表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
闇の栞、ホラー短編集  作者: 猫森満月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/30

熱帯魚

 大学時代の友人、吉川の部屋を訪ねたのは梅雨の蒸し暑い夕暮れだった。

 アパートの一室に入った瞬間、ひんやりとした湿った空気が肌にまとわりつく。

 「お前、冷房強すぎだろ」

 そう言いかけて、俺は息をのんだ。


 部屋の中央を占拠していたのは巨大な水槽だった。縦横一メートルはあるだろう。

 青白いライトに照らされ、カラフルな熱帯魚が無数に泳いでいる。赤、黄、紫、そして見たことのない模様をした魚。

 だが奇妙なのは、その目だった。まるで人間のように、じっとこちらを見つめ返してくる。


---


「すごいだろ」

 吉川が誇らしげに言った。


「最近集めたんだ。普通の店じゃ手に入らないやつばかりでさ」


 魚たちは群れを成し、水槽の中で渦を描く。

 だがその動きには妙な統一感があり、まるで意思を持っているかのように同じ方向を向いた。

 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「……なんか、見られてる感じがするな」

「だろ? 俺も最初はそう思った。でも慣れると心地いいんだ」


 吉川の目が異様に赤く充血しているのに気づいた。寝不足か、あるいは……。


---


 俺はソファに腰掛け、しばらくその水槽を眺めた。

 魚たちはひとつ、またひとつとガラス面に近づき、こちらに口を開ける。

 パクパクと何かを語りかけているように。

 耳を澄ますと、水音の合間に声が混じっていた。


 ――たすけて。

 ――ここから、だして。


 幻聴だと思いたかった。

 だが、吉川が俺の耳元で囁いた。


「聞こえるだろ? こいつら、話してるんだよ」


---


「バカ言うな、ただの魚だろ」

 俺が笑い飛ばすと、吉川は真剣な目で俺を見た。


「いや、人間なんだ。……昔、ここに住んでた連中さ」


 心臓がどくんと鳴った。

 冗談にしては質が悪い。


「どういう意味だよ」


 吉川はにやりと笑った。


「このアパート、事故物件なんだよ。水死体が出たり、変死があったり……。でも俺は気づいたんだ。死んだやつらは魚になって戻ってきてる。ここで、俺と一緒に生きてるんだ」


 言葉を失った。

 水槽の中の魚たちが一斉に尾を振り、波紋を立てる。

 その瞳が「違わない」と告げている気がした。


---


 夜が更けるにつれ、部屋の湿度は増していった。

 窓を閉め切っているのに、どこかから潮の匂いが漂ってくる。

 吉川は目を細め、魚たちに微笑んでいた。

 その横顔は恍惚として、まるで恋人を眺めるようだった。


「なあ……お前も、こっちに来いよ」

 吉川がぽつりと呟いた。


「最初は息苦しいけど、すぐに慣れる。水の中は楽だぞ。時間も痛みも、全部消える」


 そう言って、吉川は袖をまくった。

 腕には赤黒い鱗のような斑点が浮かび上がっていた。皮膚が硬質化し、まるで魚の体表のようになっている。


---


 俺は椅子を倒して立ち上がった。


「冗談じゃない……!」


 出口へ向かおうとすると、突然水槽のガラスがびしりと音を立ててひび割れた。


 大量の水が溢れ出す。だが床に落ちることはなく、空中に漂い、波のように渦を巻いた。

 その中を、魚たちが泳ぎだす。

 まるで空間そのものが水に変わったかのように、呼吸が苦しくなる。


 「逃げられないよ」


 吉川の声が水に反響する。

 彼の顔もまた変わっていた。口元が裂け、えらが頬に開いている。


---


 俺は必死にドアノブを掴んだが、金属はぬめり、海藻のようなもので覆われていた。

 振り返ると、魚たちが形を変え始めていた。

 ヒレが手に、鱗が肌に変わり、次々と人間の顔が浮かび上がる。

 その表情は苦しげに歪んでいた。


 「たすけて……」

 「ここから、だして……」


 あの囁きが、現実の声となって響いた。

 しかし吉川は彼らを抱きしめるように腕を広げた。


 「ほら、仲間たちだ。みんな家族なんだ」


 俺は最後の力を振り絞ってドアを蹴り破った。

 湿った空気が一気に外へ吹き出し、現実の夜風が肺に流れ込んだ。

 振り返ると、部屋の中はすでに水で満たされていた。

 吉川が笑いながら、魚たちと共に沈んでいく。


---


 数日後、ニュースでそのアパートが取り壊されたと知った。

 水漏れ事故で部屋中が浸水していたらしい。

 住人の吉川は行方不明のまま。


 俺は安堵と同時に悪寒を覚えた。

 なぜなら、あの日から俺の耳には、夜な夜な水音が響くのだ。


 ――ぱくぱく。ぱくぱく。


 窓辺の水槽には何もない。

 だが確かに、視線を感じる。

 暗闇の中、無数の目がこちらを見つめ、口を開けて囁いている。


「……お前も、こっちに来いよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