返さない図書室~読めば戻らない。返すのは、あなたの一部。
閉館十分前になると、貸出カウンターのアクリル板に沈んだ館内の空気が、ゆっくりと固まっていくのがわかる。今日の私は早番で、十九時ちょうどにレジを閉め、二十分で館内巡回、三十分で施錠。鍵束は赤・青・銀のタグに分かれている。赤は閉架、青は事務室、銀は返却ポストの底。
指先に紙の厚みを量る癖がついたのは、ここで働き始めてからだ。
その夜、児童書コーナーを回っていた私は、棚の端に差し込まれた一冊を見つけた。くたびれたハードカバーに、鮮やかな赤い帯。帯の中央に、白いゴシック体で——《返却不要》とある。
寄贈本の臨時帯と似ているが、違う。寄贈本には寄贈者名の記載がある。これはない。背ラベルは当館の規格通りの活版で、分類番号も題名も整っているのに、帯だけが無愛想だった。
「花房さん、これ……」
閉館ボランティアの花房早苗さんが、児童カウンターでブックトラックを押していた。白髪を後頭部でまとめ、赤いタグのついた鍵束をエプロンのポケットに入れている。
「返却不要、ね。見なかったことにして棚に戻しておいて」
「手続きは? 帯が市の形式じゃないです」
「昔からあるの。寄贈扱いで、返さなくていいやつ」
昔から。
言い置いて、花房さんは奥へ消えた。私がこの図書館で働き始めたのは二年前だから、“昔”の範囲はわからない。
赤い帯はしっとりとしていた。帯紙の厚みは上質紙のそれで、指の腹に汗がにじむ。私は本能的に拭い、貸出カウンターの端に置いた。
閉館を告げるチャイムの音色は、薄い金属の板を爪で弾いたように乾いていた。
二
持ち帰るつもりはなかった。けれど私は、気づけばトートバッグの底にその本を滑り込ませていた。
帰りの路上は湿っていた。二月、夜の風が細く刺す。アパートに戻って湯を沸かし、私は赤い帯を外した。帯に貼られていた小さなタグにQRコードがあり、読み込むと当館の蔵書検索画面が開いた。
書誌情報は正常だった。著者名は「坂東白」。見覚えがない名前だ。帯の内側には黒いスタンプで、こうある。
——貸出記録は著者欄に記す。返却は不要。
奇妙な注意書きだ。
読み始めると、最初の十ページで私はすっかり静かになった。内容はありふれていて、街の小さな争いと和解を書いた掌編の連なり。文章は乾いていて、語尾はやや古風。けれど視線が紙に吸い寄せられる。
ページの端に指をかけるたび、紙の重みが少し変わる。薄くなるわけではない。むしろ、私の指先の方が紙に寄っていく。
湯が沸いたことに気づかないほど、読み進めた。最後の章で、主人公の少年が誰かに向かって言う。「返すべきものを返せば、街は静かになる」。
閉じる。
部屋の時計は二十三時を回っていた。湯は冷え、私は電気ケトルのスイッチを再び押した。
その夜、夢を見た。
広い机の上に、薄い薄い紙片が散らばっている。どれも白く、少しだけ光を含んでいる。私が指先で一枚をつまむと、紙の縁が私の皮膚に吸い付いて、静かに剥がれた。膜を一枚剥がすみたいに。それは「嬉しい」という文字のない感覚だった。友人と食べたホットケーキの湯気、初めて配架を任された日の高揚、絵本を選んでくれた子どもの笑顔。指先から、その滑らかさが抜け出て、紙に移る。紙片は栞の形になって、どこかへ滑っていった。
目が覚めた。指の腹が、少しだけ冷たい。嬉しい、という言葉を頭の中で唱えると、意味はわかるのに、手触りが遠い。
嫌な夢だ。私は爪を見て、手を握って開いた。大丈夫、と自分に言い聞かせる。
三
翌朝、私は出勤してすぐ、システム室の窓を叩いた。派遣のシステム保守、窪田陸がコーヒーを飲んでいた。
「貸出記録、昨日の棚卸し分に変な動きありませんでした?」
「変な?」
「赤い帯の本。その……返却不要ってやつ」
「そんなデータ項目、あったっけ」
彼はモニターを二枚並べ、蔵書管理システムのログに当たる。コードの流れはいつ見ても読めないが、窪田の指は正確に動く。
「昨夜二十三時、著者マスタに上書きがある。対象書誌は——これ、君のIDで閲覧されてるな」
「私が読んでました」
「著者名が……“榊原澪”になってる」
心臓の拍が一つ遅れた。
「なにそれ、冗談?」
「ログは本物。著者フィールドに追記形式で“坂東白;榊原澪”って記録。しかも、同時刻に“栞”って外部テーブルへのポインタが増えてる。外部連携は現状ないはずなんだけど」
「栞……?」
私は荷物を抱え直した。指先に微かなざらつきが残っている。
「著者欄に、読者の名前が入るなんて仕様、聞いたことがない。窪田さん、元データの履歴、もう少し辿れます?」
「昼までくれ。図書館の創設時に入れられたカスタムがあるなら、古いファイルサーバの中だ」
