津波
あの日、黒い壁のような津波が町を飲み込んだ。
海辺の集落は跡形もなく、残ったのはぬかるんだ泥と、折れ曲がった電柱、漂流物が積み重なる廃墟だけ。
俺――健二は、三日ぶりに生まれ故郷へ戻ってきた。
母がまだ見つかっていない。避難所を探しても名前はなく、安否不明のままだ。
がれきの中を歩き、波にさらわれた自宅の跡へ向かう。
瓦礫の隙間で、何かが動いた。
「……母さん?」
駆け寄ると、泥だらけの人影がこちらを振り向いた。
それは母ではなかった。
顔も体も泥にまみれ、膨れ上がり、表情すら判別できない。
しかし、その口が確かに動いた。
「……たすけて」
声は確かに母のものだった。
「母さん!? 生きてたのか!」
必死でがれきを退けるが、その体は異様に重く、ぬるぬるとした海藻が絡みついていた。
引き上げた瞬間、強烈な潮の匂いが鼻を刺した。
その「顔」が笑った。
「いっしょに、帰ろう」
ドロドロに崩れた手が俺の腕を掴む。
ぞっとする冷たさ。
振り払おうとするが、力は強く、腕に爪が食い込む。
足元からも無数の手が泥を突き破って伸びてきた。
見ると、瓦礫の下から次々と顔が浮かび上がっていた。
溺死した人々の顔だ。
目も口も泥で塞がれ、ただ「助けて」と呻きながら、俺の足に絡みついてくる。
必死に逃げ出す。
走るたび、泥の水面が波打ち、ざぶりと音を立てる。
耳に響くのは、波の轟音ではない。
「たすけて」「いっしょに」「さむい」「くるしい」
幾重もの声が、まるで潮騒のように重なって押し寄せる。
振り返ると、津波そのものがまだそこにあった。
海ではない。がれきの街を這う「人の波」だ。
膨れ上がった死者たちが折り重なり、黒い塊となってうねりを上げている。
その波が俺を追いかけてきていた。
息を切らし、かろうじて小高い丘に駆け上がる。
振り返ると、がれきの山の中で波が止まり、沈んでいった。
潮の満ち引きのように、死者たちは泥の下に戻っていく。
安堵したのも束の間。足元からじわりと冷たい感触が広がった。
見ると、靴の中が濡れていた。
泥水に浸かっていないはずなのに、なぜか波打つ水音がする。
靴を脱ごうとした瞬間、中から白い指が一本、にゅっと飛び出した。
悲鳴を上げて転げ落ちる。
靴だけではない。袖口から、ズボンの裾から、次々と冷たい指が伸びてくる。
まるで衣服の中が海に繋がっているかのように。
「母さんだよ、健二」
耳元で声がした。
見れば、泥に塗れた女の顔が肩越しに覗いていた。
母の顔に似ているが、瞳は濁り、口の端から海水が滴っている。
「帰ろう、いっしょに」
そこから先の記憶は曖昧だ。
気づけば避難所の布団の中にいた。
どうやって助かったのか、誰が俺を運んだのか、誰も知らないと言う。
ただ、俺の服はびしょ濡れで、泥だらけだったらしい。
夜。目を閉じると、耳元に潮騒が聞こえる。
「たすけて」「いっしょに」「帰ろう」
波のように、囁きが絶え間なく押し寄せる。
俺はわかっている。
津波はもう海にはいない。
あの黒い波は――今も俺の中でうねり続けている。




