ウィスパーズ・ホロウの悪夢 前編
大学の夏休み。人類学を専攻する私、ケイト・マクブライドが研究テーマに選んだのは、地図からも忘れ去られたようなテキサスの小さな町、ウィスパーズ・ホロウだった。目的は、この土地に根付く古い伝承のフィールドワーク。灼熱の太陽がアスファルトを歪ませる中、古びた愛車を走らせてたどり着いたその町は、まるで時が止まったかのようだった。
人口はわずか八百人。埃っぽいメインストリートに、色褪せた看板を掲げるダイナーと寂れたガソリンスタンド、そして小さな教会がポツンと建つだけの、ありふれた田舎町。だが、どこかおかしい。空気が、妙に濃密で重いのだ。
「ようこそ、ウィスパーズ・ホロウへ」
モーテルの受付で、人の良さそうな初老の主人が、皺くちゃの笑顔で迎えてくれた。しかし、私がこの町の伝説について調べに来たと告げた途端、その笑顔は能面のように張り付いた。
「ああ……『ささやく者』の話ですな。お嬢さん、悪いことは言わん。その話には、首を突っ込まない方がいい」
「どうしてですか? 貴重な民間伝承だと伺っていますが」
「話すと、奴らが聞きつける。そして、名を呼ぶんですよ。あんたの名をね」
それきり、主人は貝のように口を閉ざしてしまった。
翌日、町の小さな図書館を訪れた。埃と古い紙の匂いが満ちる中、司書のミセス・ハーパーは、最初こそ私を値踏みするような目で見ていたが、研究への熱意を伝えると、諦めたように重い口を開いた。
「『ささやく者』……それは、この土地に巣食う、呪いそのものです」
彼女がカウンターの奥から出してきたのは、黄色く変色し、端がボロボロになった新聞の束だった。
「始まりは1918年。この町で、一夜にして十二人の住民が忽然と姿を消した。残された者たちは皆、同じことを証言しました。『森の奥から、自分の名を呼ぶ声が聞こえた』と」
「声に導かれて、森へ……?」
「ええ。そして、二度と戻ってはこない。ですが、不思議なことに」
ミセス・ハーパーは私の目をじっと見つめ、声を潜めた。
「その事件の後、この町は奇跡のような繁栄を迎えたのです。不毛だった土地からは作物が溢れ、病に倒れる者も、赤ん坊の亡骸を見ることもなくなった」
「……偶然とは、思えませんね」
「ええ。そして七十年前の1988年、再び同じことが起きました。今度は八人が消え、またしても町は豊作と健康に恵まれた」
背筋に氷の刃を押し当てられたような悪寒が走る。
「つまり……それは周期的に起こる、と?」
ミセス・ハーパーは、静かに頷いた。
「そして今年が、前回からちょうど七十年目にあたるのです」
その夜、モーテルの部屋で資料を広げていると、不意に窓の外から声が聞こえた。いや、それは耳で聞いた音ではなかった。頭蓋骨の内側に、直接響いてくるような、奇妙な感覚。
『ケイト……ケイト……』
甘く、懐かしい響きを持つ女性の声。まるで、幼い頃に聞かされた子守唄のようだ。その声に従えば、全ての悩みや不安から解放されるような、抗いがたい誘惑を感じる。
窓の外に目をやると、闇に沈む森の入り口に、白い人影のようなものが揺らめいていた。
『こちらへ……ケイト……寂しいのでしょう……』
違う。これは罠だ。これが『ささやく者』。必死に思考を繋ぎ止め、ドアに鍵をかけ、耳を塞ぐ。だが、声は脳内でより鮮明に、より甘美に響き渡る。
気がつくと、私は部屋の外に立っていた。自分の意思ではない。まるで手足を糸で操られる人形のように、一歩、また一歩と、森へ向かって歩を進めていた。体が、言うことを聞かない。
森へ入る直前、私は道端で何か黒い塊が転がっているのに気づいた。それは、無残に引き裂かれた鹿の死骸だった。だが、その殺され方は異常だった。腹は食い破られ、内臓がぶちまけられている。そして、本来あるべき頭部が、まるで果実をもぎ取るように、綺麗に無くなっていた。
恐怖で叫びたいのに、声が出ない。体はただ、森の奥へ、甘い声の主へと、引き寄せられていく。
日本、世界の名作恐怖小説をオーディオブック化して投稿したりもしています。
画面はスマホサイズで見やすいと思います。
良ければ覗いてください。
https://youtu.be/YPxvLTcWz04?si=HGAmtIVdKSchEue8
よろしくお願いします。




