地下鉄の天使 前編
終わらない残業に心身をすり減らし、OLの鈴木麻衣が終電間際の地下鉄ホームにたどり着いたのは、日付がとうに変わった午前零時過ぎのことだった。
平日の深夜。コンクリートに囲まれただだっ広い空間に、人影は麻衣一人。一本だけ寿命を迎えつつある蛍光灯が、チカ、チカと不規則に点滅を繰り返し、まるで意思を持っているかのように壁に歪な影を踊らせている。ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、遠くで水滴が落ちる音が、やけに大きく鼓膜を打った。
「早く、電車……」
呟きは誰に届くこともなく、静寂に吸い込まれて消える。仕事の疲労で思考は鈍り、まぶたが鉛のように重い。
その時だった。ホームの薄暗い向こう側から、足音が聞こえてきたのは。
カツン、カツン……。
硬い革靴が床を打つ、無機質で規則正しい音。しかし、音はすれども姿は見えない。まるで透明な誰かが、こちらへ着実に歩みを進めているかのようだ。背筋に冷たいものが走る。
「ど、なたか……いますか?」
絞り出した声は震えていた。返事はない。ただ、足音だけが、少しずつ、少しずつ近づいてくる。
やがて、階段の暗がりから、一人の男がぬるりと姿を現した。上質な黒いスーツを身にまとった中年の男。だが、照明の死角になっているのか、その顔は深い影に覆われていて、表情を一切読み取ることができない。
男は、何の躊躇もなく麻衣のすぐ隣に立った。不思議なことに、何の気配も感じなかった。まるで、そこにいるはずのない幻影のようだ。それなのに、肌を刺すような悪寒だけが、やけに生々しい。男から発せられる冷気は、まるで巨大な氷塊が隣にあるかのようだった。
「……寒いですね」
不意に、男が話しかけてきた。抑揚がなく、感情というものが完全に抜け落ちた、平坦な声だった。
「え、ええ……そうですね」
麻衣は恐怖を押し殺し、かろうじて返事をする。逃げ出したいのに、足がコンクリートに縫い付けられたように動かない。
男が、ゆっくりとこちらを向いた。影に沈んでいたその顔が、麻衣の視界に入る。その瞬間、麻衣は喉の奥で悲鳴を凍りつかせた。
男に、目がなかった。
あるべきはずの場所には、底なしの闇が口を開けたように、二つの深い眼窩が窪んでいるだけだった。
「あなたも、もうすぐ我々の仲間入りです」
目玉のない男が、唇の端を吊り上げて薄く笑う。開かれた口の中もまた、歯や舌さえ見えない、完全な暗闇だった。
恐怖が麻衣の全身を支配する。金縛りにあったように、指一本動かせない。男が、骨と皮ばかりの、異様に爪の長い手を、ゆっくりと麻衣に向かって伸ばしてきた。
「怖がることはありません。苦しいのは、ほんの一瞬ですから」
死が、すぐそこまで迫っている。麻衣が、最後の力を振り絞って絶叫しようとした、その時だった。
凛とした、それでいて力強い少年の声が、二人の間に鋭く割り込んだ。
「──やめろ」
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