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返さない図書室~読めば戻らない。返すのは、あなたの一部。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/28

 閉館十分前になると、貸出カウンターのアクリル板に沈んだ館内の空気が、ゆっくりと固まっていくのがわかる。今日の私は早番で、十九時ちょうどにレジを閉め、二十分で館内巡回、三十分で施錠。鍵束は赤・青・銀のタグに分かれている。赤は閉架、青は事務室、銀は返却ポストの底。

 指先に紙の厚みを量る癖がついたのは、ここで働き始めてからだ。

 その夜、児童書コーナーを回っていた私は、棚の端に差し込まれた一冊を見つけた。くたびれたハードカバーに、鮮やかな赤い帯。帯の中央に、白いゴシック体で——《返却不要》とある。

 寄贈本の臨時帯と似ているが、違う。寄贈本には寄贈者名の記載がある。これはない。背ラベルは当館の規格通りの活版で、分類番号も題名も整っているのに、帯だけが無愛想だった。

 「花房さん、これ……」

 閉館ボランティアの花房早苗さんが、児童カウンターでブックトラックを押していた。白髪を後頭部でまとめ、赤いタグのついた鍵束をエプロンのポケットに入れている。

 「返却不要、ね。見なかったことにして棚に戻しておいて」

 「手続きは? 帯が市の形式じゃないです」

 「昔からあるの。寄贈扱いで、返さなくていいやつ」

 昔から。

 言い置いて、花房さんは奥へ消えた。私がこの図書館で働き始めたのは二年前だから、“昔”の範囲はわからない。

 赤い帯はしっとりとしていた。帯紙の厚みは上質紙のそれで、指の腹に汗がにじむ。私は本能的に拭い、貸出カウンターの端に置いた。

 閉館を告げるチャイムの音色は、薄い金属の板を爪で弾いたように乾いていた。



 持ち帰るつもりはなかった。けれど私は、気づけばトートバッグの底にその本を滑り込ませていた。

 帰りの路上は湿っていた。二月、夜の風が細く刺す。アパートに戻って湯を沸かし、私は赤い帯を外した。帯に貼られていた小さなタグにQRコードがあり、読み込むと当館の蔵書検索画面が開いた。

 書誌情報は正常だった。著者名は「坂東白ばんどう しろ」。見覚えがない名前だ。帯の内側には黒いスタンプで、こうある。


 ——貸出記録は著者欄に記す。返却は不要。


 奇妙な注意書きだ。

 読み始めると、最初の十ページで私はすっかり静かになった。内容はありふれていて、街の小さな争いと和解を書いた掌編の連なり。文章は乾いていて、語尾はやや古風。けれど視線が紙に吸い寄せられる。

 ページの端に指をかけるたび、紙の重みが少し変わる。薄くなるわけではない。むしろ、私の指先の方が紙に寄っていく。

 湯が沸いたことに気づかないほど、読み進めた。最後の章で、主人公の少年が誰かに向かって言う。「返すべきものを返せば、街は静かになる」。

 閉じる。

 部屋の時計は二十三時を回っていた。湯は冷え、私は電気ケトルのスイッチを再び押した。

 その夜、夢を見た。

 広い机の上に、薄い薄い紙片が散らばっている。どれも白く、少しだけ光を含んでいる。私が指先で一枚をつまむと、紙の縁が私の皮膚に吸い付いて、静かに剥がれた。膜を一枚剥がすみたいに。それは「嬉しい」という文字のない感覚だった。友人と食べたホットケーキの湯気、初めて配架を任された日の高揚、絵本を選んでくれた子どもの笑顔。指先から、その滑らかさが抜け出て、紙に移る。紙片は栞の形になって、どこかへ滑っていった。

