第1話:婚約破棄は突然に
「レティシア! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
王立学園の卒業パーティー会場。
カイル殿下の絶叫が、華やかな音楽をかき消した。
ダンスを楽しんでいた令嬢や貴族たちが、驚愕の表情で動きを止める。
数秒の静寂の後、会場はざわめきに包まれた。
私は、手に持っていたグラスを給仕の盆にそっと戻す。
扇を開き、口元の緩みを隠した。
ついに、この時が来た。
私の目の前には、金髪を逆立てて激昂するカイル殿下。
そして彼の腕には、私の義妹であるミリアがしがみついている。
「……カイル殿下。突然のお言葉ですが、理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
私は努めて冷静に問い返した。
ここで取り乱しては、相手の思う壺だ。
カイル殿下は勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「理由だと? よくも白々しい! 貴様が長年にわたり、この愛らしいミリアを虐げてきたことは明白だ!」
殿下の腕の中で、ミリアがさらに体を小さく震わせる。
「お姉様……ごめんなさい。私が、私がもっと我慢すればよかったのよね……」
嘘泣きだ。
目元を覆うハンカチの下で、彼女の口角が吊り上がっているのが見えなくても分かる。
「ミリア、君は謝る必要などない。悪いのは全て、才能のない姉の嫉妬心なのだから!」
カイル殿下は正義の執行者の顔で、私を指差した。
「レティシア、貴様は『聖女』の家系に生まれながら、その力を持たぬ無能だ。そればかりか、ミリアの『聖なる祈り』の功績まで自分のものだと偽ってきた。その強欲さ、浅ましさ、将来の国母として断じて認められん!」
周囲から軽蔑の視線が突き刺さる。
ひそひそとした嘲笑が耳に届く。
「やはり噂は本当だったのね」
「妹の成果を盗むなんて」
「地味で何の取り柄もない方だと思っていたけれど」
私は反論を飲み込んだ。
何を言っても無駄だ。
我が家である侯爵家において、両親も使用人も、そして婚約者であるカイル殿下も、すべてミリアの味方なのだから。
私が夜通し結界石に魔力を込めていたことも、薬草園の世話をして聖薬を作っていたことも、誰も見ていない。
翌朝、完成した成果物をミリアが「できました」と笑顔で差し出せば、それは彼女の功績になる。
弁明は不要だ。
むしろ、この状況は好機ですらある。
「……承知いたしました。婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
私が淑女の礼をとると、カイル殿下は拍子抜けした顔をした。
泣いて縋り付いてくるとでも思っていたのだろう。
「ふん、罪を認める殊勝さはあるようだな。だが、ただの婚約破棄で済むと思うなよ」
カイル殿下は残忍な笑みを浮かべ、高らかに宣言した。
「レティシア・ルミエル。貴様を国外追放処分とする! 行き先は東の果て、『帰らずの森』だ!」
会場から悲鳴が上がった。
「帰らずの森」。
そこは、凶暴な魔獣が跋扈し、一度入れば二度と生きては戻れないとされる死の領域。
処刑と同義の命令だ。
ミリアが「まあ、可哀想なお姉様」と言いながら、殿下の胸に顔を埋める。
しかし。
私の心臓は、恐怖ではなく期待で高鳴っていた。
帰らずの森。
あそこは確か、人が立ち入らないために手つかずの自然が残されている場所。
そして何より、絶滅したはずの珍しい動物たちが生息しているという文献を読んだことがある。
王都での生活は息が詰まるだけだった。
人間は私を蔑むが、屋敷の庭に来る小鳥や野良猫だけは、私に優しかった。
誰にも邪魔されず、動物たちと静かに暮らせるなら。
それは処刑場ではなく、楽園ではないだろうか。
「……命令、謹んでお受けいたします」
私は顔を上げ、今日一番の晴れやかな笑顔を彼らに向けた。
「今すぐ出発いたしますわ。荷造りの時間も惜しいので、このまま身一つで参ります」
「は……?」
カイル殿下が呆気にとられている。
私はドレスの裾を翻し、出口へと歩き出した。
未練はない。
さようなら、私を愛さなかった人たち。
これからは私の好きなように生きさせてもらう。
私は重厚な扉を押し開け、夜の闇へと足を踏み出した。
その先に待つのが、毛皮の温もり溢れる至福の日々だとは、まだ知らずに。




