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闇の栞、ホラー短編集  作者: 猫森満月


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真紅の瞳 前編

 大病院の喧騒に疲れ果てた私が、新しい職場としてこの下町の小さな献血センターを選んだのは、ほんの少しの安らぎが欲しかったからだった。ここでは、時間はゆっくりと流れ、訪れる人々は皆、見返りを求めない優しさをその腕に宿していた。そんな穏やかな日常の中で、私は彼と出会った。


 月に一度、決まって雨の日に、彼は現れる。名前は、黒木さん。三十代ほどの、彫刻のように整った顔立ちをした男性だった。いつも上質な黒いスーツに身を包み、その肌は病的なまでに白い。彼の周りだけ、空気がシンと張り詰めるような、近寄りがたいほどの気品と、そして深い孤独の匂いがした。


「また、来てくださったんですね」

 初めて私が声をかけた時、彼はほんの少しだけ驚いたように肩を揺らし、静かに頷いた。その声は低く、落ち着いていて、まるで古いチェロの音色のように心地よかった。


 彼はいつも、規定上限の400mlを、顔色一つ変えずに提供していく。普通の人間なら、採血後には多少のふらつきや顔色の変化があるものだ。だが、彼はまるで自分の体から何も失われていないかのように、いつも涼しい顔をしていた。


「お体、大丈夫ですか? 無理なさらないでくださいね」

 心配してそう声をかけると、彼は初めて、ふっと口元を緩めた。

「私には、血が多すぎるのかもしれません」

 その奇妙な言い回しと、一瞬だけ見せた寂しげな微笑みに、私の心は、不覚にも揺れてしまった。


 異変が起きたのは、彼が通い始めて三ヶ月目のことだった。彼の血液が、どう見ても普通ではなかったのだ。他の誰のものよりも黒く、そして粘度が高い。まるで、長い時間、空気に触れていたかのような、古い血。検査の結果、彼の血液は「成分異常のため使用不可」と判定された。


「黒木さんの血液ですが……詳しい検査結果は」

 私が主任に尋ねると、主任は困り果てた顔で首を振った。「それが、検査機関からも原因不明だと言われていてね。『人間の血液とは思えない、未知のタンパク質が検出された』と……」


 それ以来、私たちは黒木さんからの献血をお断りしなければならなくなった。だが、それでも彼は、月に一度、雨の日に必ずやってきた。

「申し訳ございません。規定により……」

 私がそう告げるたび、彼の瞳に、深い絶望の色がよぎるのを、私は知っていた。


 ある日、いつものように断られて帰ろうとする彼を、私は思わず呼び止めていた。

「もし、何かお悩みがあるなら、私でよければ聞きます」

 彼は驚いたように振り返り、しばらく私をじっと見つめた後、静かに言った。

「……今度、少しだけ、お話を聞いてもらえませんか」


 [雨の日の喫茶店の窓際の席]


 数日後、仕事帰りの喫茶店で、彼は初めてサングラスを外した。その下に現れた瞳を見て、私は息を呑んだ。深い、深い真紅の瞳。それは、まるで上質なワインのように、妖しい光を湛えていた。


「驚かれましたか」

「……綺麗な、色ですね」

「生まれつき、なのです」


 彼は、運ばれてきたコーヒーに一切口をつけることなく、静かに語り始めた。

「実は、私は、普通の人間ではありません」

 私は、ごくりと唾を飲んだ。彼の真剣な眼差しが、冗談を言っているのではないと告げていた。


「私は、あなた方が言うところの……吸血鬼、なのです」


 吸血鬼。その言葉は、まるで別世界の響きを持っていた。だが、目の前の彼の存在そのものが、この世界の法則から逸脱しているように思えた。

「私は、三百年以上、この姿のまま生きています。そして、生きるためには、どうしても血が必要なのです」

「だから、献血センターに……?」

「ええ。かつては、人を襲い、その命を奪ってきました。ですが、もう二度と、誰かを傷つけたくはない。罪のない人々が善意で提供してくれた血を、少しだけ分けてもらう。それが、私が見つけた、唯一の贖罪の方法だったのです」


 彼の話は、あまりに荒唐無稽だった。だが、彼の血液の謎、常人離れした様子、そして何より、その瞳に宿る、三百年という永い時を生きてきた者の、底知れぬ哀しみが、私に「信じたい」と思わせていた。


「なぜ、私に、こんな話を?」

「あなただけが、私を哀れんでくれた。そして……あなたから香る血の匂いは、今まで出会った誰のものよりも、甘く、私を狂わせるからだ」


 そう言った彼の真紅の瞳が、一瞬だけ、飢えた獣のようにぎらりと光ったのを、私は見逃さなかった。

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