 目が覚めた。指の腹が、少しだけ冷たい。嬉しい、という言葉を頭の中で唱えると、意味はわかるのに、手触りが遠い。

 嫌な夢だ。私は爪を見て、手を握って開いた。大丈夫、と自分に言い聞かせる。



 翌朝、私は出勤してすぐ、システム室の窓を叩いた。派遣のシステム保守、窪田陸がコーヒーを飲んでいた。

 「貸出記録、昨日の棚卸し分に変な動きありませんでした?」

 「変な?」

 「赤い帯の本。その……返却不要ってやつ」

 「そんなデータ項目、あったっけ」

 彼はモニターを二枚並べ、蔵書管理システムのログに当たる。コードの流れはいつ見ても読めないが、窪田の指は正確に動く。

 「昨夜二十三時、著者マスタに上書きがある。対象書誌は——これ、君のIDで閲覧されてるな」

 「私が読んでました」

 「著者名が……“榊原澪”になってる」

 心臓の拍が一つ遅れた。

 「なにそれ、冗談?」

 「ログは本物。著者フィールドに追記形式で“坂東白;榊原澪”って記録。しかも、同時刻に“栞”って外部テーブルへのポインタが増えてる。外部連携は現状ないはずなんだけど」

 「栞……?」

 私は荷物を抱え直した。指先に微かなざらつきが残っている。

 「著者欄に、読者の名前が入るなんて仕様、聞いたことがない。窪田さん、元データの履歴、もう少し辿れます?」

 「昼までくれ。図書館の創設時に入れられたカスタムがあるなら、古いファイルサーバの中だ」

 謝って部屋を出た。児童カウンターには、二人の中学生が寄りかかって、スマホを見せ合っている。

 「ねえ、貸出履歴ってどこで見れるの?」

 「個人情報だから窓口だよ。本人確認が必要」

 「じゃ、著者の名前ってさ、変えられる?」

 「変えられないよ」

 「でも、昨日読んだ本、今日見たら著者がぜんぜん違っててさ。俺の苗字が入ってんの。コワ」

 私は笑ってごまかした。

 「システムのバグかも。教えてくれてありがとう」

 彼らが去ったあと、貸出カウンターの端に薄い紙片が一枚、落ちているのに気づいた。白く、細長い。

 栞だ、と思った。拾い上げると、紙の表面は驚くほど滑らかだった。私の夢に出てきた、あの手触り。触れた瞬間、胸の奥にある“嬉しい”が微かに鳴って、その音が紙の中に吸われる。

 私は慌てて手を離した。



 昼休み、花房さんに声をかけた。

 「返却不要の帯、本当に昔からあるんですか」

 「ええ。創設者の時代から」

 「創設者?」

 「戦後すぐにこの図書館を作った人。寄贈ばかり受けていたから、返さなくていい本が多かったのね。返せない人もいたから、帯で区別したのよ」

 「それは制度上の話ですよね。……“著者欄が読者になる”って、知ってますか」

 花房さんのまぶたが一度だけ固まった。

 「なにを見たの」

「昨夜読んだら、今朝、著者欄に私の名前が増えてました。栞のテーブルが……って、これは窪田さんの言葉ですけど、とにかく変なんです」

 「銀のタグ、持ってる?」

 問いが脈絡なく飛んできた。

 「返却ポストの鍵?」

 「そう。今夜、閉館後に一緒に降りましょう」

 その声が少しだけ掠れているのを、私ははじめて聞いた。



 閉館。施錠。館内の人の気配が消え、空調の風だけが横に流れていく。

 返却ポストは玄関脇にある。外側の投入口から入った本は、金属のシュートを滑って、事務室脇の箱で受け止められる仕組みだ。

 私と花房さんは、事務室の奥の扉を銀のタグで開けた。さらに下へ続く細い階段。冷たい空気が吹き上がってくる。

 シュートの底板に鍵穴があり、そこにも銀のタグが合った。底板を外すと、そこには箱ではなく、斜めに落ちていく鉄のスロープが現れた。

 「ここから先は“別室”。返却ポストの先」

 足元の鉄が乾いた音を出す。私たちは懐中電灯で照らし、慎重に降りた。

 地下の部屋は、思っていたより広くない。四畳半ほどの空間に、古い木製の本棚が壁一面に立てられ、棚には“赤帯本”が背を並べていた。どれも帯は赤く、紙の端は少しだけ擦れている。

