おぼろ月
春の宵、薄雲に霞んだ月がぼんやりと浮かんでいた。
私は大学の天文部に所属しており、その夜はひとりで丘の天文台に向かった。
古びた建物は静まり返っていた。普段なら聞こえるはずの軋みや風の音すら消えている。嫌な静けさに胸がざわつく。
観測室に入ると、望遠鏡が月を向いていた。最後に片付けたのは私だ。誰が?
覗き込むと、霞んだ月に人影のような模様が浮かんでいた。目を擦って見直すと、それは確かに長い髪の女の姿だった。こちらを見ている――そう感じた瞬間、背後で足音がした。
振り返るが誰もいない。足音だけが近づいてくる。
「こんばんは」
女の声が、空気を震わせた。部屋には私しかいない。声は天窓の方から降りてくる。見上げると、月光の中に女の輪郭が浮かんでいた。
「月を見ているのね」
「……誰ですか」
答えを聞く前に、胸が凍りついた。その声に聞き覚えがあったのだ。
「佐藤さん……?」
三年前、突然姿を消した先輩の名を呼んだ。彼女はこの天文台で最後に目撃されたきり、行方不明になった人だった。
「覚えていてくれたのね」
月光の中に、佐藤先輩の顔が浮かぶ。美しいが、その瞳は深い悲しみと切望に満ちていた。
「私は、月に行ったの」
声は優しく、それでいて抗えない力を帯びている。
「寂しいから迎えに来たの。あなたも一緒に――」
その言葉と同時に、私の足が勝手に動き出した。望遠鏡へ、天窓へ。意思に反して体が引き寄せられていく。
「やめてください!」
「大丈夫。静かで、美しい場所なの」
窓の向こうには霞んだ月。その中で無数の影が蠢いている。皆、先輩と同じように月に“呼ばれた”者なのだろう。
「永遠に夜が続くの。一人じゃないわ」
意識が遠のく。月光に絡め取られ、落ちれば死ぬ高さなのに、恐怖さえ薄れていく。
――その時、携帯が鳴った。現実的な着信音が観測室に響き、体の呪縛が解ける。私は後ずさりしながら電話を取った。
「先輩、明日の観測会の件で……え?天文台にいるんですか?」
「そうだ」
「おかしいですね。あの天文台、三年前の事故の後で立ち入り禁止のはずですが」
血の気が引いた。では、私はどこにいる?
出口に走るが扉は開かない。金属が歪み、外界を拒んでいるかのようだった。
「逃げないで」
先輩の声が再び響く。今度は涙声だった。
「三年間ずっと待っていたの。あなたなら来てくれると思ったのに」
月光が観測室を満たし、再び意識が奪われていく。携帯は沈黙した。助けは来ない。
翌朝、職員に発見された私は、観測室で意識を失っていた。医師は酸欠だと説明したが、私は知っている。あの夜、佐藤先輩に会ったのだ。
それ以来、私は天文部を辞め、夜空を見上げなくなった。特に朧月の夜は、窓を閉ざして震えている。
なぜなら今も、月の中に彼女が見えるからだ。
手招きをしながら、無言で微笑んでいる。
そして最近、気づいた。
足が勝手に窓の方へ動いていることに。
――次におぼろ月が出る夜、私はもう抗えないかもしれない。




