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闇の栞、ホラー短編集  作者: 猫森満月


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3/28

 夜の住宅街は、不自然なほど静まり返っていた。

 秋の冷たい空気が肺に刺さり、吐く息が白い。残業帰りの俺は、人気のない道を足早に歩いていた。


 カッ……カッ……と、靴底がアスファルトを叩く音だけが耳に残る。

 そのときだった。背後から「ゴホッ、ゴホッ」と、乾いた咳が聞こえた。


 立ち止まり、振り返る。

 しかし道の先には、誰もいない。

 街灯に照らされるのは、風に舞う落ち葉だけ。


「気のせいか……」


 自分にそう言い聞かせて歩き出す。だが十数歩進んだところで、また――

 「ゴホッ、ゴホッ……ゲホッ」


 今度は近い。すぐ後ろで誰かが喉を震わせているような、生々しい響きだった。

 冷たい汗が背中を伝う。振り返るが、やはり誰もいない。


 息を整え、再び足を進める。今度は小走りだ。

 だが、咳もついてくる。一定の間隔で、俺の歩調に合わせるように。


 ゴホッ……ゴホッ……ゲホッ。


 耳元で鳴った気がして、思わず振り払うように肩をすくめる。

 心臓がうるさく、脈が速い。帰宅の道のりが異様に長く感じた。


 玄関の鍵を閉めた瞬間、ようやく呼吸が落ち着いた。

 狭いワンルームの中。蛍光灯を点け、コートを脱ぐ。電気ポットの湯気がやけに安心感をくれる。


「ただの疲れ……そうだ、きっと」


 自分に言い聞かせ、ソファに沈み込む。

 そのとき――背後から「ゴホッ」と短い咳がした。


 心臓が凍りついた。

 振り向くと、薄暗いキッチンの隅に、黒い影が立っていた。


 人影はやせ細り、骨ばった肩を震わせている。

 髪は濡れたように顔に貼り付き、口元からは赤黒い液が垂れていた。

 目は見開かれ、虚ろな視線のまま俺を捉える。


「……ゲホッ、ゲホッ」


 影が、こちらへ歩み寄る。裸足の足音はしない。ただ咳だけが部屋に響く。

 俺は声をあげようとしたが、喉がひきつって声にならない。

 身動きが取れず、影が目前に迫る。


 ――そこで意識が途切れた。


 目を覚ましたのは、翌朝だった。

 ソファでうたた寝していたらしい。部屋には誰もいない。

 床やキッチンを確かめても、血の跡などはなかった。

 夢だったのだろうか。


 そう思い、会社へ向かう準備をする。

 スーツに袖を通した瞬間、喉がイガイガと痒くなり、思わず咳き込んだ。


「ゴホッ、ゴホッ……」


 止まらない。肺が焼けるように熱い。

 洗面所の鏡を見ると、唇の端に赤い雫が滲んでいた。


 鏡の奥――俺の背後に、昨日の黒い影が立っていた。

 俺と同じように咳をし、血を垂らしながら。


「ゴホッ……ゴホッ……」


 耳元にその音が重なった瞬間、肺の奥から何かがせり上がる。

 激しい咳とともに、俺の口から飛び散ったのは鮮やかな赤。

 洗面台が瞬く間に血で染まる。


 苦しくて、もう立っていられない。

 視界の隅で、影が俺と同じ姿に変わっていく。咳をしながら、俺を見下ろす。

 まるで――次の宿主に移り住むかのように。


 最後に聞こえたのは、自分とまったく同じ咳の音だった。


 ゴホッ……ゴホッ……ゲホッ。

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