 部屋の中央には、ガラスのケース。中には栞が束になっている。色は白、あるいは白より少し透明に寄った白。

 「創設者は“返却不要”を人に優しい制度だと言って始めたの」

 花房さんはケースの上に手を置いた。

 「戦後はね、街の人たちが抱えていたものが大きすぎた。怒り、悲しみ、やり場のないもの。それを本に通して薄くする。読むたびに、少しずつ剥がれていく。返さなくていい。返すのは別のものだから」

 「……栞」

 「そう。栞は薄いから、たくさん束ねれば静かになる。図書館は静かでしょう?」

 冗談のような口ぶりだったが、目は笑っていなかった。

 「知っていたなら、止めなかったんですか」

「止められなかった。私は“貸出しの人”で、“返却の人”じゃないから」

 ガラスケースの横に、薄い赤いファイルが置かれている。そこには活版で短い規程が打たれていた。


 ——返却不要の書は、読了者の“重複可能感情”を薄片にし、別室に保管する。

 ——薄片は“栞”と呼称。

——著者欄は読了者を追記し、街の履歴とする。

 ——返却は“栞”のことを指す。


 「返すべきものは本ではない」

 私は、昨夜読んだ本の最後の一文を思い出していた。

 「これ、誰が始めたんです」

 「創設者よ。名前は……私たちの資料には残っていない。けれど、最初の赤帯本の背に、かすかなインクが残っているの」

 花房さんは最上段の一冊を取った。帯は色が薄れて、桃色に近い。背の溝に、擦れた活字。

 《さ——白》

 「“坂東白”。あなたが昨夜読んだ、あの名前」

 背筋が冷えた。

 「坂東白なんて作家、聞いたことがない」

 「著者なんて、どこにでもいるの。読者の数だけ」

 花房さんは栞の束の上にそっと手を置いた。

 「持っていくといいわ。あなたのものが混ざっているはず」



 次の日から、私は“嬉しい”の厚みを求めて、無意識にさまざまなものの手触りを確かめるようになった。

 絵本の厚紙は滑る。返却済みの本のページは乾いている。レシートはざらつき、クッキーの缶のふたはひんやりとしながら、指紋を淡く写す。

 でも——本物は別にあった。

 “返さない図書室”から持ち帰った栞の束の中に、一本だけ、他のどれとも違う手触りのものがあった。触れた瞬間、真昼の光が頬に落ち、誰かの笑い声が耳の奥で弾ける。私はそれを指の腹で挟み、息を止めた。

 初めて児童カウンターに立った日の、緊張と喜び。自分が居場所を得た、という確かな実感。

 私は栞を胸に当て、目を閉じた。ほんの一秒、その“嬉しい”は戻ってきた。けれど次の瞬間、栞は指の間でするりと滑って、光は紙の方へ吸い込まれた。

 返却されるために束ねられたもの。

 窪田から、システムの解析結果が送られてきた。

 ——創設時からのカスタムは、著者欄に多重追記するトリガと、外部テーブル“栞”へのポインタ作成。

 ——“栞”は物理保管だが、台帳は電子。返却フラグを立てる関数が存在。

 ——フラグが立つと、著者欄から当該読了者の名前が薄くなる(削除ではない)。

 ——返却フラグの起動キーは、管理者権限と“赤ファイル”の署名。


 「赤ファイルなら、地下にありました」

 私は返信を書いた。

 夜、私は再び銀のタグを持って階段を降りた。

 花房さんは来なかった。彼女は昼間、「あとはあなたが決めること」とだけ言い、赤いタグの赤を指先で撫でた。

 地下の部屋に入ると、空気は昨日より冷たく、乾いていた。栞の束は変わらずガラスケースの中にあり、赤いファイルには細い裂け目が入っていた。

 私はケースを開け、自分の栞を探した。指が勝手に選ぶ。触れた瞬間にわかる。

 栞を胸に当て、短く息を吸う。

 「返す」

 自分で言って、自分で驚いた。

 この言葉が、どこへ届くのかもわからないのに。

 私は赤いファイルを開き、台帳の“返却”の欄に、自分の名前を手書きした。ファイルの最後のページに、封筒が一枚、挟まっている。封筒には“閉架”とスタンプが押してあった。

