咳
夜の住宅街は、不自然なほど静まり返っていた。
秋の冷たい空気が肺に刺さり、吐く息が白い。残業帰りの俺は、人気のない道を足早に歩いていた。
カッ……カッ……と、靴底がアスファルトを叩く音だけが耳に残る。
そのときだった。背後から「ゴホッ、ゴホッ」と、乾いた咳が聞こえた。
立ち止まり、振り返る。
しかし道の先には、誰もいない。
街灯に照らされるのは、風に舞う落ち葉だけ。
「気のせいか……」
自分にそう言い聞かせて歩き出す。だが十数歩進んだところで、また――
「ゴホッ、ゴホッ……ゲホッ」
今度は近い。すぐ後ろで誰かが喉を震わせているような、生々しい響きだった。
冷たい汗が背中を伝う。振り返るが、やはり誰もいない。
息を整え、再び足を進める。今度は小走りだ。
だが、咳もついてくる。一定の間隔で、俺の歩調に合わせるように。
ゴホッ……ゴホッ……ゲホッ。
耳元で鳴った気がして、思わず振り払うように肩をすくめる。
心臓がうるさく、脈が速い。帰宅の道のりが異様に長く感じた。
玄関の鍵を閉めた瞬間、ようやく呼吸が落ち着いた。
狭いワンルームの中。蛍光灯を点け、コートを脱ぐ。電気ポットの湯気がやけに安心感をくれる。
「ただの疲れ……そうだ、きっと」
自分に言い聞かせ、ソファに沈み込む。
そのとき――背後から「ゴホッ」と短い咳がした。
心臓が凍りついた。
振り向くと、薄暗いキッチンの隅に、黒い影が立っていた。
人影はやせ細り、骨ばった肩を震わせている。
髪は濡れたように顔に貼り付き、口元からは赤黒い液が垂れていた。
目は見開かれ、虚ろな視線のまま俺を捉える。
「……ゲホッ、ゲホッ」
影が、こちらへ歩み寄る。裸足の足音はしない。ただ咳だけが部屋に響く。
俺は声をあげようとしたが、喉がひきつって声にならない。
身動きが取れず、影が目前に迫る。
――そこで意識が途切れた。
目を覚ましたのは、翌朝だった。
ソファでうたた寝していたらしい。部屋には誰もいない。
床やキッチンを確かめても、血の跡などはなかった。
夢だったのだろうか。
そう思い、会社へ向かう準備をする。
スーツに袖を通した瞬間、喉がイガイガと痒くなり、思わず咳き込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ……」
止まらない。肺が焼けるように熱い。
洗面所の鏡を見ると、唇の端に赤い雫が滲んでいた。
鏡の奥――俺の背後に、昨日の黒い影が立っていた。
俺と同じように咳をし、血を垂らしながら。
「ゴホッ……ゴホッ……」
耳元にその音が重なった瞬間、肺の奥から何かがせり上がる。
激しい咳とともに、俺の口から飛び散ったのは鮮やかな赤。
洗面台が瞬く間に血で染まる。
苦しくて、もう立っていられない。
視界の隅で、影が俺と同じ姿に変わっていく。咳をしながら、俺を見下ろす。
まるで――次の宿主に移り住むかのように。
最後に聞こえたのは、自分とまったく同じ咳の音だった。
ゴホッ……ゴホッ……ゲホッ。




