路地裏
会社帰りの夜道、森川はふとした気まぐれで、一本裏の道に入ってしまった。
普段なら絶対に選ばない道。ネオンも街灯も乏しく、人気のない細い路地裏だ。
だがその日は、なぜか吸い寄せられるように足を踏み入れてしまった。
空気はひどく湿っていて、アスファルトには黒ずんだ水たまりが点々と続いている。
背後でカラスが鳴いた。振り返ると、入り口はもう闇に閉ざされていた。
「……気味が悪いな」
ポケットに手を突っ込みながら、早足で進む。路地は思った以上に長く、どこまで行っても出口が見えない。
そのとき、背後から小さな足音が響いた。
パタ、パタ、パタ――子供が裸足で走るような音。
慌てて振り返る。
そこには誰もいなかった。ただ、壁の隙間から水が滴り落ちているだけだ。
気のせいか、と自分に言い聞かせて歩き出す。だが数歩ごとに、その足音が追いかけてくる。
パタ、パタ、パタ。
こちらが止まれば、ぴたりと止む。
冷や汗が滲み始めた頃、ようやく路地の先に小さな広場が見えた。
広場の中央には、古びた地蔵が一体置かれていた。首が欠け、赤いよだれかけは泥にまみれている。
地蔵の前には、子供の靴が一足だけ揃えて置かれていた。
森川はぞくりとした。
辺りを見回すと、塀の隙間や物陰に、ぼんやりと人影のようなものが立っている。いや――「立っている」というより、「貼り付いている」と言った方が正しかった。
顔は壁に埋まり、背中だけがこちらを向いている。動かないのに、確かにそこに存在する。
「……冗談だろ」
足が震えた。逃げなくてはと思うのに、視線がどうしても地蔵と靴に吸い寄せられる。
次の瞬間、壁に張り付いていた人影が一斉に振り返った。
目も鼻も口もない、真っ白な顔。そこから、低いうめき声が一斉に響いた。
ズズ……ズズ……。
人影たちは壁から剥がれるようにゆっくりと歩み寄ってくる。足音はない。代わりに、背後からまた子供の足音が聞こえてきた。
パタ、パタ、パタ――。
「やめろ……来るな!」
森川は叫び、出口を探して走り出した。
だが路地は奇妙に歪んでおり、来たはずの道に戻れない。何度も角を曲がるのに、同じ地蔵と靴が視界に現れる。
胸が苦しくなり、呼吸が荒くなる。
そのとき、不意に背中に小さな手が触れた。
冷たい感触。反射的に振り返ると、そこには五歳ほどの女の子が立っていた。
白いワンピース、裸足の足。だが顔は真っ黒に塗りつぶされたように見えなかった。
女の子は森川の手をぎゅっと握った。
「こっちだよ」
囁く声が、頭の奥に直接響いた。
引かれるままに歩くと、気づけば路地裏は途切れ、見慣れた大通りへと出ていた。
振り返ると、もう女の子の姿はなかった。
翌朝。通勤途中でふと昨夜の路地を思い出し、森川は確かめに行った。
だが、大通りから裏へと続く道は存在しなかった。ビルの壁が立ち並ぶだけで、入り口すら見当たらない。
呆然と立ち尽くしていると、地元の古い新聞記事が頭をよぎった。
――十年前、この辺りの路地裏で、少女が行方不明になったという事件。
最後に目撃されたのは、裸足で歩いていた姿だったと。
森川の手にはまだ、あの冷たい感触が残っていた。
そして夜になると、不意に背後から足音が追いかけてくる。
パタ、パタ、パタ――。
振り返っても、誰もいない。
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