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闇の栞、ホラー短編集  作者: 猫森満月


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放課後の鏡 前篇

 最後のチャイムが鳴り響き、教室を満たしていた喧騒が嘘のように遠ざかっていく。誰もいなくなった空間は急に広く感じられ、窓から差し込む西日が、床に伸びる机と椅子の長い影を焼き付けていた。まるで世界から取り残されたような、特別な時間。俺はその静寂の中で、教科書を鞄に詰めながら、隣の席の彼女──高槻美沙を盗み見ていた。


 誰にでも気さくに話しかけるタイプではない、物静かな彼女。でも、ふとした時に見せる柔らかな笑顔や、窓の外を眺める真剣な横顔、風に揺れる細い髪。その一つ一つが、ずっと俺の心を捉えて離さなかった。告白なんて大それたこと、考えたこともない。ただ、この放課後の静かな空気の中、もう少しだけ隣にいられるのなら。それだけで充分だった。


 そんな時だった。彼女が、ぽつりと俺に声をかけたのは。

「ねえ……“旧校舎の合わせ鏡”って、知ってる?」


 不意打ちだった。心臓が大きく跳ねる。彼女から話しかけてくれるなんて、初めてかもしれない。


「いや、知らないな。何だ、それ?」

「学校の七不思議、みたいな噂だよ。今は使われてない理科準備室に、すごく古い姿見があるんだけど……」


 彼女の声は、夕陽に溶けるように儚く、どこか怯えているようにも聞こえた。


「夜中にその鏡の前に立つと、もう一人の自分が映るんだって。絶対に振り向いちゃいけない方の、自分が」

「くだらない怪談だろ」


 強がって笑ってみせた俺を、彼女はまっすぐな瞳で見つめ返した。その真剣な眼差しに、どきりとする。


「……今日、確かめに行ってみない?」


 時が止まった気がした。彼女と、二人きりで、放課後の旧校舎へ。それは、どんなホラー映画よりも恐ろしく、どんな恋愛映画よりも甘美な響きを持っていた。怖さよりも先に、どうしようもない期待が胸の奥から込み上げてくる。断るなんて選択肢は、最初からなかった。


 茜色だった空が深い藍色に沈む頃、俺たちは固く閉ざされた旧校舎の扉を開けた。ひやりとした湿った空気が、埃の匂いを乗せて肌を撫でる。窓ガラスの向こうでは、夕闇に沈んだ森の木々が、まるで黒い人影のように揺れていた。


 きしむ廊下を歩くたび、すぐ隣を歩く美沙の肩が、俺の腕にふわりと触れる。そのたびに、緊張と、抑えきれない高揚感で息が詰まりそうになった。怖い、という感情は、確かにあった。だがそれ以上に、彼女のすぐそばにいられるこの状況が、俺の心を酔わせていた。


 理科準備室の扉を開けると、カビと薬品の入り混じった独特の匂いがむっと押し寄せる。打ち捨てられた実験器具や、黄色く変色した人体模型が、部屋の隅で静かに息を潜めていた。そして、奥の壁に、それは立てかけられていた。


 縁は黒く錆びつき、鏡面には無数の傷と、拭えない曇りが広がっている。それでもなお、窓から差し込む最後の光を鈍く反射し、不気味な存在感を放っていた。


「……これ、だよ」


 美沙が囁く。その声は、消え入りそうにかすかに震えていた。俺は精一杯の平静を装い、一歩前に出る。


「本当にやるのか?」

「……うん。怖いけど、知りたいから」


 その横顔を見つめていると、胸が締め付けられるように痛んだ。今すぐ彼女の手を取って、「やめよう、帰ろう」と言うべきなのかもしれない。けれど、俺は言えなかった。彼女の願いを叶えてあげたい。ただそれだけの理由で、俺はこの禁断の領域に、彼女と共に足を踏み入れてしまったのだ。


 美沙は一度、深呼吸をして、鏡と向き合った。夕陽に照らされた白い頬が、ほんのり赤く染まっている。彼女の唇が、ゆっくりと動いた。自分の名前を、三度、静かに唱える。


 シン、と部屋が静まり返る。

 古い時計の針が時を刻む音だけが、やけに大きく響いていた。


 一秒が、永遠のように長い。

 やがて、緊張の糸が切れたように美沙がふっと笑った。

「……なにも、起きないね。ただの噂、だったみたい」


 そう言って彼女が安堵の息をついた、まさにその瞬間だった。


 ──鏡の中の彼女が、ほんのわずかに、こてん、と首を傾げた。


 俺は息を呑んだ。隣に立つ美沙は、動いていない。微動だにしていない。

 鏡の中の“もう一人の美沙”だけが、こちらをじっと、値踏みするように見つめている。

 そして、ゆっくりと、その口元を三日月のように吊り上げた。


 耳元で、誰かの声がした。

 まるで、すぐ真後ろで囁かれたような、冷たい声。


『──みぃ、つけた』


 美沙が絶叫し、俺の腕に強くしがみついた。その瞬間、部屋の温度が数度下がったような、肌を刺す悪寒が走った。


 俺たちはもつれるようにして廊下へ飛び出し、転がるように階段を駆け下りた。振り返る余裕なんてなかった。ただ、遠ざかる旧校舎の奥深くで、鏡の表面がびしゃりと濡れたように揺らめく音が、確かに聞こえていた。

日本、世界の名作恐怖小説をオーディオブック化して投稿したりもしています。

画面はスマホサイズで見やすいと思います。

良ければ覗いてください。


https://youtu.be/YPxvLTcWz04?si=HGAmtIVdKSchEue8

よろしくお願いします。

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