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闇の栞、ホラー短編集  作者: 猫森満月


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雨宿りをする

 仕事帰り、最寄り駅を出た途端、空が裂けるような豪雨に襲われた。

 傘は持っていない。仕方なく走り出したが、瞬く間に全身がずぶ濡れになる。

 前が見えず、息も苦しい。やむを得ず、俺は細い路地に入り、古びた軒先で雨宿りをすることにした。


 そこはシャッターが閉じられた駄菓子屋のような店で、色あせた看板には「おかし処」とかすれた文字が残っている。もう何年も営業していないのだろう。

 ひび割れたガラス越しに、棚の影が不気味に並んで見えた。


 ――ドサッ。


 すぐ横で何かが落ちた音がして、心臓が跳ねる。

 見ると、誰もいない。雨粒が看板を叩きつけているだけだった。


 俺は深呼吸し、腕時計を見た。午後十時を過ぎている。こんな場所で雨が止むのを待つのは心細い。だが、豪雨の中を強行する勇気もなかった。


 仕方なく軒下に背を預けていると、不意に背後のガラス窓が「コツ、コツ」と叩かれた。


 振り返ると、曇ったガラスの向こうに、人影があった。

 中から誰かが覗いている。濡れた黒髪がガラスに貼り付き、顔の輪郭が不鮮明だ。


 「……すみません、このお店は閉まってますよね?」


 声をかけてみたが、返事はない。

 人影はじっとこちらを見つめているようだった。


 次の瞬間、ガラスが曇りに指で描かれる。

 ――たすけて。


 背筋が凍りついた。


 どうすることもできず立ち尽くしていると、後ろの路地から足音が近づいてきた。振り返ると、そこに一人の女が立っていた。


 赤い傘を差した、二十代くらいの女。雨の中でも妙に鮮やかに見える赤だった。


「雨宿りですか?」

 女は微笑んだ。妙に冷たい笑みだった。


「あ、ええ……」

 言葉を濁す俺に、女は傘を差し出した。


「これ、使ってください」


 受け取ろうと手を伸ばした瞬間、ガラス窓が激しく叩かれた。

 バンッ!バンッ!


 見ると、ガラスの内側で先ほどの人影が必死に手を振っている。

 そして再び指で文字を書いた。


 ――その女についていくな。


 血の気が引いた。

 女はなおも穏やかな声で言う。

「大丈夫、この先に雨をしのげる場所がありますから」


 俺は傘を受け取ることができず、ただ立ち尽くした。

 すると女の笑みがわずかに歪み、赤い傘の下で表情が溶けるように崩れていった。


 目も鼻も口も消え、のっぺりとした白い顔になる。

「……来て」


 耳ではなく頭の奥に直接響く声だった。

 その瞬間、足が勝手に前へ踏み出しそうになった。


「違う! 行っちゃだめ!」


 背後のガラスから、今度ははっきりと声が響いた。女の声だ。

 振り返ると、ガラスの中に閉じ込められた女性が必死に手を伸ばしている。

 「逃げて!」


 はっとして我に返った俺は、赤い傘の女の横をすり抜け、豪雨の中へと走り出した。


 気づけば駅前の明るい通りに戻っていた。振り返っても、路地も古びた店も、もう影も形もない。


 ずぶ濡れのまま家にたどり着き、ようやく安堵したとき――玄関のドアに赤い傘が立てかけられているのに気づいた。

 滴る雨粒が、じわりと玄関マットを濡らしている。


 慌ててドアを開けると、誰もいなかった。

 だが、耳の奥にあの声が蘇る。


「……来て」


 振り返った窓ガラスには、曇りに指で描かれた文字が浮かんでいた。


 ――つぎは守れない。


 冷たい水滴が頬を伝う。それが雨なのか、涙なのか、自分でもわからなかった。

日本、世界の名作恐怖小説をオーディオブック化して投稿したりもしています。

画面はスマホサイズで見やすいと思います。

良ければ覗いてください。


https://youtu.be/YPxvLTcWz04?si=HGAmtIVdKSchEue8

よろしくお願いします。

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