濡れ衣 前編
蛍光灯の白い光が、夜の静寂を切り裂くように店内を照らしていた。コンビニの夜勤アルバイト。桜井美穂にとって、それは退屈だが平穏な日常の一部だった。雑誌のインクの匂い、コーヒーマシンの作動音、そして時折ドアが開くチャイムの音。世界はいつも、この小さな箱の中で完結していた。
深夜一時。最後の客が吐き出したタバコの煙が夜気へと消えた後、美穂は慣れた手つきでレジの点検を始めた。その時だった。店の前に、音もなく一台の黒いセダンが滑り込んできたのは。
降りてきたのは、夜のコンビニには不似合いなスーツ姿の男が二人。一人は年配で、もう一人は若い。彼らは商品棚には目もくれず、まっすぐにレジカウンターへと向かってきた。その硬い表情に、美穂の胸が小さくざわめいた。
「夜分にすみません。あなたが、桜井美穂さんですか?」
年配の男が、感情の読めない声で尋ねた。警察手帳の鈍い輝きが、美穂の瞳に突き刺さる。
「はい、そうですが……何か?」
「任意で結構ですので、署までご同行願えますか。殺人事件の件で、少しお話を伺いたい」
殺人。その単語が、美穂の思考を純白に塗りつぶした。手足の感覚が遠のき、自分が立っているのか座っているのかさえ曖昧になる。
「……人違いでは? 私は、何も」
「詳しいことは署でご説明します。さあ」
有無を言わさぬ口調だった。店長に震える声で電話をかけ、美穂はパトカーの後部座席に乗せられた。流れていく街の灯りが、まるで別世界の景色のように見えた。
取調室の空気は、冷たく、重かった。目の前に座る鋭い目つきの刑事は、美穂の心を丸裸にするように、じっとりと値踏みするような視線を向けてくる。
「昨夜の午後十一時頃。あなた、どちらにいらっしゃいましたか?」
「自宅にいました。一人で……」
「それを証明できる方は?」
「いません。一人暮らしなので」
刑事は嘲るように鼻を鳴らし、一枚の写真を机に滑らせた。それは、見知らぬ中年男性が血溜まりに横たわる、凄惨な現場写真だった。
「被害者の田辺義男さんです。彼を刺したナイフから、あなたの指紋が検出されました」
「そんなはず、ありません! 私はこの方を全く知りません!」
「そうですか? では、これは?」
刑事は続けて、被害者のものだというスマートフォンの画面を見せた。そこには、隠し撮りされたであろう美穂の写真が、何枚も保存されていた。通勤中の後ろ姿、コンビニで働く横顔、アパートに出入りする瞬間。
「田辺さんは生前、あなたからのストーカー行為に悩んでいると、警察に相談に来ていました。あなたに付きまとわれ、精神的に追い詰められていた、とね」
話が逆だ。もしこれが事実なら、ストーカーをしていたのは田辺という男の方ではないか。だが、美穂の必死の訴えは、刑事の厚い壁に跳ね返されるだけだった。
「嘘です! 私は被害者です! なぜ私の指紋が……」
「桜井さん、もう見苦しい言い訳はやめなさい。正直に話せば、少しは心証も良くなる」
駆けつけた弁護士も、あまりに不利な状況証拠を前に、固く口を閉ざすばかりだった。指紋、写真、そして被害届。完璧に仕組まれた罠。しかし、一体誰が、何のために? 美穂の言葉を信じてくれる者は、この世界にもう誰もいなかった。
三日後、決定的な証拠不十分で、美穂は一旦釈放された。だが、それは地獄の始まりに過ぎなかった。
「殺人犯かもしれない女」。
無言のレッテルが、美穂の額に貼り付けられた。職場では、同僚たちのひそひそ話と侮蔑の視線が突き刺さる。大学時代の友人たちからの連絡は、ぱったりと途絶えた。アパートの廊下ですれ違う住人は、まるで汚物でも見るかのように目を逸らし、足早に通り過ぎていく。
日常は、音を立てて崩れ落ちた。街の雑踏を歩いていても、自分だけが透明な壁に隔てられているような孤独感がまとわりつく。
誰も信じてくれないのなら、自分で証明するしかない。
美穂は決意した。この濡れ衣を晴らすため、そして自分を陥れた真犯人を見つけ出すために。田辺義男という男の身辺を洗い始めたが、SNSにも、過去のニュースにも、彼と自分を結びつける接点は何一つ見つからなかった。なぜ彼は私の写真を? なぜナイフに私の指紋が? 謎は深まるばかりだった。
調査を始めて一週間が経った頃、美穂は街に潜む、ある異変に気づき始めた。
最初は、気のせいだと思っていた。昨日、駅のホームで見かけた女性。今日、カフェの店員として働いている。一昨日、すれ違ったサラリーマン。今日、工事現場で交通整理をしている。顔が、同じなのだ。
見間違い? ドッペルゲンガー? いや、違う。確信があった。同じ顔の人間が、違う役割を演じながら、この街に複数存在している。
ある日の午後、美穂は恐怖に震えながら、スマートフォンのカメラを向けた。目の前の横断歩道を渡っていく、見覚えのある顔の刑事。昨日、取調室で自分を詰問した、あの刑事だ。だが、シャッターを切り、写真を確認した美穂は絶句した。
そこに映っていたのは、全く見知らぬ、人の良さそうな初老の男性だった。
「……おかしい」
何かが、狂っている。この街が? それとも、私自身が?
世界が、まるで薄っぺらな舞台の書き割りのように感じられた。人々は決められた役を演じる役者で、自分だけが筋書きを知らない観客。いや、あるいは──筋書き通りに破滅へと向かう、哀れな主人公なのか。
美穂は、得体の知れない巨大な何かに、じわじわと飲み込まれていくような恐怖に囚われていた。
日本、世界の名作恐怖小説をオーディオブック化して投稿したりもしています。
画面はスマホサイズで見やすいと思います。
良ければ覗いてください。
https://youtu.be/YPxvLTcWz04?si=HGAmtIVdKSchEue8
よろしくお願いします。




