放課後の鏡 後篇
あの夜以来、俺たちの日常は、静かに、だが確実に狂い始めた。
翌朝、教室に現れた美沙は、いつも通りに笑っていた。友達と昨日のテレビ番組の話をし、俺にも「おはよう」と声をかけてくれた。だが、その笑顔はどこか薄っぺらく、まるで精巧な仮面を貼り付けたように見えた。話しかけても、返事が一瞬遅れる。時折、ふいっと焦点の合わない視線を宙に彷徨わせる。
そして何より、彼女の瞳の奥に、昨日鏡で見たあの“影”が、じっと息を潜めて潜んでいるような気がしてならなかった。
気のせいだ。俺は必死に自分に言い聞かせた。あんなものは、暗がりが見せたただの幻覚だ。彼女は俺がずっと焦がれてきた、大切な人。くだらない怪談に呑み込まれてしまうような、弱い人間じゃない──。
そう信じたかった。だが、その日の放課後。廊下の窓ガラスに反射した美沙の姿が、ほんの一瞬だけ、こちらを振り返って、にたりと笑ったのを見てしまった時。俺の背筋を、氷水が流れ落ちるような悪寒が走った。
隣を歩く本物の彼女は、何も気づいていない。ただ前を向いて歩いている。ガラスの向こうの“何か”だけが、俺を嘲笑っていた。
数日が経ち、俺は限界だった。彼女の中に巣食う“何か”の気配は、日に日に色濃くなっていく。笑い声は甲高く、時折見せる表情は、俺の知らない誰かのものだった。もう、見て見ぬふりはできない。
俺は意を決して、彼女を校舎裏に呼び出した。
「美沙、話がある」
夕焼けが、彼女の顔を赤く染めている。あの日と同じ、美しい光景。だが、そこにいる彼女は、もう俺の知っている美沙ではなかった。
「なぁに?」
振り返った彼女は、薄く笑っていた。言葉が、喉に詰まる。本当は、ずっと前から伝えたかった言葉があった。「好きだ」と。だが、今目の前にいる彼女は──本当に、俺の好きな“高槻美沙”なのだろうか?
「……あの鏡の日から、お前の様子、変だよ。大丈夫なのか?」
やっとのことで絞り出した声は、情けなく震えていた。
彼女はしばらく黙ったまま、俺の目をじっと見つめていた。その瞳の奥の闇が、まるで渦を巻いているように見える。やがて、彼女は小さな声で囁いた。
「ねえ……鏡の中の子がね、まだ私を見てるの」
「……!」
「ずっと、頭の中で話しかけてくるの。『かわって』って……」
その瞬間、心臓を鷲掴みにされたように苦しくなった。冗談じゃない。幻覚なんかじゃない。本当に“あれ”は存在するのだ。
「助けて……」
彼女が、俺の手をぎゅっと握った。氷のように冷たい。だが、俺はその手を振り払うことができなかった。恋と恐怖が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、思考を麻痺させる。俺が、彼女を助けなければ。
その夜。俺はバールを片手に、一人で旧校舎へと向かった。逃げてはいけない。目を逸らしてはいけない。あの忌まわしい鏡を叩き壊せば、きっと、元の美沙を取り戻せる──。そう、信じて。
月明かりだけが差し込む理科準備室に、鏡は静かに佇んでいた。そこには、恐怖に引きつった俺の姿が映っている。いや、違う。“俺”が、ゆっくりと口角を吊り上げ、嗤っていた。
『お前も、こっちに来いよ』
鏡の中から、低い声が響いた。それは、紛れもなく俺自身の声だった。
俺は絶叫し、震える手で握りしめたバールを、鏡の中心に全力で叩きつけた。
ガシャアアアアン──!
甲高い破壊音と共に、鏡は粉々に砕け散った。硝子の破片が、月光を乱反射させながら床に散らばる。終わった。これで、全て……。
だが、安堵したのも束の間。俺は信じられない光景に凍りついた。
割れたはずの鏡の破片、その一つ一つに、“もう一人の俺”が立っていたのだ。床に散らばる無数の俺が、いっせいにこちらを見て、笑っている。
「──ねえ」
背後で、愛しい声がした。振り返ると、美沙が立っていた。制服姿のまま、感情の抜け落ちた瞳で、じっとこちらを見ている。
その瞳には、もう俺の知らない、深い深い闇だけが沈んでいた。
「もう、いいんだよ」
「こっちにおいでよ」
鏡の破片に映る無数の俺と、目の前に立つ美沙の声が、不気味に重なり合った。
俺は叫びながら後ずさる。だが、足元の硝子片に映る自分の顔も、いつの間にか、あの歪んだ笑みを浮かべていた。
──どれが本当の俺で、どれが偽物なのか。
──目の前にいるのは、本当に美沙なのか。
意識が、ぐにゃりと溶けていく。
翌朝。教室には、いつも通りの日常があった。美沙が、屈託のない笑顔で友達と話している。そして、何事もなかったかのように、こちらを向いて手を振った。
「おはよう!」
俺は、答えられなかった。
その完璧な笑顔が、俺の知っている彼女のものなのか、それとも──鏡の向こうからやってきた、得体の知れない“誰か”のものなのか。
もう、それを確かめる術も、勇気も、俺には残されていなかった。
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