そんな……私は、騙されていたのか……?」
「お前が真実を見ようとしなかっただけだ。自分の都合のいい嘘に浸り、レティシアの献身を踏みにじった。その罪は重いぞ」
兄上の剣先が、私の喉元に触れた。
冷たい感触。
死の予感。
「ひっ……!」
「本来なら、ここで首を刎ねて終わりにしてやりたいところだが」
兄上は剣を引いた。
そして、今まで見たこともないような、邪悪な笑みを浮かべた。
「それじゃあ生温い。お前たちには、これからたっぷりと『現実』を見てもらう」
兄上は指を鳴らした。
すると、包囲していた騎士たちの鎧が、魔法によって次々と弾け飛んだ。
武器も、身分証も、すべてが没収される。
残されたのは、下着同然の姿になった騎士たちと、泥まみれの私とミリアだけ。
「騎士団長に伝令を送った。お前たちの愚行と、レティシアへの冤罪、そしてミリアの詐欺行為。すべてを記した告発状だ。今頃、王都中に号外が出ているだろうな」
「な……!?」
「お前はもう王子ではない。ただの罪人だ。王族籍の剥奪と、国外追放。……ああ、追放先はここではないぞ。北の凍土、極寒の鉱山がお似合いだ」
廃嫡。
追放。
私の未来が、音を立てて閉ざされた。
王族としての特権も、贅沢な暮らしも、すべてが終わる。
「ま、待ってください兄上! 私は弟ですよ! 血の繋がった弟じゃないですか! 謝ります、レティシアにも謝りますから!」
私は地面に頭を擦り付けた。
プライドなどどうでもいい。
助かりたい。
あの惨めな鉱山送りだけは嫌だ。
「レティシア様! 君からも言ってくれ! 昔のよしみだ、許してくれ!」
私はレティシアに向かって叫んだ。
彼女はお人好しだ。
きっと私を哀れんで、兄上を止めてくれるはずだ。
レティシアが、おずおずと前に出てきた。
彼女は悲しげな瞳で私を見下ろしている。
「カイル殿下……」
「そうだ、レティシア! 私たちは愛し合っていたじゃないか! やり直そう、な?」
私は必死に笑顔を作った。
レティシアは静かに首を横に振った。
「いいえ。私は貴方を愛していたつもりでしたが……貴方が愛していたのは、私の『家柄』と『能力』だけでした。今の私には、貴方を許す理由が見当たりません」
彼女の声は震えていたが、そこには確固たる拒絶があった。
「それに……私にはもう、守りたい人がいますから」
彼女はそっと兄上の袖を掴んだ。
兄上は愛おしそうに彼女の手を握り返す。
「聞いたか、カイル」
兄上は勝ち誇った顔で私を見た。
「彼女は私を選んだ。お前の入る隙間など、この世界のどこにもない」
絶望だった。
完全に負けたのだ。
力でも、権力でも、そして愛でも。
その時、頭上のエンシェントドラゴンが大きく口を開けた。
喉の奥で灼熱の炎が渦巻いている。
「ギャァァァァ!」
ドラゴンが火を吹いた。
それは私を直撃する軌道――ではなく、私のすぐ横の地面を焼き払った。
凄まじい熱波。
地面が溶け、ガラス状に固まる。
あと数センチずれていれば、私は灰になっていただろう。
「ひぃぃっ! 助けて! もうしません! 許してぇぇ!」
私は情けなく悲鳴を上げ、失禁しながら這いつくばった。
ミリアも泡を吹いて気絶している。
騎士たちは全員土下座し、命乞いをしている。
兄上は冷ややかに言った。
「ごんぞうが『次は外さない』と言っている。……さあ、消えろ。二度とこの森に近づくな。王都の関所までは騎士団に護送させる。そこからは地獄の鉱山ツアーだ。楽しんでくるといい」
兄上が手を振ると、森の木々が道を開けた。
しかし、それは歓迎の道ではない。
茨と泥にまみれた、敗走者のための道だ。
私たちは逃げた。
転がるように、這うようにして、その場から逃げ出した。
後ろからは、フェンリルの遠吠えと、兄上の高らかな笑い声が追いかけてくる気がした。
森を出た時、空はまだ灰色だった。
だが、もう私には、その空を見上げる資格すらない。
王都に戻れば断罪が待っている。
逃げ場はない。
私がレティシアに与えようとした絶望が、何倍にもなって私に降り注いでいた。
「ちくしょう……ちくしょう……!」
私の涙は、泥に混じって誰にも顧みられることはなかった。
これが、愚かな王子の末路だった。




