ウィスパーズ・ホロウの悪夢 後編
森の奥深く、木々が開けた場所に、それはあった。苔むした巨大な石の祭壇。その周囲には、まるで獣の寝床のように、おびただしい数の人骨が積み上げられ、その多くが頭蓋骨を失っていた。そして、祭壇の上に鎮座する“何か”を見て、私は胃の内容物を喉元までせり上がらせた。
それは、巨大な肉塊だった。芋虫のようにぬめぬめと蠢く、薄桃色の肉塊。そこから伸びる無数の触手は、それぞれ先端が人間の口のように裂け、意味のない音を発している。肉塊の中央には、赤く爛れた巨大な眼球が一つだけあり、それが私を捉えていた。
『ようこそ、新しい供物よ』
先ほどの甘い声とは似ても似つかぬ、地獄の底から響くような、おぞましい合唱が脳を揺さぶる。周囲を見回すと、森の木々の間から、ウィスパーズ・ホロウの住民たちが、一人、また一人と姿を現した。モーテルの主人、司書のミセス・ハーパー……。その誰もが、虚ろな瞳で祭壇を見つめている。
「なぜ……私を?」
『よそ者は都合が良い。我らの民を減らすわけにはいかぬからな。この土地の繁栄と引き換えに、我らは定期的に新鮮な魂を啜る。それが、古き契約』
肉塊から伸びた一本の触手が、蛇のようにしなりながら私に迫る。先端の口が粘液を滴らせながら開き、中から鋭い牙が覗いた。もう駄目だ。食われる。恐怖で体が麻痺し、動けない。
その時だった。森の闇を切り裂いて、一台のピックアップトラックが猛スピードで突っ込んできた。ヘッドライトに照らされ、住民たちが怯んだように後ずさる。
「ケイト! 伏せろ!」
運転席から飛び出してきたのは、町の若い保安官だった。彼は散弾銃を構え、躊躇なく肉塊に向かって引き金を引いた。
轟音と共に放たれた弾丸は、肉塊の一部をミンチのように弾けさせた。黒く、酸っぱい匂いのする体液が飛び散る。だが、傷口は数秒も経たないうちに、ぶくぶくと泡を立てながら再生してしまった。
『愚かな……お前も我らの民であろうに』
「黙れ、化け物!」
保安官は私を手荒く掴むと、トラックの助手席に押し込んだ。
「あなたは誰? なぜ……」
「俺はマイケル・ハリス。この町の保安官だ。詳しい話は後だ、今は逃げるぞ!」
マイケルはアクセルを全開にし、虚ろな目で道を塞ぐ住民たちを容赦なく跳ね飛ばしながら、森を脱出した。
「一体、どういうことなの!」
「あの化け物は、この町そのものなんだ。住民たちは、恐怖と、化け物がもたらす恩恵によって、魂を支配されている。満月の夜、奴の支配力は最大になるんだ」
「抵抗しようとは思わないの!?」
「何人も試したさ。だが、誰もが最後にはあの森に消えた。俺の前任者もな」
車は町の外れまでたどり着いた。
「ここで降りろ。夜が明ける前に、州境を越えろ」
「あなたはどうするの?」
「俺は残る。誰かがこの呪いの連鎖を断ち切らなきゃならねえ」
「死ぬ気なの!?」
マイケルは、初めて穏やかに微笑んだ。
「あんたのような、外部の人間が真実を知ってくれた。それだけで、俺がここに来た意味はあった。行け!」
私は泣きながら、隣町へと続く道を走った。背後で、マイケルのトラックが再び森へ向かっていくのが見えた。
翌朝、私が通報した州警察がウィスパーズ・ホロウに到着した時、町は完全にもぬけの殻だった。住民も、家畜も、そしてあの肉塊も、全てが跡形もなく消え失せていた。まるで、町全体が神隠しにでも遭ったかのように。
マイケルの姿もなかった。ただ、町の中心にある教会の祭壇に、一枚のメモが残されているだけだった。
『ケイト、君が真実を外に伝えてくれたおかげで、古き契約は破られた。化け物は消え、俺たちもようやく、百年の呪いから解放される。君の勇気に感謝する。達者でな。-マイケル』
十年後。私は大学で教鞭を執っていた。時折、学生たちに、あの夏の体験を語って聞かせることがある。
「アメリカの片田舎には、まだ我々の理解を超えた、古き神々が眠っているのかもしれない」
学生たちは、それをただの怪談話として聞いている。だが、私にはわかっている。あの夜、マイケルの命懸けの抵抗が、一つの町を呪いから解放したことを。
ウィスパーズ・ホロウは地図から消えた。だが、今も静かな夜には、耳を澄ませば聞こえてくる気がするのだ。もう誰も呼ばれることのない、風のささやきだけが、荒野を渡っていく音が。
日本、世界の名作恐怖小説をオーディオブック化して投稿したりもしています。
画面はスマホサイズで見やすいと思います。
良ければ覗いてください。
https://youtu.be/YPxvLTcWz04?si=HGAmtIVdKSchEue8
よろしくお願いします。