 封に、貼り直しの跡。

 私は封を剥がし、創設者の記録——薄い原稿用紙の束——を入れて、丁寧に封緘した。

 「これを送る」

 誰に、とは書いていない。でもここでしか終われない仕組みなら、起点を閉じるしかない。

 赤いファイルの署名欄に、震える手で名前を書いた。榊原澪。

 その瞬間、地下の部屋の空気が少し柔らいだ。ガラスケースの中の栞の束が、紙の音を立てて微妙に動いたように見えた。

 私は栞を一本、赤帯本の間へ差し込んだ。帯紙がそれを受け入れるように、ほんのわずかに湿った。



 翌朝、貸出記録を開くと、著者欄の私の名前は、確かに薄くなっていた。削除はされない。そこにあるけれど、スクリーンショットでは判読できないくらいの濃度になっている。

 児童カウンターに、昨日の中学生たちが来た。

 「ねえ、著者の名前、なんか戻ってた。俺の名前、ちょっと薄くなって、元の名前が上に来てた」

 「そう」

 私は笑って頷いた。

 「返されたのよ」

 「え、なにが?」

 「栞」

 彼らはぽかんとし、やがて笑って、何事もなかったように出て行った。

 窪田は午後に現れ、無言で紙袋を差し出した。中には、図書館の封筒が入っている。宛名は「閉架資料室 管理」。差出は「榊原澪」。

 「投函しておいた。昨日の夜」

 「ありがとう」

「君の署名が、トリガになってた」

 「創設者の原本、閉じたんだと思う。これで止まる?」

 窪田は首を振った。

 「減速はする。でも止まらない。“返却不要”はすでに文化になってる。人は楽な方へ行くし、街は静かな方を選ぶ。僕だって」

 彼は自嘲気味に笑い、コーヒーの缶を握り直した。

 「君はどうする。また読むのか」

 「わからない。でも、返すのは覚えておく」

 私は児童書の棚に手を伸ばし、分厚い絵本の背を撫でた。厚みが指先にある。

 花房さんは、その日を境にボランティアをやめた。赤いタグの鍵束は、事務室のフックにかかっている。

 街は少しだけ明るくなった気がした。生まれたばかりの春の陽に、通学路の上着のチャックがいくつも開いている。怒声は減り、笑い声は……どうだろう。増えたと信じたい。

 けれど夜になると、返却ポストの蓋が、ときどきひとりでに震える。誰かがそこに、本以外のものを滑り込ませているみたいに。


終章


 閉館十分前、私は貸出カウンターの端に、また赤い帯の本を見つけた。

 帯の表には《返却不要》。

 内側には、かすれたスタンプ。

 ——貸出記録は著者欄に記す。返却は不要。

 私は帯を指でなぞった。紙はしっとりしている。指の腹は、昨夜より温かい。

 返すべきものを返したからだ、と自分に言い聞かせる。

 蔵書検索を開く。

 “坂東白”。その下に、薄く薄く、誰かの名前がいくつも重ねられている。

 スクロールバーを降ろし、いちばん下に目を凝らす。小さな文字が、画面の解像度の限界でにじんでいる。

 ——著者:あなた。

 私は息を止め、指先で画面を拡大した。

 あなた。

 誰のことでもなく、いつでも誰かのこと。

 私は帯を元に戻し、棚へ押し込んだ。返却ポストから小さな金属音がした。

 きょう返さなかったのは、本じゃない。——あなたの番だ。

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