謝って部屋を出た。児童カウンターには、二人の中学生が寄りかかって、スマホを見せ合っている。
「ねえ、貸出履歴ってどこで見れるの?」
「個人情報だから窓口だよ。本人確認が必要」
「じゃ、著者の名前ってさ、変えられる?」
「変えられないよ」
「でも、昨日読んだ本、今日見たら著者がぜんぜん違っててさ。俺の苗字が入ってんの。コワ」
私は笑ってごまかした。
「システムのバグかも。教えてくれてありがとう」
彼らが去ったあと、貸出カウンターの端に薄い紙片が一枚、落ちているのに気づいた。白く、細長い。
栞だ、と思った。拾い上げると、紙の表面は驚くほど滑らかだった。私の夢に出てきた、あの手触り。触れた瞬間、胸の奥にある“嬉しい”が微かに鳴って、その音が紙の中に吸われる。
私は慌てて手を離した。
四
昼休み、花房さんに声をかけた。
「返却不要の帯、本当に昔からあるんですか」
「ええ。創設者の時代から」
「創設者?」
「戦後すぐにこの図書館を作った人。寄贈ばかり受けていたから、返さなくていい本が多かったのね。返せない人もいたから、帯で区別したのよ」
「それは制度上の話ですよね。……“著者欄が読者になる”って、知ってますか」
花房さんのまぶたが一度だけ固まった。
「なにを見たの」
「昨夜読んだら、今朝、著者欄に私の名前が増えてました。栞のテーブルが……って、これは窪田さんの言葉ですけど、とにかく変なんです」
「銀のタグ、持ってる?」
問いが脈絡なく飛んできた。
「返却ポストの鍵?」
「そう。今夜、閉館後に一緒に降りましょう」
その声が少しだけ掠れているのを、私ははじめて聞いた。
五
閉館。施錠。館内の人の気配が消え、空調の風だけが横に流れていく。
返却ポストは玄関脇にある。外側の投入口から入った本は、金属のシュートを滑って、事務室脇の箱で受け止められる仕組みだ。
私と花房さんは、事務室の奥の扉を銀のタグで開けた。さらに下へ続く細い階段。冷たい空気が吹き上がってくる。
シュートの底板に鍵穴があり、そこにも銀のタグが合った。底板を外すと、そこには箱ではなく、斜めに落ちていく鉄のスロープが現れた。
「ここから先は“別室”。返却ポストの先」
足元の鉄が乾いた音を出す。私たちは懐中電灯で照らし、慎重に降りた。
地下の部屋は、思っていたより広くない。四畳半ほどの空間に、古い木製の本棚が壁一面に立てられ、棚には“赤帯本”が背を並べていた。どれも帯は赤く、紙の端は少しだけ擦れている。
部屋の中央には、ガラスのケース。中には栞が束になっている。色は白、あるいは白より少し透明に寄った白。
「創設者は“返却不要”を人に優しい制度だと言って始めたの」
花房さんはケースの上に手を置いた。
「戦後はね、街の人たちが抱えていたものが大きすぎた。怒り、悲しみ、やり場のないもの。それを本に通して薄くする。読むたびに、少しずつ剥がれていく。返さなくていい。返すのは別のものだから」
「……栞」
「そう。栞は薄いから、たくさん束ねれば静かになる。図書館は静かでしょう?」
冗談のような口ぶりだったが、目は笑っていなかった。
「知っていたなら、止めなかったんですか」
「止められなかった。私は“貸出しの人”で、“返却の人”じゃないから」
ガラスケースの横に、薄い赤いファイルが置かれている。そこには活版で短い規程が打たれていた。
——返却不要の書は、読了者の“重複可能感情”を薄片にし、別室に保管する。
——薄片は“栞”と呼称。
——著者欄は読了者を追記し、街の履歴とする。
——返却は“栞”のことを指す。
「返すべきものは本ではない」
私は、昨夜読んだ本の最後の一文を思い出していた。
「これ、誰が始めたんです」
「創設者よ。名前は……私たちの資料には残っていない。けれど、最初の赤帯本の背に、かすかなインクが残っているの」
花房さんは最上段の一冊を取った。帯は色が薄れて、桃色に近い。背の溝に、擦れた活字。
《さ——白》
「“坂東白”。あなたが昨夜読んだ、あの名前」
背筋が冷えた。
「坂東白なんて作家、聞いたことがない」
「著者なんて、どこにでもいるの。読者の数だけ」
花房さんは栞の束の上にそっと手を置いた。
「持っていくといいわ。あなたのものが混ざっているはず」
六
次の日から、私は“嬉しい”の厚みを求めて、無意識にさまざまなものの手触りを確かめるようになった。
絵本の厚紙は滑る。返却済みの本のページは乾いている。レシートはざらつき、クッキーの缶のふたはひんやりとしながら、指紋を淡く写す。
でも——本物は別にあった。
“返さない図書室”から持ち帰った栞の束の中に、一本だけ、他のどれとも違う手触りのものがあった。触れた瞬間、真昼の光が頬に落ち、誰かの笑い声が耳の奥で弾ける。私はそれを指の腹で挟み、息を止めた。
