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闇の栞、ホラー短編集  作者: 猫森満月


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深紅の瞳 後編

 彼の告白を聞いた夜、私は眠ることができなかった。頭の中で、彼の真紅の瞳と、哀しみに満ちた声が、何度も繰り返される。荒唐無稽な作り話だと、笑い飛ばすことはできなかった。彼の存在そのものが、抗えない説得力を持っていたのだ。


 翌日、廃棄される予定の血液パックを前にして、私は彼の気持ちを想像していた。目の前に、生きるための糧がある。しかし、それは他人の善意によって集められた、命そのもの。それに手を伸ばすことは、許されない。彼の三百年の孤独と葛藤が、少しだけ分かったような気がした。


 結局、私は罪を犯すことを選んだ。小さな血液パックを一つ、白衣の下に隠し持つ。規則違反だということは、分かっていた。だが、彼を見捨てることは、私にはできなかったのだ。


 約束の場所である、閉鎖された古い教会の前で、彼は闇に溶けるように佇んでいた。数日会わなかっただけなのに、その顔色はさらに白く、まるで命の火が消えかけているかのようだった。


「これを……」

 私が血液パックを差し出すと、彼は安堵とも苦痛ともつかない表情を浮かべた。

「……ありがとう」

 その手は、氷のように冷たかった。

「でも、こんなことは、今回だけです」

「分かっています。あなたのその一度の優しさが、私を救ってくれた」


 だが、その一度は、二度、三度と重なっていった。月に一度、私たちは罪の共犯者として、密かに会うようになった。彼は、私が渡す血液を少しずつ飲みながら、彼の永い人生について語ってくれた。江戸の町の賑わい、明治の文明開化、大正の浪漫、そして二つの世界大戦。彼の話は、どんな歴史の教科書よりも、鮮やかで、そして哀しかった。


 私は、いつしか彼に惹かれていた。人間ではない、異形の存在。それでも、彼の魂は、誰よりも繊細で、優しかった。


 しかし、私たちの密やかな関係は、半年後に終わりを告げた。

 献血センターの在庫管理システムが更新され、私の不正が、あっけなく暴かれてしまったのだ。


「どうして、こんなことをしたんだ」

 主任の詰問に、私は彼のことを話すことはできなかった。

「個人的な、理由です」

 それが、私に言える、精一杯の言葉だった。


 私は、その日のうちに解雇された。そして、彼に最後の別れを告げに行った。

「ごめんなさい。もう、あなたの力にはなれない」

 彼は、全てを察したように、静かに微笑んだ。

「君は、十分すぎるほど私を助けてくれた。感謝している」

「これから、どうするのですか」

「また、永い旅に出ます。血を求めて。だが、君と出会って、私は変われた。もう二度と、人は襲わない。それだけは、約束します」


 彼はそう言うと、闇の中へと姿を消した。それが、私が彼を見た、最後の姿だった。


 [夜の街に消えていく黒いコートの男性の後ろ姿]


 私は新しい職場を見つけ、看護師としての日々を送っている。時折、ふと彼のことを思い出す。今、彼はどこで、あの永い時を生きているのだろうか。ちゃんと、血を手にすることができているのだろうか。


 現代を生きる吸血鬼は、私たちが物語で知るような、恐ろしいだけの存在ではないのかもしれない。彼らもまた、生きるために必死で、その魂は、私たち人間と同じように、孤独と罪悪感に苛まれているのかもしれない。


 昨夜、私が働く救急病院に、トラックに轢かれそうになった子供を、奇跡的に助けた人物がいる、という噂が流れた。目撃者によれば、その人物は、まるで黒い一陣の風のように現れ、子供を抱きかかえて歩道に移動させると、一言も発さずに闇に消えたという。


 その話を聞いた時、なぜか、私の胸は温かくなった。

 もし、再び彼に会うことができたなら。

 今度こそ、もっと上手に、その孤独な魂を救ってあげたい。

 雨の日の夜空を見上げながら、私は、そんな叶わぬ願いを、そっと胸に抱くのだった。

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