熱帯魚
大学時代の友人、吉川の部屋を訪ねたのは梅雨の蒸し暑い夕暮れだった。
アパートの一室に入った瞬間、ひんやりとした湿った空気が肌にまとわりつく。
「お前、冷房強すぎだろ」
そう言いかけて、俺は息をのんだ。
部屋の中央を占拠していたのは巨大な水槽だった。縦横一メートルはあるだろう。
青白いライトに照らされ、カラフルな熱帯魚が無数に泳いでいる。赤、黄、紫、そして見たことのない模様をした魚。
だが奇妙なのは、その目だった。まるで人間のように、じっとこちらを見つめ返してくる。
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「すごいだろ」
吉川が誇らしげに言った。
「最近集めたんだ。普通の店じゃ手に入らないやつばかりでさ」
魚たちは群れを成し、水槽の中で渦を描く。
だがその動きには妙な統一感があり、まるで意思を持っているかのように同じ方向を向いた。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……なんか、見られてる感じがするな」
「だろ? 俺も最初はそう思った。でも慣れると心地いいんだ」
吉川の目が異様に赤く充血しているのに気づいた。寝不足か、あるいは……。
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俺はソファに腰掛け、しばらくその水槽を眺めた。
魚たちはひとつ、またひとつとガラス面に近づき、こちらに口を開ける。
パクパクと何かを語りかけているように。
耳を澄ますと、水音の合間に声が混じっていた。
――たすけて。
――ここから、だして。
幻聴だと思いたかった。
だが、吉川が俺の耳元で囁いた。
「聞こえるだろ? こいつら、話してるんだよ」
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「バカ言うな、ただの魚だろ」
俺が笑い飛ばすと、吉川は真剣な目で俺を見た。
「いや、人間なんだ。……昔、ここに住んでた連中さ」
心臓がどくんと鳴った。
冗談にしては質が悪い。
「どういう意味だよ」
吉川はにやりと笑った。
「このアパート、事故物件なんだよ。水死体が出たり、変死があったり……。でも俺は気づいたんだ。死んだやつらは魚になって戻ってきてる。ここで、俺と一緒に生きてるんだ」
言葉を失った。
水槽の中の魚たちが一斉に尾を振り、波紋を立てる。
その瞳が「違わない」と告げている気がした。
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夜が更けるにつれ、部屋の湿度は増していった。
窓を閉め切っているのに、どこかから潮の匂いが漂ってくる。
吉川は目を細め、魚たちに微笑んでいた。
その横顔は恍惚として、まるで恋人を眺めるようだった。
「なあ……お前も、こっちに来いよ」
吉川がぽつりと呟いた。
「最初は息苦しいけど、すぐに慣れる。水の中は楽だぞ。時間も痛みも、全部消える」
そう言って、吉川は袖をまくった。
腕には赤黒い鱗のような斑点が浮かび上がっていた。皮膚が硬質化し、まるで魚の体表のようになっている。
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俺は椅子を倒して立ち上がった。
「冗談じゃない……!」
出口へ向かおうとすると、突然水槽のガラスがびしりと音を立ててひび割れた。
大量の水が溢れ出す。だが床に落ちることはなく、空中に漂い、波のように渦を巻いた。
その中を、魚たちが泳ぎだす。
まるで空間そのものが水に変わったかのように、呼吸が苦しくなる。
「逃げられないよ」
吉川の声が水に反響する。
彼の顔もまた変わっていた。口元が裂け、えらが頬に開いている。
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俺は必死にドアノブを掴んだが、金属はぬめり、海藻のようなもので覆われていた。
振り返ると、魚たちが形を変え始めていた。
ヒレが手に、鱗が肌に変わり、次々と人間の顔が浮かび上がる。
その表情は苦しげに歪んでいた。
「たすけて……」
「ここから、だして……」
あの囁きが、現実の声となって響いた。
しかし吉川は彼らを抱きしめるように腕を広げた。
「ほら、仲間たちだ。みんな家族なんだ」
俺は最後の力を振り絞ってドアを蹴り破った。
湿った空気が一気に外へ吹き出し、現実の夜風が肺に流れ込んだ。
振り返ると、部屋の中はすでに水で満たされていた。
吉川が笑いながら、魚たちと共に沈んでいく。
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数日後、ニュースでそのアパートが取り壊されたと知った。
水漏れ事故で部屋中が浸水していたらしい。
住人の吉川は行方不明のまま。
俺は安堵と同時に悪寒を覚えた。
なぜなら、あの日から俺の耳には、夜な夜な水音が響くのだ。
――ぱくぱく。ぱくぱく。
窓辺の水槽には何もない。
だが確かに、視線を感じる。
暗闇の中、無数の目がこちらを見つめ、口を開けて囁いている。
「……お前も、こっちに来いよ」