初めて児童カウンターに立った日の、緊張と喜び。自分が居場所を得た、という確かな実感。
私は栞を胸に当て、目を閉じた。ほんの一秒、その“嬉しい”は戻ってきた。けれど次の瞬間、栞は指の間でするりと滑って、光は紙の方へ吸い込まれた。
返却されるために束ねられたもの。
窪田から、システムの解析結果が送られてきた。
——創設時からのカスタムは、著者欄に多重追記するトリガと、外部テーブル“栞”へのポインタ作成。
——“栞”は物理保管だが、台帳は電子。返却フラグを立てる関数が存在。
——フラグが立つと、著者欄から当該読了者の名前が薄くなる(削除ではない)。
——返却フラグの起動キーは、管理者権限と“赤ファイル”の署名。
「赤ファイルなら、地下にありました」
私は返信を書いた。
夜、私は再び銀のタグを持って階段を降りた。
花房さんは来なかった。彼女は昼間、「あとはあなたが決めること」とだけ言い、赤いタグの赤を指先で撫でた。
地下の部屋に入ると、空気は昨日より冷たく、乾いていた。栞の束は変わらずガラスケースの中にあり、赤いファイルには細い裂け目が入っていた。
私はケースを開け、自分の栞を探した。指が勝手に選ぶ。触れた瞬間にわかる。
栞を胸に当て、短く息を吸う。
「返す」
自分で言って、自分で驚いた。
この言葉が、どこへ届くのかもわからないのに。
私は赤いファイルを開き、台帳の“返却”の欄に、自分の名前を手書きした。ファイルの最後のページに、封筒が一枚、挟まっている。封筒には“閉架”とスタンプが押してあった。
封に、貼り直しの跡。
私は封を剥がし、創設者の記録——薄い原稿用紙の束——を入れて、丁寧に封緘した。
「これを送る」
誰に、とは書いていない。でもここでしか終われない仕組みなら、起点を閉じるしかない。
赤いファイルの署名欄に、震える手で名前を書いた。榊原澪。
その瞬間、地下の部屋の空気が少し柔らいだ。ガラスケースの中の栞の束が、紙の音を立てて微妙に動いたように見えた。
私は栞を一本、赤帯本の間へ差し込んだ。帯紙がそれを受け入れるように、ほんのわずかに湿った。
七
翌朝、貸出記録を開くと、著者欄の私の名前は、確かに薄くなっていた。削除はされない。そこにあるけれど、スクリーンショットでは判読できないくらいの濃度になっている。
児童カウンターに、昨日の中学生たちが来た。
「ねえ、著者の名前、なんか戻ってた。俺の名前、ちょっと薄くなって、元の名前が上に来てた」
「そう」
私は笑って頷いた。
「返されたのよ」
「え、なにが?」
「栞」
彼らはぽかんとし、やがて笑って、何事もなかったように出て行った。
窪田は午後に現れ、無言で紙袋を差し出した。中には、図書館の封筒が入っている。宛名は「閉架資料室 管理」。差出は「榊原澪」。
「投函しておいた。昨日の夜」
「ありがとう」
「君の署名が、トリガになってた」
「創設者の原本、閉じたんだと思う。これで止まる?」
窪田は首を振った。
「減速はする。でも止まらない。“返却不要”はすでに文化になってる。人は楽な方へ行くし、街は静かな方を選ぶ。僕だって」
彼は自嘲気味に笑い、コーヒーの缶を握り直した。
「君はどうする。また読むのか」
「わからない。でも、返すのは覚えておく」
私は児童書の棚に手を伸ばし、分厚い絵本の背を撫でた。厚みが指先にある。
花房さんは、その日を境にボランティアをやめた。赤いタグの鍵束は、事務室のフックにかかっている。
街は少しだけ明るくなった気がした。生まれたばかりの春の陽に、通学路の上着のチャックがいくつも開いている。怒声は減り、笑い声は……どうだろう。増えたと信じたい。
けれど夜になると、返却ポストの蓋が、ときどきひとりでに震える。誰かがそこに、本以外のものを滑り込ませているみたいに。
終章
閉館十分前、私は貸出カウンターの端に、また赤い帯の本を見つけた。
帯の表には《返却不要》。
内側には、かすれたスタンプ。
——貸出記録は著者欄に記す。返却は不要。
私は帯を指でなぞった。紙はしっとりしている。指の腹は、昨夜より温かい。
返すべきものを返したからだ、と自分に言い聞かせる。
蔵書検索を開く。
“坂東白”。その下に、薄く薄く、誰かの名前がいくつも重ねられている。
スクロールバーを降ろし、いちばん下に目を凝らす。小さな文字が、画面の解像度の限界でにじんでいる。
——著者:あなた。
私は息を止め、指先で画面を拡大した。
あなた。
誰のことでもなく、いつでも誰かのこと。
私は帯を元に戻し、棚へ押し込んだ。返却ポストから小さな金属音がした。
きょう返さなかったのは、本じゃない。——あなたの番だ。




