図書館の守り人
市立図書館で司書として働く優子は、ここ最近、説明のつかない現象に悩まされていた。
毎朝出勤すると、前日にきちんと整理したはずの本が散らかっている。最初は夜間の警備員が何かの拍子に倒してしまったのかと思った。
聞いてみると警備員は震え出した。
「……児童書コーナーは、児童書コーナーには」
聞いてみると、あそこには幽霊が出るんだ、と言う。俺は犯罪者や不法侵入者のために雇われているんで、幽霊は管轄外だと言うのだ。
そんな馬鹿なと思ったが、警備員は本気で怯えていた。
「……また散らかってる」
三週間ほど同じことが続いた頃、優子はある規則性に気づいた。散らかるのは決まって児童書コーナーで、しかも特定の本ばかりが床に落ちている。
『赤ずきん』『シンデレラ』『白雪姫』。
幼い子供たちに人気の絵本だけが狙われていた。
夜の図書館に潜むのは誰か。あるいは――何か。
不気味な予感に胸を締めつけられながらも、優子はついに決意した。真相を確かめるため、自ら残業を装い、閉館後の館内に身を潜めることにしたのだ。
午後十時。
静寂に包まれた図書館は、昼間の賑やかな姿とは別世界のようだった。天井の蛍光灯は落とされ、窓から差し込む月明かりが、本の背表紙を冷たく照らしている。
――ぺた、ぺた、と。
突如、奥から小さな足音が響いた。裸足で床を踏むような湿った音。
優子の心臓が跳ね上がる。
書架の影から現れたのは、五歳ほどの女の子だった。
白いパジャマ姿で、長い髪が顔にかかっている。だが、その足は床に触れていなかった。ふわりと宙に浮きながら、まっすぐ児童書の棚へと向かっていく。
少女は絵本を一冊抜き取り、床に座り込んでページをめくった。
「……あ、赤ずきんちゃんだ」
小さな声が静けさを破る。だが、数分でパタンと閉じ、本を投げ出す。
「知ってる……つまらない」
また別の本を手に取っては、すぐに放り投げる。繰り返される動作は、いたずらというよりも、満たされぬ渇望の表れに思えた。
恐怖と同時に、優子の胸に悲しみが広がる。
――この子は、新しい物語を求めているのだ。
「ねえ」
優子は勇気を振り絞り、声をかけた。
少女が振り返る。大きな目が、月光を映して揺れている。
「怖くないの……お姉ちゃん?」
「怖くないよ。本を探しているんでしょう?」
少女は小さくうなずいた。
「でも、知ってる本ばっかり。新しいのが読みたいの」
「新しい本なら、別の場所にもあるわ」
優子はそっと手を差し伸べた。冷たく、しかし確かな重みを持つ小さな手が、それを握り返した。
それから二人の夜の読書会が始まった。
『星の王子さま』『不思議の国のアリス』『モモ』――優子は少女のために新しい本を選び、少女は夢中になってページをめくった。
やがて、少女の名が分かった。
十年前、この町のアパート火災で命を落とした田中花音。新聞には「本が大好きな子」と記されていた。
「花音ちゃんって呼んでもいい?」
問いかけに、少女は涙を浮かべてうなずいた。
「久しぶりに名前で呼ばれた……」
その言葉に優子はそっと抱きしめた。
「もう一人じゃないよ。私がいるから」
三ヶ月が過ぎた夜、花音は微笑んで告げた。
「お姉ちゃん、花音、もう行かなくちゃ。本当にいるべき場所に」
その身体が淡い光を帯び始める。
「寂しいよ……」
優子の声は震えた。
「大丈夫。花音はずっとお姉ちゃんを忘れない。この図書館で本を読む子たちを、これからも見守ってる」
花音は光に包まれ、柔らかな笑みを残して消えた。
翌朝。児童書コーナーは、今までで一番整然と美しく整えられていた。おすすめの本には小さなリボンが結ばれ、まるで優しい手が添えられたかのようだった。
その後も、図書館には不思議な現象が起きた。迷子の子供は必ず親と再会でき、良い本を探す子にはぴったりの一冊が見つかる。本を粗末に扱う子の前では、ページがひとりでに閉じてしまう。
優子は知っていた。――花音が、この図書館の守り人になったのだ。
やがて館内の片隅に、小さな碑が置かれた。
「田中花音ちゃん 永遠の読書家 この図書館を愛した天使」
今日も子供たちの笑い声が本棚にこだまし、時折、風もないのにページがめくられる。
それは花音が、子供たちと一緒に物語を楽しんでいる証。
死によって途切れた読書の時間を――永遠に紡ぎ続けながら。




